brownさんより オートポイエーシス論の一考察 2002,9,16,

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 (曽我注記)9月に頂いていたメールが、今頃の掲載になってしまいました。返事も遅くなり、brownさんには大変失礼をいたしました。

Pat Smith さんより<いつも化システム>主客対消滅と分裂病を読んでと曽我様によるそれへの返答・・・を読んで

とややこしいタイトルですが,「オートポイエーシス」というものに関する思考実験,面白そうですので,是非,私にも一見解を述べさせてください。

>まず私たちは、感覚器官の受容できる刺激を受容できる範囲・受容できる仕方でしか受け取ることができません。・・・
>バーチャル化は、比較的低次の小さな構成素サイクルが機械的・盲目的に作動し続けて、情報の変容を行っていることに・・・
>もしこれがそんなに的外れでないとしたら、仏教の解脱というのは、比較的高次の(後発の)ハイパーサイクルの組み替えではないでしょうか?・・・
>ハイパーサイクルの組換えという結果を考えると、外に開かれる体験というより脳内の爆発的共鳴と考えた方が筋は通りやすいようにも思えますが、それがどうして般若智になり得るのか? 般若智は、病気の症状や思い込みと、どう違うのか、、、?

五蘊をよく観察していきますと,感覚刺激は,まず意識によって捉えられますが,その後,次々に多様なものが付け加わっていきます。すなわち,まず以前から持っている認識態度によって取捨選択されたり,都合のよいものは強められたり,都合のわるいものは弱められたり,思考によってフィルタリングされてしまいます。ついで,感情的な判断が起こり,この判断に基づいて感情連鎖が起こります。
この連鎖が起こっている間にも次の感覚刺激が起こりますが,思考によってフィルタリングされ,都合のよいもののみが強められて,後は弱められますから,次に感情的判断の対象になるのは,比較的強い関心事が感覚されたときになります。そのときまで,前の感情連鎖は続いていき,引き続いて今度の新しい感覚刺激に対する感情連鎖が起こっていきます。
このようにして心は思考と感情連鎖が互いにタッグを組んで騒がしくなっています。

しかし,ここで起こっている感覚刺激と,その後の思考や感情連鎖の不可避的関係性は,実は必然ではないのです。
解脱とは,このような思考や感情連鎖と,感覚刺激の間の関係の恣意性,この関係から自由になることが可能であることを,体験的に知るものです。

であるならば,次のように考えられるのではないでしょうか。
仏教の解脱とは,感覚刺激とハイパーサイクルとの間の関係性の自由であると。
ハイパーサイクルの組み替えという場合,その組換え先は特定の固定した解脱サイクルがあるのではなく,組み替えがいかようにもかのうであるということです。

それがどうして般若智になるのか?もうおわかりですよね?


brownさんへの返事  2002,11,23,

拝啓

 メール頂戴していながら、返事が遅くなり、また、ホームページへの転載も遅れ、大変失礼を致しました。転居に伴うごたごたでパソコンが一台使用不能のままで、頭の中同様、メール管理まで混乱しております。

 オートポイエーシスを理解するためには、我々の日常のモノの見方の改変を必要とするようで、日常のモノの見方が抜けきれない私には、なかなか一筋縄ではいきません。どの程度本意に沿った理解が出来ているのか、心もとないありさまです。

 さて、頂いたメールで、brownさんは、こう主張しておられると理解しました。間違っていたら訂正してください。

 >我々の感覚・思考・感情は、一連のものとして働いているが、フィルタリングにより、その連鎖のサイクルは不可避的なもの(決定論的なもの)となっている。しかし、本当は、その連鎖は決定論的なものではなくて、一段階ごとに多様なステップが可能である。解脱とは、それまでの世俗的決定論的サイクルから、あるひとつの別の解脱的サイクルに移行する事ではなくて、様々なサイクルを組替えていく自由を獲得する事である。

 この理解でよろしいでしょうか?

 本来は多様な反応が可能なのに、実際はシステムによって導かれて、決まったパターンに縛られているという点は、私も同じように考えます。

 ただ、ひとつ疑問があります。  おっしゃるところの「様々なサイクルを組替えていく自由」は、誰の自由でしょうか?

 昔、錬金術師が精子から単性生殖で作り出そうとした小型人造人間ホムンクルスになぞらえて、「脳の中のホムンクルス」と呼んだりするようですが、脳の中で、感覚器からあがってくる情報を分析・判断して命令を出す小さな人間、そういう何者かを無意識のうちに想定しておられないでしょうか? ガンダムのモビルスーツ(我々の肉体)を操るパイロットのような。臨済が「赤肉団上の一無位真人」と言ったのにも、同様の危険が隠れていると思います。つまり、釈尊が否定されたアートマンを要請する事になるのではないでしょうか。

 無我=縁起は、すべてにあてはまります。悟る前は無我=縁起で、悟ったら「真我・不滅・自立自存」などということはありません。悟った後も、それ以前と同様に無我であり縁起しています。悟る前は無我=縁起を悟っていない。悟るという事は、自分の無我=縁起を知る事だと考えます。

 動物は、生き延びるために様々なしくみを進化させてきました。ゾウリムシやクラゲの段階から高度化されてきたシステムの自己変革の過程の上に、自己意識や執着や悟りを跡付けねば、真に無我=縁起に立つとはいえないと考えます。神や霊魂などを「上に」想定するのではなく、「下から」の自己変革の一段階として、自分を考えていこうと思います。

 という事で、悟りは、世俗的な執着のあり方に行き詰まり苦しんだ「執着の自己」システムが、このままではダメだと煩悶し試行錯誤し自らを改変して新しいシステムを生み出す事であり、その新システムは、万人のそれがぴったりと一致する筈はありませんが、それでもひとつのパターンがあるのではないかと想像します。

 (関連して思いついたのですが、悟りが自己改変でしかあり得ないとすれば、改変の必要を感じていない人、苦に直面していない人は、いかに釈尊といえど救えなかったことになります。仏教は、自己改変しようとする人だけを救う教えなのでしょうか?)

 以上、一部刺のある表現もまじえてしまいましたが、自問自答の思考実験とお考え頂き、ご容赦下さい。

 いろいろな事を考えるきっかけを頂きました。ありがとうございます。今後ともよろしくお願い致します。

                               敬具
brown様
            2002,11,23,    曽我逸郎

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