匿名希望さんより 縁起・因果・執着と苦 2002,10,10,

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**の**です。お久しぶりです。

私の友人も、僧籍です。20年ほど前、開田村の住職でした。この友人の話しはなかなか面白いのですが、これはまた機会がありましたら。
ところで、あなたの「こだわり」は、どこにあるのでしょうか?「こだわり」といってしまうと、「分かっていない」ということになるのかも知れませんが、この「こだわり」は、「解脱」とは無縁の「執」といえばいいのかもしれません。

というのも、私も学生時代に「ニヒリズム」=無気力に囚われ、少しばかりその手の本を読みました。

*「アートマン」というものがどれほど肉体の状態に左右され、一貫性がないか、を釈尊は深く観察した。

という指摘はとてもよく理解できるのです。学生時代のある時、「深刻に考える必要はないのだ。」と思った時、私は、ある種の解決がついてのですが、結局、結核を患ってしまいました。
また、つい最近のこと、古い結核という病が、もっと別の原因からであるらしいことが分かったのです。
以上は、全く個人的な経緯なのですが、あなたのHPから感るものがありましたので、ちょっと感慨を述べさせていただきました。

ひとつ質問がありますが、
「縁起」というのは、「因果」でしょうか?そして、「因」は「執着」、「果」は「苦」なのでしょうか?

お時間がある時で結構ですので、ご教示下さい。


匿名希望さんへの返事  2002,12,3,

拝啓

 ご無沙汰を致しております。お元気でしょうか?
 返事遅くなり申し訳ありません。

 ご質問を頂きました。

>「縁起」というのは、「因果」でしょうか?
>そして、「因」は「執着」、「果」は「苦」なのでしょうか?

 縁起と因果については同じことだと考えてしまっていいと思います。うるさく区別すればいくらでも細かい事をいえるのでしょうが、ともに「すべてに縁や因があって、すべてはそれによって起こる」という教えです。すなわち、独立自存のモノはない。すべては縁によって時間の中に生まれ、縁によって変化し、縁によって終わる現象である、というあたりまえの教えです。

 ただ、因がそのまま執着のことであるとは私は考えません。数学の集合でいうと「因=執着」ではなく、「因⊃執着」と考えます。確かに執着は因として働きますが、執着の他にも因はたくさんあるのです。

 もし因果を執着と苦に限定すると、以下のような問題が生じます。
 「私の執着が、私に苦をもたらしている。私が執着を吹き消せば、私の苦は消える」
 このように考えてしまうでしょう。一見この考えは正しい仏教のように見えます。しかし、こう考えるとどこまでも<私>が残ってしまう。<私>が無我である事、<私>が縁起の現象である事を知る事が仏教の核心だと思っています。<私>が永遠不変自立自存で実体的にあると思っている限り、つまり我執のある限り、執着の火は燃えつづけるのです。

 私は、因果を倫理的あるいは宗教的な意味に限定せず、世界のすべてが因であり果である、と考えています。地球も大きな宇宙の因が複合して生まれ、その地球環境を因として私たちは生まれた。ちょっとした偶然で事故に遭って死ぬ事もあるし、様々な出会いで、悪の道を転げ落ちたり、教えられたりもする。私たち自身も因になっている。例えば、ちょっとした行いや言葉が回りの人を思いがけず傷つけたり勇気づけたりする。なにより自分自身のあり方が、自分自身への縁となり因となって、次の自分のあり方に影響を残していく。つまり、わたしの執着は、因であると同時に、これまでの私のあり方によって生み出された果でもあるわけです。

 集合の考えでいうと、「因も果もどちらも全体集合であり、等しい。この全体集合に含まれないものはない。」ということになるかと思います。つまり、因となって果にならないもの、すなわち神や超越的真理世界や自存の自我(アートマン)を本来仏教は認めないのです。

 関連して「あたりまえ、、」ホームページの「小論集」「人無我を説く方便の試み。無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か。その1:縁起」も見ていただければ幸いです。

 また是非ご意見ご批判をお寄せ下さい。
 よろしくお願いします。

                                 敬具
**様
         2002,12,3,            曽我逸郎

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