萱谷 和之 さんより 縁起論 2002,11,2,

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前略

曽我さんの小論集や、投稿者の方々とのやり取りを拝見しますと、私などよりは余程深く釈迦の思想というものご理解なさっているとお見受けいたしました。
したがたって、説明的な話は、この場ではする必要はないと思いますので、できるだけ核心部分のみ話をさせていただきます。

「縁起」

縁起とは「万物は縁に依って生起している」ということですが、縁とは龍樹の言うように関係性あるいは相依性と解釈するのが妥当だと思います。一因一果的な関係では「世界は虚妄である」とか「無我」というような発想には、至らないと考えます。二次元てきな広がりを持った関係性から、さらには三次元的に複雑に絡み合った関係性といったものを想定して初めて、「世界は虚妄である」とか「無我」ということになるのだと思います。

次に「縁に依って」とはどのように解釈すべきでしょうか。「縁に依って」とは「関係性の中に」とか「関係性の中で」とか解釈するのが普通だと思います。
したがって縁起とは「万物は関係性の中に生起している」という意味だと考えられます。

ここで疑問が生じます。釈迦は単に「万物は関係性の中に生起している」と述べているだけで、どのような仕方で万物が生起しているかという点については、何も語っておられません。
いわゆる無記です。
関係性が、万物を生起させているわけではありません。関係性が実体的な力を持つということは考えられません。

では、万物はどのようにして、生起しているのでしょうか。無記に属することがらをここで、ああだこうだと言ってみても意味のないことですが、敢えて考察するならば、生起の仕方は基本的に二通りしかありません。

@ 万物は他者の力によって、関係性の中に生起している。
A 万物は自らの力によって、関係性の中に生起している。

釈迦がどちらの立場であったかは、不明です。しかし、@,Aいずれの立場をとっても関係性の中に生起する以上、関係性に依存することに、変わりはありませんから、結果的には同じことになります。したがって、釈迦には敢えて語る必要が無かった、ということかも知れません。

このようにして、釈迦は存在というものを、関係性の中に置かれました。関係性の中に置かれた存在とは、いかなるものとなるのでしょうか。

「無我」

有神論者は存在の根拠を神に置きます。神によって創造された我は、実体を持ちます。

荘子は我自身に存在の根拠を置きます。乱暴なやり方ではありますが、この場合も我は実体を持ちます。

釈迦は関係性の中に存在の根拠を置きます。この場合我は実体を持つでしょうか。

我は、他者との関係性によって、その存在形態が左右される、ということができるでしょう。関係性は不安定で、絶えず変化し、揺れ動き、ゆらぎ続けています。このような中に置かれた我もまた、ゆらぎ続け、変化し続ける存在でしかありません。

龍樹がよく使う言葉を借りれば、「有でもなければ無でもない」、「有でありかつ無である」というような存在と、ならざるをえません。もはや捉えようとて捉えられない存在です。
したがって、この世界における存在とははすべからく、不確実で不確定な存在形態しかとりえない、実体であり現象である、それが釈迦のいう「無我」だと考えます。

関係性の中に、存在の根拠を置くという発想は、革新的で釈迦以前にはなかったはずです。それが釈迦の比類なき独自性だと考えます。
したがって、アートマン「永遠不滅の我という実体」については、正確には無記ですが、輪廻する不滅の我などは、否定的であろうと思われます。しかし「我という実体」に」ついては、上述のように存在しない、と言っておられるのではありません。

以上が私の縁議論の要点です。

曽我 様
                           萱谷 和之


萱谷 和之 さんへの返事  

すみません。まだお出しできていません。しばらくお時間を下さい。

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