田村和廣さんより 仏教と科学 2002,12,4,

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 今日お気に入りに登録させていただきました。
 アンケートに答えようとページを開いてみると、メールが少ないと書かれてあったので、アンケートに答える代わりに、メールを書きました。(まだアンケートに答えられるほど見ておりませんし)
 今日(12月4日)、郵便受けに*****なるわけのわからない団体のビラが入っていたので、インターネットでいろいろ調べていたところ、ここにたどり着きました。(曽我注:私も聞いた事のない団体で、インターネット上で検索しても見つけられませんでした。危険な団体かも知れず、逆にちゃんとした団体かもしれないので、伏字にします。)
 高校が浄土真宗系の学校だったため、宗教の時間というのがあり、以前から世界の三大宗教に漠然と関心を持っていました。その当時は、なぜこんなくだらないことが2000年近く信じられているのか、不思議で仕方がありませんでした。しかし、世の中にはいろいろなことで苦しみ悩んでいる人がおり、その人たちのために宗教があるのだと気が付きました。このような人たちにとっては、これらの宗教を信仰することで、心の平安が得られるのだと。
 ただ、*****や他の擬似宗教団体がそのような人々を食い物にしているのには怒りを覚えます。私自身は、無宗教ですが、神や仏に頼らなくてもそこそこやってこれたからだと思います。
 最近、年のせいか(49です)、仏陀に関する本が目に付くようになり読んでみたのですが、仏教用語が難解な上、仕事がコンピュータ関係であるので、どうも科学的に説明できないものは、受け入れられないようです。科学がすべてだと思いませんが、宗教的な説明よりはましだと思っています。
 ただ、仏教には、科学的なアプローチのできる可能性があるのではないかと思っています。仏陀が説いた縁起の法などは、科学でいう因果関係でしょうから。ただ、その因果関係が正しいかどうかは別物ですが。まだまだ、仏教に興味を持って日が浅いので、わからないことが多いので、こちらのホームページで勉強させていただきます。

田村和廣


田村和廣さんへの返事 科学は現代の八部衆 2002,12,10,

拝啓

 メール頂戴しました。返事遅くなり申し訳ございません。

 メール・タイトルの「八部衆」というのは、もともとは土着の神だったり魔物だっ たり竜だったりした者が、仏教に従うようになって、仏教を守護するようになった者 たちのことです。勿論釈尊がそういう者がいると説かれたわけはありませんが、仏教 が大衆化していく過程で、このような説話・神話が生まれました。
 科学は、当然ながら仏教の外で生まれ育ちましたが、今や仏教本来の教えを強力に 援護サポートする理論になっていると感じます。そういう意味で、科学は仏教のため に戦う現代の八部衆のようではないかと思い、冗談めいたタイトルを思いつきまし た。

1)科学は仏教をどうサポートするのか?

 仏教の本来の教えは、輪廻でも極楽浄土でも久遠仏でも先祖供養でもありません。 無我=縁起の教えです。
 無我とは、「あらゆるもの(特に「私」)は、独立自存永遠不滅の実体をもたな い」という教えです。縁起とは、「あらゆるもの(特に「私」)は、他から縁を受け て条件づけられて発生し、変化し、終わる現象である」という教えです。無我は個々 の現象に視点を置いて説明した言葉であり、縁起は、現象間の関係から説明した言葉 です。従って、無我と縁起は、同じ一つの事を違う視点から説いており、内実は同じ 教えだと考えます。

 無我は、人無我と法無我の二つに分けて考察されてきました。人無我とは「私」の無我です。法無我の法とは、狭くは色受想行識など「私」を構成する要素を指しますが、私は、「私」以外の世界中の事物すべてを法と考えています。肉体、石、星、素粒子などの物理的存在、また国家・教団などの組織、様々な制度、宗教なども、すべて法であり、他から縁を受けて生まれ変化し終わる現象です。
 現代科学のうち、相対論や量子論、宇宙論は物質が無我なる縁起の現象であることを説明し、歴史学を始めとする社会科学は制度・組織・文化などの無我=縁起を説明します。(法無我)
 そして、進化論や脳科学、アフォーダンスやオートポイエーシスといった理論は、「私」(自我意識)が、系統発生的にも個体発生的にもそのつどの瞬間的にも、無我=縁起であること(人無我)を証明しつつあるように思います。執着とはどういう現象か、発心とはどういう現象か、そういったこともいずれ分かってくるかもしれません。(般若知の解明まで期待するのは無理かもしれませんが。)

2)無我=縁起は科学的基本テーゼに過ぎないのか?

 仏教は、無我=縁起という宇宙の基本命題を明らかにしたに過ぎないのでしょうか?
 そんな筈はありません。仏教は、苦からの救済を目指した宗教です。では無我=縁起が、何故救済になるのか。無我=縁起を知る事で、執着が吹き消されるからです。それを求めて争っているすべての「価値」が無我なる縁起の現象であったと知る事で執着が吹き消され、無用な苦を生み出す事がとめられます。すべての執着の根本には我執があります。ですから、無我=縁起を根本から知るとは、自分自身の無我=縁起を知って、我執を吹き消すことです。では、つまり人無我を知るために、進化論や脳を研究すればいいのか? 残念ながら、脳研究者が我執を吹き消し解脱したという話は聞きません。自分の無我=縁起を本当に知ることは、科学的アプローチでは不可能なのです。

3)仏教が科学を超えているところ

 科学的アプローチを含む我々の通常のものの見方は以下のような構造を持っています。
 見る「私」が世界の外にいて、見られる対象を世界の中から切り出して見る。見ている自分は、世界の外に独立自存永遠不滅のものとしてあるかのように想定されてます。そしてこの構造では、自分、背景となる世界、対象の三つが分裂しています。
 この見方では、自分を見ても、外に対象として立てた自分を見ることになり、見る自分と見られる自分が分裂してしまっています。見ている主体の自分の無我=縁起は、どこまで追いかけても逃げていく。
 しかし勿論この三つに分かれた通常の見方を全否定しているわけではありません。例えば発心のように、自分を振り返り反省し自分を変えようとする気持ちは重要な働きをします。ただ、通常の見方ではどうしても踏み越えられないレベルがあり、そこを超えて行くためには、なにか別の方法が必要です。それが、般若知、すなわち自己・世界・対象の分裂のない知であり、自分が世界のあらゆる現象と共に縁起する無我なる現象だと真に体得する事であると想像します。
 仏教は、無我=縁起を理論的に教えると同時に、自分自身の無我=縁起を真に知る方法を教え、それによって我執を断ち、苦をなくす教えだと考えます。科学は、前者、すなわち無我=縁起の理論的学習について、仏教を支援してくれると思います。

 以上、大変荒削りな私見を書きました。田村さんの視点からまたアドバイス・ご批判を頂ければ幸いです。
 よろしくお願い申し上げます。
                                  敬具
田村和廣様
                     2002,12,10,    曽我逸郎

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