NORTONV世さん 霊魂。科学と日本仏教各派の見解 2004,3,27,

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NORTONV世です.お返事誠にありがとうございました
小生としては他人様のHP宛てにメールを出したのも,それが掲載されたのも生まれて初め手の経験でして….
 しっかし我ながら幼稚な文章ですなー.神経の働きのあたり明らかに不正確だし.

かような駄文に対し誠に丁寧なレスを付けていただき感謝いたします.

>私は、一知半解のまま進化論や脳科学をこねまわして無我や縁起を考えておりますが、それで苦を吹き消せると考えているわけではありません。あくまで方便です。

そうでしょうね。了解いたしました。最近読んだ本(題名忘れた)仏教で言う”苦を滅する”の”滅する”のもとになっている”ノロータ”という言葉は消滅の事ではなく”制止する”位の意味とありました.
吹き消す事は出来ないが,苦の原因を見つめなければ,コントロール下にも置けないわけですな。

>ひとつには、霊魂のような持続的実体を想定している人、あるいは人間の極自然なあり方として、独立自存の自分がいて諸々のことに対処していると自覚的でなくともなんとなく思っている普通の人々、そういう人々に対して、「ちょっと待って、そうじゃないんじゃない? 無常=無我=縁起の方が、合理的でしょ?」という問題提起ができればと思っています。

とはいえですね、"霊魂(アートマンといってもいいけれど)があるかどうか"という問いに対する科学的な答えといえば正確には"わかりません”又は"科学では取り扱っておりません"ということになりますが・・・・(それこそ物質でも感覚でも想念でも行動でも意志でもないなんてアヤシゲな代物にはそうとしか答えようがありませんぜ)

 (ちょっと長くなるかもしれませんが)曽我法師様なればとっくにご存知かもしれませんが,講談社ブルーバックスに”霊はあるか”(安斎育郎)というのがあります。著者の方は立命館の先生で本業は原子力工学なんだそうですが超常現象などの批判的究明を旨とする会ジャパンスケプティクスの代表でもあります

この本の第二章が面白い。(立ち読みでもあっという間に読めます)相次ぐ霊感商法被害などから問題意識を持った著者が仏教界では,霊をどう考えているかを知る為に仏教各派にアンケートを実施します
貴宗派では霊をどのように説いておられますか
霊の存在についての見解をお願いいたします(中略)
霊は実体を持った存在である
霊は人々の観念としては存在するが実態を伴った存在ではない
霊は存在しない
霊について特定の見解を定めていない
その他
問3.”霊障”“祟り”について(略)
問4.”霊感商法問題について”(略)
問5.霊についての仏教関係者の次のような見解についてどのようにお考えでしょうか

霊を肯定する遠藤誠氏(弁護士/仏教者)の談話(略)
有りとも無いとも言わないが”有り”のほうが方便として便利という鈴木大拙氏の著書中の意見
霊と輪廻の法を説く岡田孝道氏の著書中の意見
仏教は元来無我論/無霊魂論でありこれこそ”正統インド哲学と仏教を分かつ一大事”という秋月龍民氏の著書中の意見
釈尊の”霊魂と肉体の同異に対する無記”を紹介して元来の仏教の立場を説明し後代に輪廻転生説までが仏教に取り入れられるようになったとの”新・仏教辞典”における中村元氏の説明

 さすがはジャパンスケプティクス代表。24の各宗派から回答が寄せられました(これ、例えば松本史朗先生あたりがやろうとしても中々協力は得られんでしょうね)

 で結果はどうかというと見事にバラバラ。例えば問2.に対しては同じ真言密教系の中でも@ABDがある始末で著者の結論は”日本の仏教に於いては、いずれの宗派のいずれの僧侶に出会ったかによって霊に関する理解には極めて大きな隔たりが生じ得ることが示された”って何じゃそりゃ!?三法印か四方印か知りませんが諸行無常と諸法無我は大乗/行座部を問わず各宗旨共通だと思っていましたがなんだかなあ.

問5に関する回答はこれまた各宗派により実にさまざまで思わず吹いてしまいそうな物もあります.読んでのお楽しみにしてください.

総じて浄土真宗系は霊だの輪廻転生などはスパッと否定しています.これに対し日蓮宗系は肯定的な傾向があるようです.

大変申し遅れました.小生は機械工場に勤めるエンジニアで昆虫採集という殺生戒を犯すことを道楽としているものです.自分ではそう思いませんがとりあえず理科系人間でして。
NORTONV世の名は19世紀の偉大な皇帝ノートン1世から採っています(もしご存知でなかったら一度ぐぐってください)
幼稚な文章を書いていますが歳は曽我法師さまと同年輩で多分小生のほうが少し上です。
 仏教のことは曽我法師さまと佐倉大哲さまのHPで知ったことが殆どでして(相当偏向してますなこりゃ)・・・
 お二人に教えて頂いた釈尊や竜樹菩薩の教えは,何となく”おまえもっと今までの自分の生き方に自信を持ってあっちこっち迷いながら一生懸命いきてきゃいいんだ.わしら古今の偉人何ぞは善智識なんで意見を参考にすればいい。困難に遭ったときは冷静に困難の原因を自分のうちと外に探してうまくコントロールできる解決を捜しゃいいんだ”といってくれているようでとても好きです.
これからも気が向いたらお便りさせていただきます.よろしくお願いいたします


NORTONV世さんへの返事 2004,3,29,

拝啓

 メール拝受いたしました。ありがとうございます。

 仰るとおり、「仏教」においても、また科学でも、様々に見解は分かれています。ノーベル賞をとったか、それ級の科学者で、霊魂はあると主張しておられる方も確かいらっしゃいました。同様の主張は、「仏教」の中にも掃いて捨てるほどあります。釈尊から2500年以上が過ぎて、「仏教」の中には反仏教が随分蔓延ってしまっていると思います。

 私は、無常=無我=縁起こそ理に適った考えだと思っています。無常=無我=縁起を知らずに(無明)自動的に執着の反応を繰り返していることが苦の原因であるという説明も理に適っていると思います。自分の無常=無我=縁起を本当に知って、執着すべきもの(「わたし」とか「わたしのもの」)はないと知ることで、執着の反応パターンが変わり、苦をつくりだすことが止まるというのも、そのとおりだろうと思います。(「本当に知る」のは一筋縄ではいきそうもありませんが、、)

 要するに、私は、あまたある「仏教」から、そういう仏教を「選択」して今の仮説にしているわけです。そして、それを説明する方便として、無常=無我=縁起に合致する科学を利用しています。

 確かに、まっとうな科学に霊魂を問えば、「関知せず」という答えが返ってくるでしょう。「アヤシゲな代物」には関わりませんから。そのことをいいことに、「科学も霊魂を否定していない。将来、霊魂は科学によって証明されるだろう」などという人もいる。しかし、自分という現象について、また執着について、霊魂など持ち出さずに説得力のある説明をしてくれる学説であれば、私としては、十分に方便として使えると思います。ダマシオの説がその一例です。そして、うれしいことに、そのようなまっとうな学説が増えていると感じます。

 この世界において、人は常になんらかの反応を繰り返しています。より正確に言うと、肉体という場所で様々に展開する反応が人です。その反応は、自然なままでは執着の反応であり、その結果、人は自分に苦を作り、人に苦を与えあっている。日常生活から国際問題まで一貫した原理です。苦を少しでも減らすためには、無常=無我=縁起を多少とも(戯論=分別でも)理解する人が増えて欲しい。そのために、私は、無常=無我=縁起を問いかけています。(それと同時に、その過程で私自身の仮説も進化し、深まると期待しています。)

 遺伝子に擬えて、ミーム(meme)という概念があります。私は、あまた異論のあるなかで、無常=無我=縁起という情報をミームとして増殖させたいのだ、と申し上げれば、御理解頂けるでしょうか。霊魂の有無とか、個別の問題を個々にいくら議論してもきりがありません。全体的な体系として、どちらが説得力があるか、完成度が高いか、その点で評価して頂けるようになりたいと思います。もしも私の仮説よりも説得力のあるミームの体系に出会えば、そちらに鞍替えすることになるでしょう。それはそれで喜ばしいことです。しかし、現時点では、無常=無我=縁起を核とする体系こそが、理に適い、しかも苦を抜くことができると考えるので、これが少しでも広く受け入れられるように、と願っています。

 釈尊は、論争を禁じられました。論争よりも、日々の生活(そのつどの反応)を整え、感覚を守り、集中して自分という反応を観察せよ、と仰りました。それによってこそ、自分の無常=無我=縁起を本当に知ることができる、と。それは確かにそのとおりだと思います。しかし、そのためには、その前にまず仏教を戯論としてであれ知ってもらわねばなりません。それも、執着に適うように変造された「仏教」ではなく、執着を吹き消す仏教を。

 是非また御意見・御批判をお送りください。
                              敬具
NORTONV世様
        2004、3、29、                曽我逸郎


NORTONV世さんから 曼荼羅と今西進化論 2004,3,29,

 NORTONV世です
小生のくだらんタワゴトに続けて大変丁寧なレスを頂き大恐縮しております。

>私は、あまた異論のあるなかで、無常=無我=縁起という情報をミームとして増殖させたいのだ、と申し上げれば、御理解頂けるでしょうか。

小生に関する限り曽我法師様の目論見はまんまと成功しております……(笑)

しかしさすが博覧強記の曽我法師様、方便にドーキンスを引っ張ってくるとは…
んじゃ、進化論ネタをも一つ。
曽我法師様の紹介に惹かれて松本史朗氏の“縁起と空”を読みました
一章目の如来蔵思想批判でいきなり”釈尊は十二支縁起を悟った異論はさておく”とか”学問が客観的である必要はない”とかトバシまくりで、オイオイってな感じでしたが(考えてみりゃこれを書いたとき松本博士は30代半ばなんだよなあ)第四章の津田真一氏批判(というよりこれは曼荼羅に代表される真言密教の世界観そのものに対する異論でしょう)などは概ね共感しながら読むことが出来ました.
読んでいる最中”あれ、全くおんなじ論旨の批判を読んだ事があるぞ“
思い出しました。河田雅圭“はじめての進化論”(講談社)末尾近くの”今西錦司進化論“批判です.小生には初めて今西錦司の唱えた”種社会“なる物の正体が何となく掴めた気がしました。
 ”そうか。ありゃ曼荼羅だったのね。総合説における共進化などとちがって、(どなたかとの意見交換で曽我法師さんもおっしゃられておりましたが)曼荼羅は固定的で変化する事が出来ません。で、これでは明らかに眼前の自明な進化の事実と矛盾してしまうもんだから”生物は進化するべきときに進化する“などと訳のわからん理屈(おまけに進化のメカニズム説明無し)を振り回したわけか。そりゃ科学じゃないって言われても仕方ないわな。”

以上はだだの雑感です。返事は無用に願います

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