江口聖市さん 空と気功 2004,3,25,

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曽我 様

申し送れましたが、私は10年程、中国の気功を気の向いた時にやっています。この気功では、科学的思惟を駆使して体系づけた理論があるのですが、空を無極(混沌とした一なるもの)として捉えています。
私は前回、空とは命のことと簡単に言いましたが、もう少し詳しく説明させて下さい。私の言うところの命とは、気功で表現する性命を意味します。性とは心であり、命とは身のことで、心身が一つとなっている、生命を意味します。これをまず頭に入れていただいて、私の空についての考えをあらためて発表させていただきます。

まず性命の概念ですが、本性(心の本質)は先天的な三元(気、光、音)の和合体であるのに対して本命(色、身体の本質)は後天的な三元の和合体としています。性(心)は人天の情報系統で、無極次元に属し、元音(情報)がリードしています。命は人天の物質系統で、太極次元に属し、元気(物質)がリードしています。性命(色心)が一つになって、新しいエネルギー系統を作り、皇極次元に属し元光(エネルギー)がリードしています。
性(心)は無形で、命(身)は有形で無有が化合してはじめて総体になり、命(身)がなければ、性(心)が成り立たない、性(心)がなければ、命(身)には、活性がなく、性命は互いに依存しあっています。無有の運動変化は先天と後天が仮生することで、無形無象は先天本性(心の本質)に属し、有形有象は後天本命(身の本質)に属します。道より天地万物を産み、自然は道の徳で、道の本性です。 形、生、知は万物の本性で、人間は万物の霊長で、知と霊が人間の本性(心)です。

人間は万物の霊であり、天、地と三才に位しています。人体は肉体と精神によって構成され、精、気、神によって生存しています。精、気、神は気、光、音の化身と言われています。人体は二つの次元に分かれます。つまり、精血、皮膚と毛髪、骨と肉、経絡、髄、神経、細胞、臓腑などは有形の肉体を構成し、有限な生命に属します。そして、思想、感情、欲望、意思、思惟は本性が和合して、形象も、体積もない精神系統を構成して、無限生命に属します。
有限生命(本命)と 無限生命(本性)は相互に生じ、相互に極化して人体を正常に営んでいます。

人の生命は長寿であり、その中に蓄積されているエネルギーと知恵は極まりの無いものとといえます。人は自然界と社会に生活して、目、耳、鼻、舌、身などの感覚器官を通じて自然界の陰陽、四時や、色、声、香、味、触などの客観物質と接触し、受、想、行、識と喜、怒、悲、思、憂、恐、驚の主観生活を生じます。客観物質と主観生活が絶えず発展、運動(変化)していくに従って、精、気、神(気、光、音)が、時々有形(動)と無形(静)の激しい摩擦と揺れ動きに騒がせられるため、体内の三元(気、光、音)が漸次損なわれ、多くから少なくなり、強くから弱くなり、疾病にかかり、人の命は短縮してしまいます。三元が絶えるにつれて、人の有限生命があまりに早く終わるため、人体の本性(心)の機能は充分に顕れることができなくなってしまうのです。人はただ有限生命の研究を重視して、無限生命の中に潜在(冥伏)するエネルギーの研究をおろそかにしています。

有限生命と無限生命が有機的に和合すれば、知恵が円満になれます。

天地は永遠にそんざいし、刻々陰陽が、有機的に相合い、動と静が相通じる運動法則に従っています。(生、化、返)。でも、人は客観物質と主観生活の束縛の中、三元を吸収したり、集積することが困難な状態になり、無限生命と有限生命を徹底的に合わせることができずにいます。

天、地、人の三才を生ずる根源、つまり、万物の根源は、元気、元光、元音、で、この三元が、生、化、返を、繰り返していく度に三元の質が更に昇華されている、一が二になり、二が三を産み更に新しい一を形作るその道、法、が空の本質と私は、思うようになったのです。空とは、無極ですべてのものが、混沌としていながらも一つのあり方として、生、化、返(無常、縁起)を繰り返しながら永遠に実在していることを指すのではないでしょうか?

気功は、あまり真剣にやっておりませんので、今まで説明させていただいた理論に対して、私は実感が湧かないのですが〜〜。細君は20年以上のベテランでしょっちゅう、地球を宇宙から観てます。自分の骨や内臓も簡単に観れるそうです。小生は、できるだけ近寄らないようにしてますが。その細君も最近は気功に関心をもたず、専ら量子力学の本を読みまくっております。曰く、念には陽子、よりも極少の霊子(波)があるんだとか、言い出してます。

江口 拝


江口聖市さんへの返事 2004,3,27,

前略

 空を述語としてではなく名詞として捉え、対象化し、実体視することは誤りであると考えています。その考えが生まれる経緯も誤りですし、その考えがもたらしたものも誤りです(執着の肯定、誤った修行)。この誤りは、梵我一如の伝統のあるインドで生まれ、中国で老荘思想の影響を受け、さらに発展しました。
 「空思想」の問題点につきましては、先にお送りしたメールでも述べたつもりですが、意見交換04,1,26,の清水さんへのメール、04,3,14, ひばりさんへのメールでも触れておりますので、是非あわせて御一読下さいますようお願い申し上げます。

 気功を気功として語るのであればまったく問題はありませんが、誤った仏教理解を気功の理論でさらに迷わせるのは、よいこととは思えません。

                              草々
江口聖市様
                          曽我逸郎


江口聖市さんから再び 空と気功(続き) 2004,3,28,

曽我様

私の説明?不足で、曽我様には大変ご迷惑をおかけしてしまったことを、まずお詫び申し上げます。
一般の気功のことはよく存じていませんが、すくなくとも私が関心をもったこの元極気功は、儒教、道教、仏教に中国独特の科学的な手法でアプローチしているものです。言葉や、修錬は形而下的でよく唯物論とかんちがいされているのも事実です。

空を実体化、人格化、神格化するものでありません。言葉で空を語ることはまず不可能と思えますが、ただ、万物を作るもととなった5大(地水火風空)のひとつでもあるのですから、空に実態があることも証明できていないのと同様実態が無いことも又証明されていません。
わたしは、空には、音(意思、心、情報、波動)や、気(所謂5番目の力、エネルギー、素粒子の最小単位など)が潜んでいる(潜伏、冥伏)と捉えているのです。そうでなければ、宇宙の万物は、それこそ何もなかった空から生じているのですから、本当に何にも無い、無から星や、天地や人が結果的に現在今在るということを説明できません。

現にラジオやテレビは、空中の電波(目では存在を確認できない)に因って音声や画像を表現しているのですから、空には、いかなる存在も無いとするのは、無理があると思うのです。
たとえば、皆さん怒る、喜ぶという心を言動、振る舞いで表しますが、それは、誰かに叩かれたり、褒められたりする縁によって、そうした心の動きを出せるのではないですか。 そうした縁もなしに、いま、ここで怒ってみろとか喜んでみろといわれても、そんな気持ちは出せないはずです。だからといって、喜怒哀楽の心は、どこに在るのだと探してもどこにもありません。しかし、皆、こうしたこころの動きを、何らかの縁があれば、出すことができるのですから、五感で確認できないから、心は実在しないとは言えないとおもうのです。

釈尊は、対告衆に対して、無常、無我を説きました。又、煩悩、執着が苦の原因であるとして、煩悩をなくすために、禅、や般若信教を確かに説きましたが、それは、あくまでも、二乗といわれる特別の人たちに説いたのであって(声聞、縁覚ー独覚)、私たちのような一般大衆には、大乗経というものを説くように後代の聖人に託しました。大乗の基本は、誰にでも簡単に成道できる方法として、只法華経を口に唱えることで、煩悩や執着を滅せずして、そのまま、菩提に転化できるとしたのです。

何度でも言わせて頂きますが、空の存在が科学的に証明されていなくても、その存在を否定することも証明されていないのです。ですから、その延長上で自分の死後はすべて無に帰すとも思えませんし、何か具体的な個をともなった霊魂が残るとも思えません。有無を超えたものであろうと想像するのです。

何かに執着するという心や、思いは煩悩でもあり、菩提でもあると私は思います。たとえば、お金を貯めたいとか、名誉が欲しいというこころは、対象を変えることにより、菩提心にかわります。衆生を救いたい、すべての経典をマスターしたいなどどいう心に自然と変えれるのです。

空は、実態が在るとすれば無いですし、無いとすればたちどころに姿を現す、万物、万象の根元であり、今の物理学をもってしても、その存在の有無を証明できないものであると、私は感じています。心理学ではこれを集合的無意識と呼んでいます。気の存在も、超紐 (10のー三十三乗)理論で証明できるかもしれないところまで来ています。道鏡では、タオ(道、法)で空を表現しています。

乱文お許し願います。
江口


江口聖市さんから再び 原始仏典の信憑性を問う 2004,4,6,

曽我様

最近曽我様の意見交換のページにご意見が載っていませんが、何かあったのでしょうか?心配してます。早く、あの、独特のお考えを公開していただきたいと願うものです。

私は以前の寄稿で40年近く某仏教を信奉、実践してきていると申しましたが、ある時期を境に自分が信じているもの以外の宗教も、そのまま受け入れなければいけないのではないだろうかと想うに至り、偏見や先入観をできるだけもたないようにして、イスラム、キリスト、道教、ヒンズー教、ユダヤ経など、とにかく、説かれているそのままに、批判せずそのまま受け入れるべきと思い、ITで言うところのネットサーフィンをしてまいりました。

仏教においても、今自分が信じている教えはいったん横へおいて、全くの素人という心構えで、謙虚に、素直に聞いてきました。そうこうしている中で釈尊自らが作った仏典というものはなく、後代の弟子、信奉者によって、小乗経、大乗経の編纂がなされ、厳密には釈迦の直筆の仏典は現存しないことも知りました。
しかし、曽我様を始めとして、真摯に仏教に取り組んでいらっしゃる方は、後代の仏縁ある人が編纂した仏典は加筆や新説、我見が入っているとして基本的にこれらの仏典、経文の内容を否定的にとらえていらっしゃいます。かくいう私もその一人でした。
ですが、よくよく考えてみると、時代が今からさかのぼって昔であればあるほど、信憑性ということに関しては逆に薄らいでいるのではという疑問をもったのです。たしかに釈尊の在世から時代が移ればそれだけ、真実の教えは歪められ、本来の純粋さは失われるでしょう。しかし、勘違いしてならないのはだからといって、100%異質なものになってしまったとはいえないとも思うのです。釈尊滅後2千数百年が経っているのですから、むしろ原始仏典といわれる経そのものの真実性は、後代に書かれた経典と比べて薄いのではないかともとれると思うのです。いずれにしても、後代の弟子が伝承されたものを経典としたものはすべて間違いであるとする態度は、すべての歴史書を否定するのと同じであると思うのです。100歩譲って、今漢訳されて残っている仏典が10%〜20%は、真実があるとしても、曽我様が眼目とされている、無常無我が釈尊の教えのすべてであり、最高であるとすることに、私は疑問をもたざるを得ません。実大乗の立場から言いますと決して無常無我を唯一としてといたのではなく、この教えも方便のひとつとして捉えているからです。

正直に申しますが、曽我様とのやり取り、ひばりさんと曽我さんのやりとりを冷静に判断?して感じたのですが、曽我様は観念に捉われている気がしてなりません。仏法は理論ではありません、あくまでも現実に苦しんでいる衆生から、執着や煩悩が苦の原因であるとしてそれから離れさせようとされて、その時々の人の機根にあわせて、様々に法を説かれたのです。その一つに般若経があるのであって、般若経がすべての人にとってベストの法ではないはずです。この末法といわれている、時代も、国土も人の命も濁りきって、我慢、執着に満ち溢れている時には、般若経はなんの力もないとわたしは思います。我々は、無我無常であると悟れと言われても、おそらく誰もそのように諦観はできないでしょう。もっと時代にあった簡単な誰にでも手軽にできる修行?として、仏(=法)を唱名するだけで、諸々の執着を離れることができるのだと言うことを釈尊は最終的に説きたかったのだと、改めて曽我様との短いやりとりの中で私は確信するに至りました。現実の生活の中で、実践出来そうもない教えを釈尊が説いたとは思えません。般若経はあくまでも、最終的に説いたとされる法華経へと導く為の方便の教えだと、釈迦自身が涅槃経で述べています(10%程度の真実が後代の仏典にあるという前提ですが)

曽我様の忌憚のないお気持ちを聞かせて頂ければ幸いです。
江口 拝


江口聖市さんへの返事 2004,4,7,

拝啓

 御心配おかけして申し訳ございません。

 実は、先月こそ返事を早くお出しできましたが、会社勤めをしていた頃は数ヶ月後ということもしょっちゅうで、元来はそういうスローな性格です。娘の進学・転居やら地元のお祭りやらがあって、ばたばたしておりましたが、それでも従来の私のペースからすれば結構頑張れた方だと自分では思っております。何卒長い目で見て頂きますようお願い申し上げます。
 しかし、開き直って甘えてばかりでもいけませんから、なるべく早くお返事を書くよう努力を致します。ただ、必ずしも頂いたすべてのメールに返事できるという訳でも、頂いたメールをすべてホームページに掲載するという訳でもありません。また逆に、私が掲載したいと思っても、ご許可を頂けない方もいらっしゃいます。

 3月は、本当に多くの御意見を頂きました。ホームページに掲載したもの以外にも、掲載しなかったものもあり、掲載を了承頂けなかった方も数名おられます。

 3月に頂いた御意見の多くには、ひとつの共通した傾向があったように感じています。それは、縁起し移り変わる現象の奥(下、向こう)に「本源」を想定する考えです。それは、私としては何度も批判してきたつもりの「実体視された空(真如)」であり、「老荘的無に引き当てた空解釈」であり、梵我一如の梵であり、他ならぬ「あたりまえ、、、般若経」の空解釈でもあります。この考えには、そこにいたる道筋にも、そこから派生する考えにも、問題があると思っております。(例えば、意見交換 04,1,26, 清水さん 真如について(朝日新聞社「仏教が好き!」)参照下さい。)

 江口さんから頂いた「気功の気」に関連づけた空の解釈も、申し訳ありませんが、この内のひとつと考えております。実は、返事を書きかけていたのですが、個々のメールの個別の問題にお返事をお送りするのではなく、まとめて私の考えを述べてみて、皆さんの御批判を仰ごうと考えております。おそらく小論集に掲出致しますので、その際には是非また厳しい御意見をお聞かせ下さいますようお願い致します。

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 さて、原始仏典の信憑性について、問題提起を頂きました。

 私も、現存する経典のどれもそのまま鵜呑みにすることはできないと考えます。
 仏滅後数百年を経て大胆に創り出された大乗経典のみならず、「甕の水を一滴もこぼさず注ぎ移すように」引き継いできたと上座部の人々が自負するパーリ経典も、原形ができたのは仏滅後数百年で、その後も不純物が混ざり込み、今あるものが釈尊の言葉そのままと信じることはできないと思っています。
 「いかなる権威の教えであれ、誤解されたものかもしれない。鵜呑みにするな。批判的であれ。」 これは、釈尊が死を目前にして残された教えです。(岩波文庫「ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経」P103〜)

 経典を鵜呑みにしない理由を経典からとるのはおかしいでしょうか? すくなくとも、経典を維持してきた教団にとってあまり都合の良くない文言は、後から付け加えられたのではないだろうと想像します。ですから、「長老の教えも鵜呑みにするな」というのは、おそらく釈尊の教えです。
 では、どのようにして混ざりものを排除し、釈尊の教えを抽出するのか?

 ひとつには、文献学など学問上の成果を尊重したいと思います。サンスクリット、パーリ、漢訳、チベット訳などそれぞれの時代の経典を対照することで、経典の増広の過程がある程度推察できます。経典以外でも、美術・工芸や遺跡、異文化・異教の教義との接触の歴史的研究などからも、「仏教」思想の展開の軌跡が見えてくるでしょう。(勿論そんなことを私が自分自身でできる筈はありません。プロの学者の方々の成果に期待するという意味です。)

 経典の文献学的研究の概説として入手しやすいのは、渡辺照宏「お経の話」(岩波新書)です。ぱらぱらと読み返してみた限りでは、著者は無我や縁起こそ仏教だとは考えておられないようですから、もしまだお読みでなければ、江口さんの共感を得るのではないかと思います。

 「中国仏教の批判的研究」(伊藤隆寿・大蔵出版)は、中国仏教は初期のみならず全体が老荘思想の影響下にある格義仏教である、と文献学的に主張しています。この主張が正しければ、中国から仏教を学んだ日本は、格義仏教を学んだことになります。

 江口さんが、<般若経はあくまでも、最終的に説いたとされる法華経へと導く為の方便の教えだと、釈迦自身が涅槃経で述べています>と仰るのは、学問的には10%であれ真実ではないと思います。御存知のとおり、般若経も法華経も涅槃経も、仏滅後数百年たって創り出されており、「釈迦自身が述べている」と考えることはできません。もし「法華経は後に創られたけれど釈尊の本意を正しく捉えている」とか「法華経は釈尊の教えを発展させ、さらに高めた」と言われるのであれば、少なくとも文献学的間違いにはならないでしょう。ただ、その場合は、そのように主張できる根拠を示さねばなりません。

 しかし、学問研究だけで釈尊の教えが解明されるとも思えません。例えば、上記の「お経の話」は、釈尊の教えを絞り込んでいくというより、「釈尊の教えには様々な要素があったであろう。多様な可能性がある」と、逆に網を広げるような論調になっています。

 多様な可能性をすべて認めるべきでしょうか? 私には、世の中で「仏教」と呼ばれるものをすべてそのまま受け入れることはできません。おそらく誰にもできないと思います。もしできるなら、おそらくその人は、自分の生き方とかかわりのないものとして、距離を置いたところにそれらの「仏教」を並べて眺めているにすぎないと思います。
 もし自分の生き方を釈尊に問うなら、それら「仏教」と呼ばれるあまたの教えの中から、自分の実存において真の釈尊の教えを「選択」する他はありません。それは、ひとつのまとまりとして全体が連繋した体系でなければなりません。よしんば言語による体系化が困難だとしても、自分の中ではごまかしなくはっきりと分かっており、方便を尽くして他の人となんらかのやり方でコミュニケートできるものでなければなりません。
 そして、その仏教理解の体系をそれぞれが持ち寄って、戦わせるのです。不謹慎を恐れずに言えば、ポケモンのように。その過程において、自分の仮説の欠陥に気づき、新しい可能性を発見し、それまでの仮説の体系を放棄して新たに再構築し、補強し、だんだんと深めていくことができると思っています。釈尊なき今、なにものも鵜呑みにできない今においては、それだけが釈尊の教えににじり寄る方法ではないかと思います。そして、私のホームページは、そういう試みです。

 そして三番目には、そのようにして目星をつけた教えが本当に自他の苦を滅することができるのか、戯論・分別のレベルを超えて、自分の身において検証することです。私自身のことを申し上げると、ぼつぼつとこの検証を試みはじめたところですが、成果といえるほどの手応えを得られるのは、当分先のことになりそうです。

 釈尊のおそばにいれば、いきなりこの段階からスタートすることができたでしょう。しかし、仏滅後25世紀程がすぎて、相矛盾する教えや胡散臭い教え、危険な教えが争って客引きをしている、まるで大都市の夜の繁華街のような今の日本の「仏教」界では、いきなりの修行、実践は危険すぎます。戯論・分別である程度の検証をまずすべきです。「月をさす指」の比喩で言えば、たくさん立っている指の中から、どれがお釈迦様の指か確かめてから、その示す先を見るということです。
 仏教は、自分自身のこととして本当に分かるには、戒定慧の修行が必要です。しかし、戯論・分別のレベルで検証されても、それに十分耐える合理性を備えていると思います。逆にいえば、戯論・分別の検証にも耐えられないものは、釈尊の教えではない、と考えます。
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 般若経につきましては、ホームページを開いた当初は、般若中観こそ正しい仏教という考えがあり、「あたりまえ、、、般若経」を書いたのですが、最近では、般若思想に対しても批判的な考えを持っています。(山崎清巳さんとの意見交換を御参照下さい。) 現在の私は、般若経がベストとは考えておりません。釈尊こそがベストであり、龍樹の初期中観が釈尊の高みに立ち戻ろうとしたけれど、般若思想は再転落の道になったと思っています。

 皆様から様々な御意見御批判を頂いたお陰で、私の「ポケモン」も随分深化(進化ではなく深化と言いたい。でも、只の変化か?)したように感じていますが、昔の考えの上にただページを積み重ねているので、ホームページ全体が整理されておらず、量ばかり増えて、大変分かりづらくなっています。古い考えや、私にとっては決着済みの問題で御批判を頂くことも多く、ホームページの未整理で混乱を生じさせてしまっていると反省しております。(初期経典をそのまま鵜呑みにできないことも実は既に何度か主張しています。例えば、小論集「タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘」や輪廻についての議論など) 抜本的改造はなかなか手が付けられそうもないので、今後はなるべく小論集を充実させて、細切れではなく、体系的な記述を増やしたいと思います。

 今後とも宜しく御批判の程、お願い申し上げます。
                            敬具
江口聖市様
                          曽我逸郎

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