CHINESESOUPさんより 心に理解させる方法は? 2002,11,21,

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曽我先生、(曽我注:この「先生」は中国語(〜さんの意)であって、日本語ではありません。)

下記の文書を読み、とても考えさせられました。

執着が我々を苦しめています。運命や使命を問う苦しみも執着から起こっています。自分という「存在」に意味を与えようとするのが我執です。執着をなくすには、無我・縁起・空を知ることです。そうすれば、自分もあらゆる出来事も、(自分の病気でさえ!? <−−−これには今の私には少し自信がない)美しく喜ばしく楽しめる。同時に、縁起し合う他の有情への慈悲も生まれると思います。執着による苦しみから離れさせ、縁起の喜びを知ってもらおうと考える。(ここでいわばひとつの使命が発生します。しかしこれは、与えられた使命ではなく、我々のうちから発生する感情です。)
まとめていえば、、、
あらかじめ用意された運命も使命も価値も目的もない。
苦を離れたければ、無我・縁起・空を知りなさい。
そうすれば、他とともに縁起する現象として、楽しむことができる。
同時に他の有情への慈悲が起こり、
他の有情も執着を離れ、縁起を喜べるようになるよう努力することになる。

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・・・とても共鳴できる考え方でありますが、曽我さんはこの考え方をどうやって日常に適応させていらっしゃるのでしょうか?

人間は恐怖を経験するたびに自己防衛のため、何かに執着する傾向があると私は思います。「苦」というもにに縛られたくなければ、「無我・縁起・空を知りなさい」というのは頭で理解できても、心に理解させるのはきっと何かのカタチのトレーニングが必要だと思います。本当に意味での「解放」に向かうためにも何かよいトレーニング方法があればアドバイスをください。

解放軍

CHINESESOUP


CHINESESOUPさんへの返事  2002,11,30,

拝啓

 鋭い質問を頂きました。たじろいでしまって、どう返事を書こうか、ずいぶん試行錯誤しました。タイミングを失した回答になったかもしれません。すみません。

 無我=縁起を本当に知るとは、自分の無我=縁起を知る事であり、それは「頭の中に対象として立てた自分」の無我=縁起ではなく、主体の自分の無我=縁起を心底で感じ入ることだと思います。そのためには、おっしゃるとおり頭で考えるだけではなく、ある種のトレーニングと、その先の特別の体験(般若の体験)が必要であろうと考えています。

 仏教では、戒定慧の三学を説きます。「心に理解させる」ためのトレーニングは、おそらく定にあたるでしょう。乱暴に言ってしまうと瞑想によるトレーニングです。
 私自身の体験では、学生時代某臨済宗寺院で数息観による座禅を習いました。具体的な方法は、「あたりまえ、、」本文の左フレーム目次の「変化を見る練習」の「座る練習」をクリックしてください。この方法で禅定体験は何度か得たものの、画然たる般若体験は知らないまま、その後就職して練習から遠ざかり、既に20年あまりが過ぎてしまいました。
 今から思い返すと、あの頃は今よりずっと我執の固まりで、自分には価値や意味があるはずだと信じながら、目指すべき目的のない事に苛立ち、「それならばニーチェのツァラトゥストラの「三段階の変身」の子供になって、自ら新しい価値を遊びで生み出すのだ」と息巻いて、わけもわからず「無念無想」を目指していたように思います。
 つまり、釈尊の教えをきちんと学ばずに、瞑想するだけでは効果は期待できないということですね。「心」で理解しようとする前に頭で無我=縁起を学んでおく必要があります。つまり、日本の「仏教」が軽視しがちな分別による学習が必要です。

 また、瞑想も「無念無想」ばかりではないようです。
 杉浦さんという方は、「自分のあり方をどこまでも厳しく観察しつづけよ。そうすれば数ヶ月で解脱できる。」というメールを下さいました。青木さんは、南方上座部の瞑想法として、「瞑想中、無意識のうちに立ち起ってくる思いを観察してラベリングする」というのを紹介して下さいました。(お二人のメールは、「あたりまえ、、」HPの意見交換でご確認下さい。) また、メールの公開を許して頂いていないので仮にXさんとしておきますが、「自分に人からかけてもらっている慈悲を思い、自分が人にしている慈悲のない行いを考える」ことが覚りへの道だおっしゃっています。
 般若体験のない私には、これらのご意見にコメントする事が出来ませんが、少なくとも三人に共通なのは、「自分を見つめる」という点です。無我=縁起の教えも、釈尊がご自身を深く探求された結果発見された真理でしょうし、単に何も考えない禅定にだけ沈潜しておられた筈はありません。自分を見つめ分析することも、重要な瞑想であろうと思います。

 戒定慧に話を戻すと、定の前に戒という準備があります。狭くいうと戒律を授かってそれを守るということですが、本来の目的は気持ちを騒がせないで穏やかに保つということだと思っています。戒で気持ちを落ち着けておいて定の訓練をする。そういうステップだと思います。ですから、戒律というほど大げさに考える必要はないし、いわんや戒律を100%守れないといって自分を苛むならかえって逆効果だと思います。凡夫ですから守れなくてあたりまえです。
 ただし、大げさには考えないけれど、日常なるべく悪い事を思うのを避けて、なるべくいい事を心がける。(自分で書きながらはずかしい。人から見れば「お前がそんなことを言うとはちゃんちゃらおかしい」と笑われそうですが、私も凡夫の極みながらなるべく心がけているつもりですので、どうかお許し下さい。)
 悪い事というのは、例えば、損だ得だ、上だ下だと引き比べて、腹を立てたり、思いあがったり、妬んだりすることです。そんなふうに思うと、「あたりまえ、、、」本文の表現を使うなら、「重く堅く脆く」なってしまう。悪い事を思うのを避けるのは意外と簡単で、今自分が重たく凝り固まって濁っていないか、そのつど自分をちょっと振り返ってみればいいのです。大抵の悪い気持ちは修められます。
 いい事というのも大げさな事ではなく、例えば扉を押し開いたら後ろに人が居ないか振り向いて、居たらちょっと持っておくとか、そういう些細な事です。そして、もしもっと立派な事をして、自分が良い事をしたと思ってしまったら、すぐにその功徳を一切有情に回向して自分の元に留めないようにするのです。
 悪くもなく、立派でもない、中間のところで、なるべく穏やかで軽やかで柔軟で透明に自分を保つ。それが日常心がけるべき事だと思います。

 もうひとつ、これは戒定慧に当てはめる事ができるのかどうか分かりませんが、私自身には大変有効だったことです。
 用事で出歩く時もなるべく上を見上げて歩くのです。一番悪い状態の時も、自然が救いでした。アスファルトに視線を落とさずに、雲や梢や小鳥をながめて、気持ちをそちらへ広げる。それだけで随分気持ちを軽く透明に出来ます。どんより曇った冬空が多いのかもしれませんが、試してみてください。

 「心に無我=縁起を理解させる」のは、とても難しい事です。釈尊から2500年も隔たった現代では一生かかっても難しいのかもしれません。ですが、それが完成するまで仏教は何の救いももたらさない訳ではありません。頭で無我=縁起を学ぶだけでも、何も知らないのとは全然違う。そして時々に無我=縁起を自分に当てはめて考え、自分のあり方を振り返り反省し、柔軟で軽く透明であるように努めていく。そうすれば、濁った苦しみを、喜びにはできずとも、透き通った悲しみには変えていけるのではないかと思います。

 如来に至る4つの段階の図というのを、00年10月12日のユキオさんのメールへの返事に添付しています。奥の方でつながった話かと思うので、「あたりまえ、、」の意見交換のページで一度ご覧頂けたら幸いです。(図で「意識の指向性停止体験」と書いているのは、このメールの「般若体験」にあたります。)

 重いとか堅いとか濁ったとか、実体的ないい方をしてしまいましたが、他にうまい言い方が見つからないための比喩です。心という実体があると考えているわけではありませんので、その点はご了承下さい。

 このメールで、なにかヒントを見つけて頂けたらうれしいです。
 またお便り下さい。
                              敬具
CHINESESOUP様
            2002,11,30,            曽我逸郎


ユキオさんへ

ご無沙汰しております。その後如何お過ごしでしょうか?
メールをお送りしましたが、アドレスエラーで戻ってきました。
もしこれを読んでいただけたら、またご連絡頂けるとうれしいです。
よろしくお願い致します。

ユキオ様
        曽我

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