曽我逸郎

《一切皆苦は快を含む。凡夫は執着依存症》

2004年12月7日


 「仏教は一切皆苦を説くけれど、人生には、おいしいものを食べたり、たまには旅行に行ったり、楽しいこともあるじゃないか。」
 時折このような意見を耳にする。
 このように考える人は、一切皆苦の深さが分かっていない。「では、お前は分かっているのか!」と詰め寄られると困ってしまうが、私なりの解釈はある。それを説明する方便もあるので、書いてみたい。ご意見・ご批判を頂けるとうれしい。

 仏教の説かんとする苦は、「一時的な快」とか「一時的な楽」に対する「一時的な苦」ではない。涅槃に対するところの一切皆苦だ。一切皆苦は、「一時的な苦」のみならず、「一時的な快」をも包含しているのである。

 涅槃  = 苦の滅、平安、落ち着き、軽安
一切皆苦 ⊃ 一時的快
 ただし、その意味は、一時的苦のマイナスと、一時的快のプラスとを足し上げると、トータルではマイナスになる、というような単純な算数ではない。もしそうなら、一時的苦を減らして、一時的快を増やせば、「一切皆快」が実現できる筈だ。だが、残念ながら、そうはならない。逆の結果を生む。
 そうではなくて、一時的快は、一切皆苦を構成する重要な要素なのだ。だから、一時的快を正しく滅すれば、一切皆苦さえ終わらせることができる。一時的快は、一切皆苦にとって、それくらい必要不可欠な要素なのである。

 依存症を方便にして考えてみたい。
 前にも触れたが(HYさんとの意見交換 2004,3,23,)、廣中直行『やめたくてもやめられない脳』(ちくま新書)にこのような図がある。(同書 P138の図を基に簡略化)


【04,12,22】「山」を曲線に、「刺激」の位置を「山」から「谷」に修正。

(同書 P139より引用)
 このように徐々に坂を落ちて行くようなプロセスは「アロスタシス」と呼ばれる(KoobとLeMoal,2001)。それは「体内環境の恒常性維持」という意味の「ホメオスタシス」をもじった言葉で、崩れたバランスを回復させようとする動機ではあるが、そのバランスの目標値自体が長期の薬物使用によってだんだんずれていく。
 それは、「薬物効果への期待」→「ひとときの快感」→「その消失」→「不快感」→「不快感ゆえの薬物効果への期待」、というらせん階段を徐々に下りて行くようなものである。一段下りるごとに落ち込みが深刻になっていく。
 この説明を、我々凡夫の日常にあてはめれば、一切皆苦が生々しくイメージできるのではないだろうか。

 極端な例は、イラクやパレスチナ・イスラエルの報復合戦だ。地球の遠くに住む我々は、「不毛な憎しみの連鎖だ、どうして苦しめあうのか、早く止めればいいのに」と思う。報復によって得られるであろうものより、失うもののほうがはるかに大きい。外から見ればそれは明らかなのに、苦を与えあうことをやめられない。怒りと憎しみがフラストレーションとなって気持ちを押さえつけ、それが報復の際の一時的高揚感によって一瞬解放される。しかし、相反過程が働き、さらに相手の報復も加わり、圧迫感はさらに強まる。外から見れば明らかでも、合理的判断はもはやできない。大変悲しいことではあるが、報復依存症とでもいうべき状態に陥っていると思う。依存症になると、傍から見たら明白な苦が、自覚できなくなるのだ。

 我々の日常で考えよう。
 日々つつましく欲望を押さえ込みながら、時々贅沢をしておいしいものを食べる。仕事に疑問を感じながら自分を殺し続け、偶に休暇を取ってバカンスにはしゃぐ。
 この程度なら、まだいいのかもしれない。しかし、満員電車でストレスを募らせ、見ず知らずの人とライバルにされ、競わされ、足の引っ張りあいをし、強引に買い叩いて利益をつくり、お追従笑いを作りながら稼ぎを計算し、、、そういった様々な苦をごまかしているのだとしたら、、。
 昔の映画に出てくる阿片窟と同じだとは言わないが、メタファーとしては有効ではないだろうか? 阿片に陶然としている人物は、本人は幸せだというかもしれない。しかし、外からその生の総体を見れば、快の最中ですら、否、快の最中こそ最も端的に苦にまみれている。依存症の患者は、自分の苦を正しく自覚できないのだ。
 (穿った見方をすれば、1週間が7日で週末毎に休みが用意されているのも、苦なる日々を持続させるよくできたサイクルなのかもしれない。)

 我々凡夫は、自分があると錯覚し、それに執着し、それを守り育てようと欲望している。しかし、無常にして無我なる縁起の世界に縁起する無常にして無我なる現象である我々は、なにごとも欲望のまま好きにすることはできない。その欲求不満を、稀にささやかに解消し、それによってさらに欲望を募らせ、欲求不満をもっと深くする。

 凡夫は、執着依存症の状態にある。快を楽しむことは、欲望・執着の一時的充足であり、一切皆苦の歯車をまわし、苦をさらに深める。これが「一切皆苦」の意味だと思う。

・ 苦を深めないために一時的な快を求めることを制止する教えが、「感官の門を守れ」ということだと思う。たとえば、小論「ブッダダーサ比丘 仏教の教えの本質的ポイント」の最後の部分、バヒヤへの釈尊の説法を参照。

・ 『やめたくてもやめられない脳』P34で、著者は、依存と嗜癖をはっきりと区別している。依存は、薬物によるもので、薬物の側に原因のある場合。嗜癖は、生活や経験など人の側に原因を求めねばならない場合で、嗜癖される対象は、万引や放火など多岐にわたる。
 ここで私が書いたことは、学問的には、依存についての学説を勝手に嗜癖にまで拡張したことになるのかもしれない。(もっと言えば、病的な状況についての話を「健康人(凡夫)の日常すべて」にあてはめている。)しかし、執着を一時的に満たすことで執着がより深まるのは事実のように感じるし、「アロスタシス」はそれを良く説明してくれると思う。

 我々凡夫は、苦の生を「執着によって楽しみ、執着において楽しみ、執着においてよく喜んでいる」(パーリ中部26 聖求経 片山一良訳 大蔵出版より)のである。

【2005,1,22,加筆】
 サンユッタ・ニカーヤ第1集第4編第1章第8節から抜粋
 <悪魔>「人間の喜びは、執着するよりどころによって起こる。」
 <釈尊>「人間の憂いは、執着するよりどころによって起こる。」
  (岩波文庫『悪魔との対話』中村元訳 P22)
 悪魔も釈尊も、ともに正しい。執着によって一時的快は生まれ、さらにそのことによって構造的な苦が深まる。

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 ご意見・ご批判、お聞かせ下されば幸甚です。

2004年12月7日 曽我逸郎

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