木村清一さん アートマンとブラフマンは一致する 2004,4,9,
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五蘊無我説と無我説は違います。非我説は蘊にかかります。
五蘊は原因ですか、結果ですか、縁起は何を成立させますか、縁起を成立させているのは何ですか。縁起の定義は知っていますか。
木村清一さんへの返事 2004,4,12,
拝啓
メール頂戴致しました。
>五蘊は原因ですか、結果ですか、
五蘊は周囲と過去の自分からの縁によって発生し、縁によって終息する現象ですから、世間の言語慣習に則るなら(以下もすべて同様)、結果であるということができます。また同時に、周囲と未来の自分に様々な縁を振りまきますから、原因ということもできます。
>縁起は何を成立させますか、
無常にして無我なる現象。
>縁起を成立させているのは何ですか。
縁。
>縁起の定義は知っていますか。
「これある時彼あり。これなき時彼なし。これが生ずることより彼生じ、これが滅することより彼滅す。」
執着・嫌悪の対象(我を含む)が、自体として存在していない、無常にして無我なる現象であり、執着・嫌悪すべきものでないことを説き、苦や執着には原因があり、その原因を滅することによって、苦や執着も滅することができると説く教え。
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頂いたメールのタイトルである「アートマンとブラフマンは一致する」は、普通の「梵我一如」という意味であれば、インドの伝統的なバラモン教の教えであり、釈尊が戦われ否定された思想だと思います。もしも、「アートマンもブラフマンも一致する。ともに<ない>という点で。」という意味であれば、全面的に賛成致します。
お便りありがとうございました。
敬具
木村清一様
2004、4、12、
曽我逸郎
木村清一さんから再び 2004,4,12,
五蘊は自己に対して,結果であり,他者に対して原因ととればよいのですか?
縁は,原因と結果の起ですか?
縁は第一原因ですか?
縁の定義を教えてください。
アートマンとブラフマンは伝統ではどういう風に説かれていますか?
その上において、無常にして無我の否定が成立すると思います。
さらに、四聖諦に則っていえば、五蘊は結果であり、縁起は原因です。これがゴータマの説だと思います。
木村清一さんへの返事 2004,4,15,
拝啓
御質問頂戴しました。
頂いたメールは大変短い文章ですので、文脈がいまいち分からず、言葉の意味するところがずれているかもしれないと危惧しながら、考えてみます。
>五蘊は自己に対して,結果であり,他者に対して原因ととればよいのですか?
そのように述べたつもりはありませんが、そう読めましたでしょうか?
私は、五蘊すなわち色・受・想・行・識は、わたしという現象が反応するそのつどの反応の五つの側面、あるいはそのつどの反応の五段階のステップと考えています。したがって色・受・想・行・識を個別に考えるのではなく、五蘊と一括して考えるのであれば、「わたしというそのつどの反応」として考えてよいと思います。木村さんのご質問についても、そのような仕方で考えます。木村さんが五蘊という言葉で言わんとされるところが私にはよく把握できていないので、この議論において私の考えている五蘊はそのような意味だとまず御理解下さい。誤解の起きないよう、五蘊を「わたしというそのつどの反応」に置き換えて考えを書きます。
「わたしというそのつどの反応」は、外の様々な現象と接触して(縁を受けて)反応します。また、記憶に留めた事柄もふとしたきっかけで縁となって反応を引き起こします。(瞑想を妨げる妄想はその典型です。)そのような反応が繰り返されることで、反応にはある傾向・パターンが生じます(その人らしさ)。その傾向・パターンでもって「わたしというそのつどの反応」は、縁に反応します。その反応の傾向・パターンは、通常は執着に基づくもので、自動的に起こります。反応が起これば、当然それは周囲の現象への縁となって、周囲の現象になんらかの変化を生じさせます。また反応は、その結果ともども記憶に残され、そのつど反応のパターンは(少しずつ、時には大幅に)強くなったり、変化したりします。
つまり、「わたしというそのつどの反応」は、外部の現象や記憶によって引き起こされるという意味で結果であり、過去の反応によって形成されたパターンによる反応だという意味でも結果だといえます。また「わたしというそのつどの反応」は、周囲の現象に縁を与え変化させるという意味で原因でもあり、新たな記憶を生み、それ以降の反応パターンを強化したり修正したりするという意味でも原因であると言えます。
木村さんの言い方に従ってまとめておきます。
「五蘊は、過去の自己の結果であり、未来の自己の原因である。また他者によって引き起こされる結果であり、他者を変化させる原因でもある。」(陳腐なまでに常識的あたりまえな結論ですね。)
より詳しくは、小論集の「人無我を説く方便の試み。無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か。その1:縁起」、「自分という現象について」、「ダマシオ 「無意識の脳 自己意識の脳」 を読んで」を御一読下さい。
>縁は,原因と結果の起ですか?
すみません。御質問の主旨がよく理解できません。定義の御質問で答えます。
>縁は第一原因ですか?
いいえ。縁は現象に変化を引き起こし、その変化が縁となって、さらに変化を起こします。縁は無限に連鎖します。上記小論「・・・その1:縁起」にある図を参照下さい。
第一原因については、無記をもって対応したいと思います。
>縁の定義を教えてください。
「現象を変化させる原因」だと考えます。
>アートマンとブラフマンは伝統ではどういう風に説かれていますか?
ウパニシャッドのことは分かりませんので、「仏教の伝統」として考えます。
古い形を一番残しているといわれるスッタニパータから抜き出すことにします。但し、言い訳をすると、私は日本語訳でしか読んでいないので、もとの語はアートマン(パーリ語:アッタン)、ブラフマンではないかもしれません。単語よりも、アートマン、ブラフマンという考えに関わると思われるものを抜きます。すべて岩波文庫「ブッダのことば」中村元訳より。
◎まずアートマンについて
注釈によれば、「堅固なもの」とは「常住性または本性」とあります。意味としてウパニシャッド、バラモン教の主張する「恒常不変の主宰者、真我・アートマン」に相当すると思います。それを「見出さない」のです。
ここには「身体は不浄だが、アートマンは清浄無垢だ」というような考えはないと思います。
注釈によれば、「心にひそむ傲慢」とは「われありと思う慢心」のこと。
「私というそのつどの反応」が自分で自分を観察して、実体的自己などはないと知る、という意味だと考えます。
この「制される自己」は、アートマン等ではあり得ません。「ことある度に執着の反応を繰り返す私というそのつどの反応」だと思います。自分という反応の反応の仕方をコントロールする、という意味です。
この「自己」は、この中では唯一肯定的に述べられています。しかし、私は、これもアートマンではなく、477の最初の「自己」、すなわち、「私というそのつどの反応の主体的側面」を指していると考えます。
「非我なるものを我と思って執着するな。真の我を探求せよ」という解釈を時々見かけますが、他の経文からその解釈はできないと思います。
私という現象は、名称と形態のふたつで尽くされており、滅びることのないアートマンが名称と形態の他に想定されてはいないと考えます。
アートマンについては、ウパニシャッドやバラモン教における「真の自己、恒常不変・清浄無垢の主宰者」という高邁な概念と、再帰代名詞「自分」というありふれた意味と、ふたつの意味があります。仏教は前者的考え方を否定しましたが(例えば上記231、918、1119)、普通に「自分」と言うときにもアートマンという語を使いました(それが本来の意味なのですから)。(例えば206、477、490、501)
無我と主体性の問題については、小論集「無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か。」を参照下さい。
◎次にブラフマンについて
「この世とかの世をともに捨て去る」のですから、「虚妄なる現象世界を捨てて真理世界を目指す」といった主旨ではないと思います。
昔のバラモン(神官)は、今(釈尊の当時)のバラモンと違い、堕落していなかった、の意。バラモンについての言葉であって、ブラフマンを守れという教えではありません。
世界の本源、宇宙の最高原理としてのブラフマン(中性名詞)に関連付けられるような言葉は、あまりないように思います。ブラフマンに対する私の意識が低いために、見逃しているのかもしれませんが、、。
一方、男性名詞の梵天は、たとえば梵天勧請のごとく、人格神としてしばしば経典に登場します。しかしそれは、言って見れば狂言回しのような役柄で、崇高なる最高原理などではありません。
もうひとつは、形容詞としての梵です。例えば「梵行」というと、「穢れのない行ない」で、より端的には「性的禁欲」のことのようです。語源的にはブラフマンの流れにあるのでしょうが、もとの語の超越性は失われています。
【2005,1,27,加筆】ブラフマンに対して否定的な言葉があった。
<サンユッタ・ニカーヤ第Y篇第一章第五節>
大モッガラーナ尊者は、その梵天に詩を以って語りかけた。―
「友よ。きみは、以前にもっていた見解をいまでも持っているのか?
ブラフマンの世界における光輝に勝るかの光輝がきみに見えるか?」
[梵天いわく、―]
「きみよ。わたしが以前にもっていた見解を、わたしはもはや持っていない。
ブラフマンの世界における光輝に勝るかの光輝がわたしには見えます。
今となっては〈われは常住である。永遠である〉と、わたしはどうして言い得るでしょうか」
(岩波文庫『悪魔との対話』中村元訳より)
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ブラフマン−アートマンの思想、梵我一如は、インドに根強い伝統的思想です。一方、釈尊の見出されたものは、無常=無我=縁起を知ることによる執着の滅、苦の滅であり、梵我一如とまったく相容れないものでした。しかし、梵我一如は執着にかなう自然なものの見方であり、仏教の中においても、ブラフマンを空性や真如、法界と言い換え、アートマンを仏性、阿頼耶識、如来蔵と呼び変える反仏教がはびこり、さらに「仏教」は密教と化し、ついにはヒンズー教に呑み込まれて消え去りました。ヒンズー寺院では、日の当たらぬ片隅に釈尊はおられます。中国においては、梵我一如化した「仏教」は、老荘の道や無の思想と親和性が高く、本源的超越的遍在的内在的真実在を妄想し、それを分有するものとして自己と世界を全肯定する傾向は、ますます強くなりました。その結果として、世界に蔓延る執着とそれがもたらす苦を拱手傍観したまま、世俗の欲望におもね、現世利益を切り売りして自分の欲望を満たす現代日本の「仏教」の状況があるのだと考えます。
(このあたりの問題については、意見交換 04,1,26, 清水さん 真如について(朝日新聞社「仏教が好き!」) を参照下さい。)
また御意見・御批判・御質問をお送り下さい。その際は、申し訳ありませんが、参照・御一読をお願いしました拙文を是非とも踏まえた形で頂きますようお願い申し上げます。たくさんで済みません。
敬具
木村清一様
2004、4、15、 曽我逸郎
木村清一さんから再び 2004,4,15,
長文、有難く思います。質問が明確でなかった事のようですね、失礼しました。ご苦労された事でしょう、お詫び申し上げます。
ゴータマの説、第一聖諦は証智し遍智されなければならない。それは五取蘊である。第二聖諦は証智し捨断されなければならない。それは無明有愛である。
ゴータマの否定したもの、五蘊有我説。ゴータマの肯定したもの、五蘊非我説。
第一人称はアートマンではない、方便である。五蘊は縁生である。
空とは何か、空は何を指しているのか、空には定義があるのか?
空のことを教えて頂きたい。
そのもとで、ブラフマンはアートマンによって証明され、アートマンを説いたバラモンはゴータマの説の中に正法があることを見出し、帰依し、出家し、堕落したバラモン教から解脱したのである。
木村清一さんへの返事 2004,4,15,
前略
まことに申し訳ありませんが、御質問は、御参照下さるようお願いしたものを御一読頂いた上、それを踏まえた形で頂けませんでしょうか? その中に空について触れた部分もありますので。
木村さんの御主張は、断片的過ぎて、残念ながらよく理解できません。結論だけでなく、そのようにお考えになる根拠も詳しくお書き頂ければ助かります。
また、先のメールは御質問にお答えしたつもりですので、それに対する御感想もお聞かせ下さいませ。
草々
木村清一様
2004、4、15、 曽我逸郎
木村清一さんから再び 「一読致しました。」 2004,4,16,
木村清一は根源仏教で観ているので、言葉・文字・数の一致を目指します。それ故に、曽我様の言葉・文字・数の使用を観て、木村清一の言葉・文字・数に融合させ、一字万法を確立します。
曽我様の選択された単語が、木村清一にとって難しいですね、擬似説・ブッダ説・バラモン説・曽我説・異教説、これらを区別するのは大変です。煩悩になりますね。
擬似説の、空性=真如=法界=アートマン、これらの定義が解らないと、何とも言えませんね。言葉が転々として、すべては言葉の乱れとゆう感じがしてきますね。言葉の置き換え、創作経典、言葉による縁起操作、あるいは、縁起の法によるアートマン補助説とゆうようにとらえてしまいます。
縁起で有私無私になれとゆうことでしょうか?無我なる縁起とは、エゴが無い条件成立とゆうことでしょうか?
主体性の意味がハッキリ掴めません。ごめんなさい。
【 2004,4,22, 加筆 】 <まずいものを再発見>
超越的本源を想定し、我々は皆それを分有しているという考え(その本家本元が「梵我一如」)は仏教ではない、という小論を書こうと思い、松本史朗「縁起と空」大蔵出版を読み返していたら、まずいものを再発見してしまった。「第五章 解脱と涅槃−この非仏教的なるもの」である。
この論文において、松本先生は、「解脱や涅槃という考えは、アートマンが覆いから解放され離脱すると考える我論であり、反仏教思想である」と主張しておられる。(ニルバーナを、「吹く」という語根にもとづき「火の吹き消された状態」と解釈するのではなく、「覆いをとりのぞく」という語根から解釈する。)
その証明の為に、スッタニパータをはじめとする初期経典から多数の用例を引いて、いかにアートマンが積極的に説かれているか示しておられる。しかも、中村元博士はじめ、これまでのほとんどの仏典編纂者・翻訳者・研究者は、赤裸々な我論をこのままではまずいと(無意識的に)包み隠すような操作を続けてきたという。(ということは、岩波文庫からの先の私の抜書きは、原文にあたらぬ限り論拠にならないということになる。)
極めつけは、この一文だ。
「現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、ブラフマンとなったアートマンによって住する」(P201参照)
木村さんの喜ばれる顔が見えるようだ。(木村さんの顔は存じ上げないが、、)
松本先生の考えは、「縁起説こそが仏教であり、そこから無我も必然的に導き出される。初期経典の我論は、ジャイナ教などからの混入である」というもの。つまり、明白にするため言いかえると、「縁起、無我が仏教であるが、スッタニパータなどの初期経典も外道の我論に毒された反仏教経典である」ということになる。
私とて、初期経典がそのまま釈尊の教えだとは思っていない。しかし、混ざりものを注意深く取り除いていけば、おぼろげでも釈尊の姿が浮かび上がってくるだろうと思っていた。なのに、最古の経典でさえ、反仏教的要素(の方)が強い(しかも核心の部分で)と言われると、何を「拠り所」にしていいのか。ここまで戦線を拡大されると、私の手に負えない。イラク占領軍の司令官のような心境である。
初期経典までがアートマンを前提としているとすれば、その状況において、如何にして「仏教とは、無常=無我=縁起を見て執着と苦を滅することを説く教えである」と主張できるのか?
大きな大きな、そして根本的な問題である。できるところから、一歩ずつ考えて行くしかない。しばらく時間を下さい。
【 2004,5,10, 加筆 】
上記の問題に対する模範解答を、他ならぬ松本先生の最新の本に見つけた。小論集「スッタニパータはアートマンを説く反仏教!」を参照下さい。