tom-halさんより 禅思想の批判的研究の反批判 2002,12,2,

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曽我さんの勧めにより「禅思想の批判的研究」(以下本書という)松本史朗著大蔵出版 を読み始めました。また同時に「如来蔵思想」高崎直道 他春秋社も読んでいます。お指摘のとうり禅思想を「思考の停止」と捉えています。禅・禅思想について博識の筆者が、しかも一言一句の定義・解釈も疎かにしないのが学者の生命(本書の大部分が言葉の厳密な定義・解釈である)とも言うべきであります. しかも「思考の停止」のような軽軽しい、お粗末な言葉を用いるとはまさに謎であります。 すこし意地悪な表現をすれば(禅教徒に対する挑発、本書のプロパガンダ、この餌<思考の停止>で愚かな魚<禅に興味を持つ人々>を釣上げようとするのか)です。 些か大人気ないとおもいますが、愚かな魚のつもりで反論します。
最初にお断りしますが、私は仏教も禅も全く知識がありません。ただ無門関の謎に興味をもつて、その謎を解こうとしているだけです。従つて禅のためにこれを弁護するつもりはありませんし、またその能力もありません。
(1)本書 において禅思想が非仏教とするには次の三項目である。

  本書P4に「要するに禅思想の意義とは禅が”思考の停止”を意味するか否かというただ一点にかかつている。もしも禅が”思考の停止”を意味するならば禅思想が仏教そのものを否定することは明らかであろうし、もしそうでなければ禅思想には確かに仏教的意義が認められるであろう。
(2)本書P64 仏教は縁起説である。
  その時仏世尊はウルヴェーラーに住してネーランジャラー川の岸辺菩提樹の根本のおいて、初めて現等覚した。そして世尊は菩提樹の根本において七日間結かふ座して座り、解脱の楽を感受していた。そのとき世尊は初夜にこの縁起なるものを順逆に思惟した。
  無明という縁から諸行が生じる。/諸行という縁から識が生じる。/識という縁から名色が生じる、。/名色という縁から六処が生じる。/六処という縁から蝕が生じる。/蝕という縁から受が生じる。/受という縁から愛が生じる。/愛という縁から取が生じる。/取という縁から有が生じる。/有という縁から生が生じる。/生という縁から老死と愁・悲・苦・憂・悩が一諸に生じる。このようににしてこの純粋な苦オンの集起がある。しかし他ならぬこの無明の残りなき離貪の滅から行の滅がある/行の滅から識の滅がある。/・・・・・・・・・・・・・・・・/生の滅から老死と愁・悲・苦・憂・悩が滅する。このようにして純粋な苦オンの滅がある。」
  縁起を思惟することが現等覚つまり悟りとされるのであるから、、仏教とは縁起であり、その縁起を思惟することが悟りである。
  仏教とは縁起であり、その縁起を思惟すること、縁起を考え続ける事以外に悟りはないのである。とすれば”思考の否定”を説く禅思想が非仏教的なものであることは自ずからあきらかである。
(3)本書P348
  臨済禄の「赤肉団上,有一無位真人、常従汝等諸人、面前出入」に関する考察を終わりたい。「赤肉団」を「心臓」を、「一無位真人」は「アートマン」を、そして「面前」には基本的には「六根門」というのが私見の要約である。
   本書P387
  結論として言えば"臨済の基本思想は仏教の無我説とは矛盾する”アートマン論”である」と考えられる。
(4)まず(1)の”禅は思考の停止”について考察する。

  私のホームページ(無門関と仏像彫刻/http://www5c.biglobe.ne.jp/~tom-hal/)参照
  公案第一 趙州の狗子  「ある僧が趙州和尚に狗(犬)にも仏性がありますか問うた。趙州は無いと答えられた」これが禅のシンボルとも言うべき絶対無・東洋無である。無門もこの公案第一を透通するのに数年間を要し、ようやく絶対無の世界に入ることが出来たという。

(5)本書P159

  「ここで”如来蔵”は"基体”であり“生滅心”はその上に置かるべき"趙基体”である。しかるに「念念相続」が「生滅心」に相当し、「無念」が「如来蔵」に当たることは明らかであろう。
  本書P164
  上にある「念念相続」「心生滅」という時間の世界と下にある「無念」「心性」「真如」という無時間の世界に載然とわけられる。
  つまり修業というものが時間の世界に属する以上それはあくまで「念念相続」であつて"迷い”=不覚にほかならない。
  問題はいかにしてこの"時間の世界”を突破して基体である”無時間の世界”に即入するかである。それには(無念)とか(心性)とよばれるその無時間の実在を一瞬にして(一念)に見てそれと結合(相応)するしかないのである。したがつて「念念相続」と無念を”迷”と"真”として対比する以上「起信論」はどうしても"頓悟”を説かざるをえないのである。
(6)無門関 公案 第25 三座の説法

  「仰山和尚が夢の中で弥勒菩薩の道場にいつたところ、第三座に座らされた。一人の高僧が白い槌を打つて,今日の説法は第三座の番であると告げる。山立ち上がり白槌して曰く<大乗の仏法は四句を離れ百非を絶している。よく聴きなさい>
  百句は言葉と文字のあらゆる組み合わせ、百非はあらゆる言葉と文字の否定、百句から百非えの転移が禅の要諦である。

(7)本書P127

  慧能(なんと、あの米搗きをしていた六祖のことである)は金剛経の本質を文字や言葉を越えた(性)であると見なしたのである。
  この慧能の立場は「自達磨西来、為伝此経之意,令人悟理見性」という文意によく現れている。ここで「伝此経之意」となつていて、単に「伝此経」となつていないことは、ここで伝えられたとされたとされたものが、単に「金剛経」ではなくその「意」としての「内心経」であり、「衆生性中本有」の「此一巻経」でありさらに端的に言えば「不在文字」の「性」そのものであることを意味している。即ち「此経之意」=「内心経」「衆生性中本有」「此一巻経」=「此経不在文字」=「性)(自性)そしてそれ故にこそ「此経之意」を伝えることが、人をして見性せしめる(令人悟理見性)となるのである。
(8)宝性論(法宝品第三)

  法宝の根本げにおよそ無でもなく、有でもなく、有無でもなく、また有無よりほかの(分別によつてこれであるという)ものでもなく思量することができず、言語を離れ、各自内証すべきもので、寂静であり、無垢の智慧の光明と輝きをもち、一切の所縁において(非如理作意を先導とする)貪しん痴を対冶する法という太陽に帰命する。

(9)本書P21.25

  無分別知についての中国の学者摩カエンとインドの学僧カマラシーラとの公開論争
  摩カエンは単に不思不観により無分別知が得られるとした。
  カマラシーラは最高の知である無分別知(A)に到達するための手段として、絶対に不可欠とされる正しい分別知(B)を(正しい個別観察)という語によつて表現している。それは分別を自性としているが、しかしまた正思惟を自性としているので、そこから「正しい無分別知」が生ずると言われている.正思惟とは正しい思惟のことである。従つてここで「個別観察」「分別」「思惟」はすべて思考・判断を意味する。誤つた思考・判断から「正しい無分別知」は生じないが、正しい思考・判断からは「菩提」=「無分別知」が生じる。
  本書P32
  カルマシーラもつぎのように正にこの点を突いてくるのである。
  もし念と思惟の無のみが「無念」「無思惟」であると意図されるとすれば、そのときはその両者(念と思惟)の無がいかなる手段によつて生ずるかかということのみが考察されるべきである。
  しかるに無はそれによつて、それ(無)から無分別性がしょうじるような、その因であることは出来ない。さもなければ「失神した人」にも念と思惟の無から無分別性に入るという誤つた帰結があるであろう。しかるに正しい個別観察がなければ、それを手段として人が無念と無思惟をつくるような他の方便はないのである。たとえ無念・無思惟がありえても、正しい個別観察がなければ諸法の無自性がいかにして理解されるであろうか。
  本書P63
  カルマシーラが単に考えないことによつて仏になれるなら失神者も仏になつているであろう、と述べたと同様に「想受減」(藤田博士)という”思考の停止”が理想であるとすれば、それはすでに停止した死に至る直前の肉体,或いは死そのものと変わりがないということになる。
  (ア)カルマシーラ説は一見もつともらしく見えるが致命的な欠陥がある。分別知と無分別知は元来相互に独立・不可侵の関係である。分別知によつて個別観察された無分別知はもはや無分別知ではありえない。言葉と文字の世界から言葉と文字を否定した世界を窺い知ることは出来ない。これは明らかに論理矛盾(パラドツクス)である。
  (イ)上記のごとく"失神した人””死に至る直前の肉体”は明らかに「思考の停止」である。松本説の「禅が思考の停止を意味するか否か」をどのように解したらよいのか。仏教・非仏教を判別するメルクマール(判断基準)として「思考の停止」が如何に安易であり不適切であるかあきらかであろう。

(10)無門関  公案第六  世尊花を粘ず (ホームページ)参照

  世尊が昔霊鷲山で説法された時、一本の花を粘じて大衆の前にしめされた。大衆は皆黙つているだけであつたが、ただ迦葉尊者のみがにつこりと微笑んだ。そこで世尊が言われた。「私にはただしい真理をみる眼,説くことの出来ない悟りの心、無相であるが故に見ることが出来ない不可思議な真実在がある。それを言葉や文字にせず、教えとしてではなく、別の伝え方で迦葉に委ねよう」
  本公案には以心伝心(霊的交流)と不立文字・教外別伝と師弟相伝(相承)という禅の特質が示される。

(11)本書P118・119・272

  「天竺相承、本無文字、入此門者,唯意相伝」  「六代祖師、以心伝心,離文字故、従上相承,亦復如是」  「然達磨西来、唯伝心法、故自伝、我法、以心伝心、不立文字,此心是一切衆生、清浄本覚、亦名仏性,或云霊覚」
(12)(2)(3)の縁起無我説のみが正統な仏教であり,禅・禅思想は非仏教であるとの論に反論する。

   (A)如来蔵思想 高崎直道ほか 春秋社の新装版はしがきに

  如来蔵思想に対する批判的見解が現れた。その出発点は単純化すれば如来蔵思想は我(アートマン)を許容するから仏教ではないということにある。この問題の最初の提示者松本史朗氏(縁起と空−如来蔵批判)がウベニシヤッドと如来蔵思想に共通する思想構造として「ダートウヴァ−ダ」(基台)という名を提案した。これはすべての根元に一元を認め、その上に現象の多様な差別を容認する思想で基台説とでも訳されるものである。この考えはかなり妥当性をもつ仮説と思われるが、このような思想構造は仏教ではないということになると、検討の結果非仏教の範囲は次第に広まり、まず唯識思想が批判の対象に加わり、また華厳思想も、中国の禅もみなその枠内にあるものとして批判されることとなつた。(松本「禅思想の批判的研究」)
  第二のソースとして日本仏教の問題として本覚思想に対する批判がある。(袴谷憲昭「本覚思想批判」大蔵出版)この批判にたいしては仏教はなにかということの決定なしには反論出来ない。しかしそのような詮索は結局不毛に終わるとおもはれる。これは学説をこえて宗教的信念の問題に帰着するであろうからである。
   (B)キリスト教はイエス・キリストを教祖として、その教義は聖書であり、カトリック・プロテスタントなどの宗派がある。イスラム教はモハメットを教祖として、その教義はコーランであり多数の流派がある。仏教は釈尊を教祖として、その教義は万巻を越える経巻があり、多数の宗派がある。仏教とはこれらの一般的通称である。

   (C)日蓮は日蓮宗以外のすべての宗派,,禅宗・真言宗・律宗・念仏宗を邪教・悪法として厳しく排除せんと論陣を展開した。その論理は別としてもし非仏教・反仏教を唱えるならば、この位の内容が必要ではないか。

  松本説に反論したが、然しながら、本書によつて禅及び禅思想について貴重な知識を得たのもまた事実である。多謝!多謝!という心境である。
  曽我さんの上手な勧めに乗せられて、つい馬鹿なことを書いてしまいました。ご笑覧ください。


tom-halさんへの返事 「分別知と無分別知、仏教と反仏教」 2002,12,9,

拝啓

 お疲れ様でございました。あの本はボリュームも相当ありますし、内容も文献学的と言いますか、結構煩瑣だし、なにより感情的に腹のたつことばかりだったのではないでしょうか。

 「禅教徒に対する挑発」ではないか、と書いておられますが、実は私もそのようにも感じています。松本先生の、あくまで分析的分別知のみを頼りとし、瞑想や禅定を否定する考えは、現在の日本における仏教の受け取り方の対極にあります。日本の伝統的「仏教」の反仏教性に揺さぶりをかけるために、敢えて挑発的な書き方をしておられるのかもしれません。ご本人はおそらく純粋に「分別知のみが正しい」とお考えなのだと思いますが、私としては、松本先生を最高のスパーリング・パートナーとして、失礼な言い方ですが、「利用させて」いただこうと思っています。松本先生を仮想相手として撃合うことで自分の仏教理解が鍛えられると思います。
 そういう思いで tom-halさんにもお薦めしたのですが、見事に「釣り上げられて」頂いて、感謝致しております。

 さて、頂いたメールを拝読致しました。きちんと理解できていなければご指摘下さい。

<分別知と無分別知について>

 tom-halさんと松本先生の相違点は「言葉や文字に寄らない思考」であろうと思います。tom-halさんは、日常の思考とは別の「文字や言葉を超えた思考」が可能であり、それこそが禅の真髄である、と考えておられます。一方、松本先生は、そのような「思考」こそ無分別知であり、思考の停止である、分析的思考(分別知)の他に思考はない、と言われるでしょう。

 私の考えはというと、禅に思考があるかないかよりも、禅が普通の思考、つまり言葉や文字による思考(分別知)を否定していることの方に問題があると思います。公案を頂いて参禅しても、理屈をこねればすぐに追い返されます。そもそも公案そのものが、例えば隻手のように、日常的な思考を拒絶するように創られています。テンから頭ごなしに分別知を否定するのが、禅の問題点だと思います。

 私は、頂いたメールでいうと、カマラシーラと同じ考えです。分別知でしっかり学び考えねばならない。しかし、それだけでは不充分で、その先に無分別知が必要である。そう思っています。
 よく「指を見るな、月を見よ」といわれますが、肝心の指がどちらを示しているのかきちんと確認しなければ、何を見るべきか大間違いをしでかすのではないでしょうか。なにより釈尊が示してくださったのですから、ないがしろにしていい筈はありません。残された経典によると、釈尊に近い時代の仏弟子たちの修行態度は、禅の老師なら匙を投げて破門にするくらい分析的だったようです。まして釈尊から2500年も経った今、あちこちにいろんなおかしな指が立ち、てんでんにばらばらな方向を指している状況では、きちんと分別知で、どの指が釈尊の指か、その指はどちらを指し示しているのか、比較検討し、判断した上で学ばねばなりません。

 しかしながら、私は、分別知だけで十分だと考えているわけでもありません。無分別知も必要です。その理由は、先のメールにも書いたとおり、分別知では、外に対象として立てられた自分しか捉えることができないからです。主体として働いている本当の自分のあり方を知るには、分別知とは異なる知が必要である筈です。それが、定を重ねた先に期待されるところの般若の体験であろうと想像します。

 ですから、同書4ページに、松本先生が以下のように書いておられるのには、反感を覚えます。
 ・・・・釈尊その人が”思考の停止”を意味する禅を仏教の修道論のわくぐみの中に取り入れたとき、仏教は、知慧を否定することによって、その知慧の対象である仏教そのものを本質的に否定する契機を、仏教の中に取り込んでしまった・・・・
 釈尊が禅を取り入れられたのなら、それは正しい事として、それを前提にして考えていくべきだと考えます。

<仏教と反仏教を分ける事について>

 tom-halさんがメールの最後でA,B,Cとして松本先生に反論なさっている点は、「伝統的に仏教とされてきた教えの全体を尊重すべきであって、それを仏教と反仏教に分ける事は不毛である」との主張かと思います。

 この点については、私は「分けるべき」と考えます。
 世の中で仏教と思われている先祖供養や輪廻は、無我の教えと矛盾しています。両立不能です。どちらか一方をとって他を捨てねばなりません。もし仏教と自称するものをすべて認めるなら、仏教の名の元に「人が悪業を積む前にポアして来世へ送ってあげよう。これは菩薩行だ」という主張をする輩が現れたら、これも認めねばならなくなってしまいます。何らかの基準で仏教と反仏教を区別せねばなりません。その基準は、人それぞれ違うかもしれません。違って当然です。それぞれが自分の基準、自分が考える正しい仏教理解を主張しあい、批判しあい、深め合って、皆で正しい仏教へ向かっていくべきだと思います。
 闘牛(牛相撲)のように、それぞれが育て鍛えた仮説を戦わせて、よりすぐれた仮説にしていく。松本先生も、「俺の理解はこうだ。誰か違う意見のものがいたら出てきて俺と戦え」とおっしゃっているのであって、「俺の考えだけが正しい。黙って俺の言うとおりに信じよ」と言っておられる訳ではないと思います。

<他のものを縁とせず無分別である実義について>

 tom-halさんの引用に従い、松本先生の本を繰っていて、ほったらかしにしていた問題を思い出しました。中論18章の「実義tattva」をどう読みどう評価するか、という問題です。松本先生は、龍樹は実義を「それを想定すれば矛盾に陥ってしまう誤った概念」として提示しているとお考えのようです。
 ややこしい議論になりそうなので、この問題はあらためて考える事にさせて下さい。なんとか早々にまとめまて「小論集」にアップしますので、是非またご批判を頂きたく、よろしくお願い申し上げます。

                              敬具
tom-hal 様
           2002,12,9,          曽我逸郎

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