Pannyadhikaさん Ven.(長老の尊称)、定と慧について 2004,4,13,

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曽我様

貴HP読ませて頂きました。
仏教の本質と根源について、お一人で精緻な研究をなされておられるご様子、感心いたしました。
私もタイにおりましたときは、ブッダダーサ比丘にお会いしたく思っておりましたが、スワンモークに出向くチャンスのないまま、お亡くなりに成られ、とても残念に思いました。

さて、HPを読みまして、以下、二点につき、僭越ながら意見を述べさせて頂きます。
(1)タイなどでは、尊敬されているかどうかに関係なく、僧侶の肩書きに Ven.をつけることはあります。英語の仏教書で 「○○ Bhikkhu」 と書いたのでは理解してもらえない、と判断したときなどが、そうです。
なお現代のサンガで、「長老(テーラー)」は、我々が考えているほど、権威はありません。タイでは、出家して10年たつと、どなたも「長老」です。
(かといって、日常的に「○○長老」と呼び合っているのを聞いたことがありません。)

(2)定と慧について。
あまりに深すぎる定は、何ものをも観察することができなくて、智慧を生まない、という意見は、ごもっともです。
しかし、定が浅すぎては、無常、無我に対し、何の洞察もすることができません。
また、定が強力でないとき、心は有分心に落ち込み易い。
しかし、修行者にその自覚がないと、心がただ有分心に落ち込んでいるだけなのに「私に観られるものも、観るものもなくなった」「涅槃を証した」と誤解するようです。

このことは、ビルマの僧侶の「智慧の光」「如実知見」に詳しいです。
もしご興味がありましたら、拙訳がありますので、「山下良道」検索→「パオ・セヤドー法話集」をクリックしてご参照ください。

Pannyadhika(釈叡智)合掌
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 (Pannyadhikaさんのホームページ「パオ・セヤドー法話集」は、リンクのページに掲載しました。)


Pannyadhikaさんへの返事 2004,4,19,

拝啓

 御親切な御教授を頂き恐縮です。

 なるほど、おおらかというか、大袈裟に気にするほどのものではないということですね。肩書きによって優れた僧になるのではない、行ないによって優れた僧になる・・・ 行ないや説かれるところにこそ注目すべきだと再認識させていただきました。

 深すぎる定については、日本でよく言われる「無念無想」にどれほどの効果があるのか、疑問を感じていたということが背景にあります。「無念無想」とか「主客未分」と言われる状態になることは可能でしょうが、その状態ではなにもできない。その時、私という現象は起こっておらず(小論集「ダマシオ 「無意識の脳 自己意識の脳」 を読んで」を参照下さい)、それによって釈尊の教えの理解が進むとは思えません。どうすれば自分の無常=無我=縁起を知ることができるのか、その方法を探しあぐねている時に、ヴィパッサナーを知り、対象観察のある、つまり「主客のある」定という可能性もあるのだ、と目を開かれる思いがしました。定において自分で自分を観察して、「なるほど確かに自分は無常で無我で縁起しており苦しんでいる」と知る。釈尊の教えへの愚直なまでに真っ正直なアプローチだと感心しました。そしてブッダダーサ比丘の言葉に「深すぎて役に立たない定」という言葉を見つけ、これは主客未分の無念無想のことに違いないと思ったわけです。(ひょっとすると大きな勘違いかもしれませんが、、)

 大乗の修行が「無念無想、はからいを止める、あるがまま、己を空しくする」といった空回りの空疎なものになりがちなのに対して、南伝仏教の瞑想は、内容・過程が具体的で詳細であること、また釈尊の様々な教えと結びつけて説明されている点、驚くばかりです。
 これは、大乗が空疎化してしまったのか、南方(ビルマ?)で瞑想が発達したのか? おそらく両方なのでしょうね。大抵のヴィパッサナー関係団体は、ヴィパッサナーは釈尊の方法だと主張していますが、師を辿って行くと数代前までしか記載していませんし、ブッダダーサ比丘もヴィパッサナーは後代に開発されたと書いておられました。でも、釈尊は何度も何度も「眠るな、努め励めよ」と瞑想を奨励されていますし、安般守意経や念住経に説かれているような止と観の修行が釈尊の時代からありますから、それが近代にビルマでさらに緻密に発展したということかと想像します。でも、こんなことはどうでもいいことですね。要はそれによって釈尊の教えが自分の身において本当に分かれば、、。
 ところがこれが悔しいことに、なかなか瞑想のステップは進んで行きません。自分の集中度が低いことが原因だとは分かっておりますが、、。やはりちゃんとした指導者の元で、集中的にやらないと無理なのでしょうか?

 「パオ・セヤドー法話集」のサイト、覗かせていただきました。確かに漢語が多くて、私にはむずかしい内容です。単に表現上のことだけではなく、真剣に実修に取り組んで来た人向けに書かれているため、私のような耳学問・目学問の人間には書かれていることがイメージできません。(かえって書かれていることを勝手に解釈・想像して、それを瞑想で追体験しようとしてしまいそうな気もしました。)

 各国語にお詳しく、言葉を大切にする方だとお見受け致しました。ブッダダーサ比丘のおっしゃる "the truth-discerning awareness"(パーリ語 satipanna )は漢語では何に当たるのでしょう? 直訳すれば「念般若」でしょうが、辞書には見つけられませんでした。気になっております。お分かりでしたらお教え下さい。また、なんであれ私のサイトにおかしな所があれば、是非ご指摘下さいますようお願い致します。

 今後とも宜しくお願い申し上げます。
                                 敬具
Pannyadhika 様
        2004、4、19,
                                 曽我逸郎


Pannyadhikaさんから再び 2004,4,19,

曽我さま

丁寧なmailをありがとうございます。曽我様のご意見の中で、私が補足(蛇足?)できそうなところを書いてみます。

> 深すぎる定については、日本でよく言われる「無念無想」にどれほどの効果があるのか・・
☆先般、禅宗の修行をされている在家の方とお話しましたら、彼は「禅宗とは一気に滅尽定に入ることをねらっているのだ」と言っていました。滅尽定とは「涅槃」の別名ですよね。
タイにいたとき、タイの僧侶から「禅宗は身念処、受念処、心念処をとばして、いきなり法念処をやろうとするから、利根の者は頓悟するが、そうでない人は、<ただ座っているだけ>になってしまう」というコメントを聞いたことがあります。このことから私は、「人は、色身と心の無常・無我の段階的な洞察抜きに、いきなり涅槃を体験できるものなのか、どうか」という疑問を持つ訳ですが、中国では唐と宋の時代に多くの覚者がでたそうですから、「禅宗は間違っている」と言い切ることは、できないように思います。現代人は、禅宗の修行方法を理解も、実践もできなくなったのかも知れません。ただ、現代は、禅宗の悟りの狙いが、無常・無我よりも、「梵我一如」にすり替わっていそうで、別の意味で、懸念します。

☆定には8つ(+番外)が、あります。初禅〜第四禅の4禅と、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の4つ(四無色禅)と、番外の滅尽定(涅槃)です。

以下は私なりの持論です(間違っていたら、ごめんなさい)。

初禅〜第四禅までは、ヴィパサナーの役に立ちます。というか、第四禅までできなければヴィパサナーはできません。しかし、後ろの4つ(四無色禅)は、主に超能力などの啓発に用いられる定であって、これがなくてもヴィパサナーはできます。四無色禅を修行せず、初禅〜第四禅だけで無常・無我を洞察して、アラカンになる修行者を「純観行者」といいます。
この人たちには超能力はありませんが、涅槃には比較的早く、行けます。
そんなに早く涅槃に行こうと思わない者は、四無色禅を修習し、行捨智の段階から先は「アラカン道」ではなく「菩薩道」を選べば、「菩薩」になることもできます。
菩薩道を選んだ場合、最後には、一切智をもつ「ブッダ」になることもできます(ゴータマ・シッダールタはこの道を歩みました)。

> ところがこれが悔しいことに、なかなか瞑想のステップは進んで行きません。自分の集中度が低いことが原因だとは分かっておりますが、、。やはりちゃんとした指導 ・・

☆「私は、集中度が低い」と漠然と言うのでなくて、「初禅ができない」とか、「初禅はできるが二禅ができない」とか、禅定の定義を理解した上で、僧侶に指導を仰げば、次に何を修習したらよいか、教えて頂けるのではないでしょうか?
(ただし、修行内容を順序立てて説明し、かつそのように指導してくれる、「よい僧侶」に出会うのは至難の業です^^;)。

> 「パオ・セヤドー法話集」のサイト、覗かせていただきました。確かに漢語が多く て、私にはむずかしい内容です。単に表現上のことだけではなく、真剣に実修に取り ・・
☆「難しい」という声は聞きますが、あれ以上崩して表現することが、なかなかできません。アビダルマは「定義が命」ですから、好き勝手に表現を変えることができないのです。定義を理解するには、日本語版「アビダンマッタサンガハ」(5000円)が参考になるかと思います。
真剣に修行すれば、「智慧の光」も「如実知見」も理解できるようになりますよ。
(ただし、問題は「いい指導者に出会えるかどうか」ですね・・)。
> ブッダダーサ比丘のおっしゃる "the truth-discerning awareness"(パーリ語 satipanna )は漢語では何に当たるのでしょう? 直訳すれば「念般若」でしょうが、辞書には見つけられ
☆「sati」という言葉は、中国語では「念」と訳しますが、英文では100くらいの語彙に訳されているくらい、文脈が大切な言葉だそうです。この場合は、「一瞬たりとも妄想・連想しないことによって得られる、深い洞察を伴う、真理に関する気づき・智慧」という意味だと思います。漢語なら簡潔に、「正念般若」でしょうか?

☆曽我さんはHP上で、よく「間違っているかもしれないけど・・」と前置きを書かれていますね。
仏教はとても難しくて、今日分かったと思っても、明日にはまた分からなくなるのですよね。
ですから、「議論」でなくて「意見交換」というのが、とてもいいと思います。

これからも色々ご教示ください。

合掌

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