HYさん 菩薩行 2004,3,23,

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曽我様 お返事ありがとうございました。
大変深く観察しておられます。
卵が先か鶏が先かというどうどうめぐり的因果関係は確かにありますね。一方的な問題ではないでしね。
葬儀に関しては新しい流れが望まれますね。

釈尊と大乗仏教の比較のところですが、大乗のいわゆる菩薩思想についてのはどうお考えでしょうか?私は般若経典群(どこだか今は言えませんが)や浄土思想(48誓願)に本当に感激しました。空といいますが空だからこそ自他に差異を認めない方向 そこに行・行為としての菩薩行が付随するのではと思うのですが?
(実際に行なうのは不可能ともいえますが。)
外の自然ということで述べておられますね?そこに含意されておられるのでしょうか?
死後生のことですが、私は仏典のなかに肯定を認める立場です。正法眼蔵も輪廻が前提ととらえています。ダンマパダも同じかな。

お話聞かせてくだされば幸いです。私もできれば具体的に書きます。
それでは 曽我様の日々が安穏でありますように 合掌


HYさんへの返事 2004,3,27,

拝啓

 お返事ありがとうございます。

 菩薩行については、共感と憧れを感じていますが、同時にそこに潜む危険性も考えざるを得ません。慎重さが必要だと思っています。

 イスラエルが、ハマスの指導者を殺害しました。アメリカやイスラエルの政府のやることには、憤りを感じます。自爆テロは社会の敵であるが、国家が命令して正規軍がミサイルを打つことは正当化されるのか。一体イラクで何人の子供や一般市民を巻き添えにしたのか、劣化ウランは、、。
 「どっちもどっち」ではない。力があり状況を支配する側がそういう状況をつくりそこに相手を追い込んだのだから、そちらに責任があるに決まっている!
 これが私の正直な気持ちです。しかし、これでは自爆テロの実行犯と同じこと、苦しみを拡大する結果しか生みません。

 イラクの民主化、ベトナムを共産主義者から守る、欧米列強からの東亜の解放、、。世の中に表立って悪い戦争はありません。戦争はいつも美辞麗句で飾られる。それに躍らされた善なる犠牲的精神を道具にして、巨悪は苦の量産を加速する。菩薩行のつもりで苦を創り出すことになってはなりません。

 菩薩という言葉には、ふたつの意味があります。十分な修行を積み、仏の段階に達しているけれど、敢えて仏にならず、濁世の中で有情済度に励む人。つまり、実質は仏の菩薩。もうひとつは、大乗において発心した人。つまり、実質は凡夫の菩薩。
 それに対応して、菩薩行という言葉は、実質仏の救済活動でもあり得るし、実質凡夫の利他行でもあり得ます。でも、凡夫にとっては、自分たちの為すべき利他行という方に、強いメッセージを受け止めるのではないでしょうか。結果、ややもすると安直なヒロイズム、単純に悪を攻撃する感情に陥りかねません。

 では、なにに気をつけなければいけないのか?
 おそらく「捨」(慈悲喜捨の捨)だろうと思います。以前、佐藤哲朗さんに御教授頂いたにもかかわらず(意見交換 03,6,12付 参照)、正しく理解できているか心もとないのですが、おそらくこういうことではないかと思っています。少し長くなるかもしれませんが、お許し下さい。

 人は、自分が苦しんでいることに案外気がつかないように思います。例えばパレスチナ、イスラエルもそうです。お互いとんでもなく苦しめあい、苦しみあっている。外から見たら明白なのに、当事者には憎しみに覆い隠されて苦しみがきちんと見えない。報復の一時的快哉のために憎しみの炎を燃やしつづける。憎しみや怒り等の悪い感情は、苦をつくりながら、その苦を見えなくさせます。遠い国を考えなくても、私達自身の日常にいくらでも見つけられることです。

 「やめたくてもやめられない脳」(廣中直行、ちくま新書)によると、依存症には共通のパターンがあり、それは慢性的な苦が一時だけ快で解消され、その後さらに深い苦に沈む、というパターンなのだそうです。だとすると、不謹慎な言い方かもしれませんが、パレスチナ・イスラエルは、「報復依存症」に罹っているという捉え方ができるのかもしれません。

 苦に気づかないのは、「被害者」ばかりではありません。要領よく立ちまわって、利益をせしめているつもりの人も、自分を苦しめています。ズルをしても毎度毎度うまくいくとは限りません。味を占めれば、欲はもっと大きくなる。敵も増える。苛立ち、あせり、不安になり、腹を立てながら暮らしています。時にうまく行けば、ヤッタゼと喜び、さらに欲望を強くする。人を苦しめて利益をせしめる「加害者」も、ベースとしては自分を苦しめています。悪いことをして利益を得ようとする人も、一種の依存症の患者だと思います。安らいだ顔はしていません。

 「被害者」のみならず「加害者」の苦にも気づくことが、「捨」ではないかと思います。「被害者」のみならず「加害者」に対しても、慈悲の気持ちを持てること。単純に悪を憎み、攻撃するのではなく、悪と苦を生み出す執着を洞察し、執着に対してよく知りよく考えた慈悲で対処する。理想の菩薩行は、このようなものだと思います。

 自分の苦のみならず、一切有情の苦も解決しようとする気持ちは貴重なものです。一切有情には、善人も悪人も、被害者も加害者もいる。おそらく大抵の人はその両方であるのでしょう。すべての人が執着の反応を止め人と自分に苦を与えぬようにと願う真の菩薩行は、まだ執着を離れない実質凡夫の実践というより、実質仏の技に近いということになります。

 まあ、しかし、凡夫である我々が、完全さにこだわるあまり、志をあきらめてはなりません。一切の有情の苦を抜くという理想を持ちながら、よく見、よく考えて、信じるところを行ない、しかも反省を忘れない。これが実質凡夫の菩薩行のあるべき姿だと思います。

 偉そうに御託を並べて、それじゃお前はなにをやってるの? そう訊かれたら、正直、返す言葉を失います。
 しかし、個々の苦への対処よりも、仏教の視点でものを見る人が一人でも増えることの方が、迂遠ではあるかもしれませんが、世界の苦を減らすことに繋がっていくとも考えられます。もしこれが正しいなら、釈尊の教えとはなにか問いかけつつ、同時に自分の理解も深めて行けるならば、苦の滅を目指す愚直な方法かもしれません。今はそう開き直らせてください。
 それにまた、自分の執着をもう少しでも制御できるようにならないと、危なかしくてなにもできません。自分を知ること、それが当面の課題です。

 御意見・御批判をお聞かせ下さい。
                              敬具
HY様
     2004、3、27、                  曽我逸郎

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