Fukada Norikoさんから 無為の真如 概念化 唯識 如 慈悲 2001,6,8,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どうもはじめまして。私は、京都の仏教系の大学で、仏教学を専攻している者です。ホームページやその他を拝見させてもらって、とても感心しましたので、メールを送ります。
 専門は、唯識思想の研究をしています。そこで、曽我さんの考え方には、唯識が非常に否定的に受け取られているようでしたので、少し自分の意見を陳べててみようかと思います。
 唯識思想は、とくに中観思想の研究をしている方から、しばしば批判されます。曽我さんの作られた経典を見て、昔読んだ定方晟という仏教学者が書いていた「唯識の誤謬」という一章を思い出しました。(『空と無我 仏教の言語観』という本に書かれています。おそらくご存じでしょう。)
 さて、唯識に関する意見についてはおいおい書くとして、今、メールを書こうとする間に、もう一度、いろいろ読んでみると、どうやら、曽我さんの問題意識の中には、現象しかないこの世界に、なぜ無為(縁起を受けない理)というダルマをたてるのか、というのが問題になっていることがわかりました。批判仏教に対しても肯定的だということですので、わかりやすくなりました。
 ところで、無為法というのは、理であるとして、事と区別されるわけですが、理というのがなぜ縁起をうけないのでしょう。例えば、無為である真如は、「執着が寂滅したことによって、顕れてくる現象世界の本性」といった表現がなされます。本性という言葉はきっと気になるところでしょうが、今はしばらく置いておきまして、まず、現象世界に関する理解について考える必要があるかと思います。現象世界は、結局、言語によって規定されている、といったら、納得するでしょうか?すると思いますので、続けます。たとえば、机とか石とか山とか、こういった「もの」は言葉によって規定されることで、概念化されますね。では、「人が走る」と言った場合はどうでしょうか?「人」は「もの」として規定されてしまいますから、概念化されています。では、「走る」はどうでしょうか?「走る」は現象を記述した言葉だから、概念化を免れるのでしょうか?そうではないでしょう。「走る」とは「走ること」を概念化したんですよね。さまざまな現象は、皆なんらかの言葉で概念化されてしまいます。それが有情の常の活動です。では、「無常」とか「無我」とか「縁起」という言葉はどうでしょう。それは正しいことを言っているので、概念化を免れるかというと、そうではないでしょう?たとえ、「無常である」、「無我である」、「縁起している」、と動名詞的に表現しようが、概念化に他ならないのです。無為の真如というのは、そういう概念化から完全に離れたことを表現した言葉です。言語道断です。「離言真如」という言葉を聞いたことがあると思います。そうすると、概念化を全く離れた状態というのは、何でしょう?実体なんでしょうか?実体でも実体でないわけでもない。だって、表現不可能なのだから、なんとも言えないわけです。中論の帰敬偈にある「八不中道」というのは、こういうことを説いていると思いますが、どうでしょうか?そこで、概念化を離れれば必ず顕れるのだから、とりあえず、それは表現しようもないけれど、言語活動に合わせて言えば、「変わらない原則」ということになる。そこで、「不変」とか「常住」という言葉をつかうわけです。でも厳密には、変でも不変でもないでしょうし、常住でも無常でもないのです。それでも、真如はまだ実体的に聞こえるのであれば、むしろ、曽我さんは、世界は現象していなければならないとか、変化していなければならない、という先行した観点にこだわっているのではないでしょうか?現象しているわけでも、現象してないわけでもない。概念化というのが、執着の基因となると考えているのは、曽我さんの考えにもあったと思います。「いつも化理論」というのがそれに当たるでしょうか?
 さて、少し唯識の話をしますが、私は、唯識という語の意味をしっかり把握しなければならないと思います。唯識とは、サンスクリットでは、vijnapti-maatraと言いますね。vijnaptiとは、直訳すれば「分けて知られる」という意味です。漢訳では「了別」となっています。ただ「分けて知られる」だけであるというのが、唯識の主張です。これが先程言った「概念化している」有情の姿であり、これが阿頼耶識と言われる識の様態なのです。だから、識は転換して智にならねばならないわけで、乗り越えるべき状態という意味で、阿頼耶識が考えられています。

 ちょっと研究室で書いているもので、いろいろと訪問があって集中できないので、またの機会にゆっくりかきますが、ごめんなさい。

 あと、曽我さんの経典を読んだ知人が是非言いたいということで、次に書いておきます。
 如実智見ということを聴きますが、私は如実に知見することのみに、満足できません。何か人としての「あたたかみ」を欲します。この身はここにあるわけで、喜怒哀楽があり、喜怒哀楽することが無我であり、縁起するということではないでしょうか?人は人のままに人として、人であればいい。「如来長寿の因縁は、慈悲を根本となす」(涅槃経)。無常・苦・無我・不浄の説と相い対するかのような常楽我浄説は、慈悲を表したのものであって、決して無常・苦・無我説を否定するものではありません。如実に知見するならば、必ず慈悲が発動すると堅く信ずる次第であります。つづく


Fukada Norikoさんへの返事

                      2001, 6, 26,
拝啓

メール頂戴しました。ありがとうございます。

 京都で学生をなさっているのですか。うらやましい限りです。私も京都にいたのですが、当時を懐かしく思い出しました。学校の近くまでいきながら、講義にはでず、喫茶店で本を読んでいたり、加茂川べりを鬱々と歩いたり。
 「あたりまえ、、」で、町からきた娘が、人と自分に苛立っていたことや、ものが変に見えて世界に追いたてられたことを告白しますが、あれは、私自身の学生時代の姿です。一人よがりに自分勝手に苦しんでいる風を装い、自分自身に酔っていたのかもしれません。今からふりかえると懐かしくもあるし、シンプルに自分の世界に没入できた事がうらやましくもあります。今の私は、いろいろなことにかかずらわずを得ず、悩みが雑多になってしまいました。

 唯識については、私自身なぜだか分からないのですが、まともに勉強もしていないくせに、書くと否定的になってしまいます。
 定方晟という方の本は、まだ読んでいません。おもしろそうですね。探してみます。

 さて、では、頂いたメールについて思ったことを書きます。論点を明確にするために、一部敢えて極論を書きます。御立腹なさらずに読んで頂けますように。誤読があればご指摘ください。

(1) 無為法は概念化を離れることによって顕われるか?

>無為である真如は、「執着が寂滅したことによって、顕れてくる現象世界の本性」
>無為の真如というのは、そういう概念化から完全に離れたことを表現した言葉です。言語道断です。「離言真如」という言葉を聞いたことがあると思います。
>概念化を離れれば必ず顕れるのだから、

 顕われるというのは、それまで存在していたけれども見えていなかったものが見えてくるという意味でしょうか? 概念化によって隠されていた真如が、概念化を離れることによって、顕われる、、?
 「顕われる」という表現には、やはり実体的な印象を感じます。「顕われる」と表現される真如は、外に対象として立てられているのではないでしょうか?

 私には、無為法だとか真如だとかは、概念化を離れるどころか、概念化の頂点のように思えるのです。対象化され実体視された概念の究極の形態だと思います。

>現象世界は、結局、言語によって規定されている、
>たとえば、机とか石とか山とか、こういった「もの」は言葉によって規定されることで、概念化されますね。

 おっしゃるとおり、我々は、現象世界を切り分け、言語によって規定し概念化することで取り扱い可能な見慣れた対象に分節しています。しかし、机とか石とか山とかは、まだ概念に対応する現象とのつながりを保っているのではないでしょうか?
 「離言真如」には、なにが対応するのでしょう? 現象世界に対応するもののない頭の中だけの抽象的な純粋概念としか思えません。プラトンのイデア論以上に、idealだと思います。真如とは、もとからあったものが顕われてくるのではなく、実は我々が言葉の抽象化によって創り出している概念なのではないでしょうか?

 確かに、「離言真如」という言葉の生まれた発端は、言語化不能の宗教的体験をなんとか無理にでも言葉にしようとする試みだったのかも知れません。しかし、今、離言真如を説く人のうち何人が「離言」を知っているのでしょうか? もはや、仏教を商売にする人が、衆生を煙に巻いてありがたがらせるためのもっともらしい業界専門用語にすぎないといえば言い過ぎでしょうか? 宗教的体験をした人がなんとかそれを言葉にしようとした結果としては了解できますが、初学の私たちがこの言葉を頼りに仏教の道を歩もうとすると、足を踏み外す危険性が大きいと思います。

(2)概念は、全否定されるべき悪か?

>概念化というのが、執着の基因となると考えているのは、曽我さんの考えにもあったと思います。「いつも化理論」というのがそれに当たるでしょうか?

 おっしゃるとおり、日常的世俗的生活において無自覚なままにすり込まれた概念化・「いつも化」は、執着のもとです。我々は、執着に踊らされて苦しみ苦しめているあり方を反省し、無自覚な概念化をひとつひとつ分析し相対化していかねばなりません。そうすることによって個々の執着をすこしずつ弱めていく事ができます。そして、その時、日常性の無自覚な概念を相対化し弱めていく武器となってくれるのは、自覚的な<概念>ではないでしょうか?
 五蘊、六識、此縁性、縁起、無我、、、。釈尊は、様々な自覚的概念を、無自覚な概念(=執着や差別を生み出す実体視に基づく思い込み)に対峙させ、無自覚な概念を相対化することを教えて下さいました。
 執着を解体していくには、まず自覚的概念による仏教の正しい学習、正しい考察、日常生活の正しい分析・反省が必要だと思います。

 ところで、真如も無我も縁起も、すべて概念であるなら、なぜ私は無我と縁起を評価し、真如を否定するのでしょうか。それは、真如が、概念であるにもかかわらず、外にある実在的な対象として理解される傾向にあるからです。真如を本来のtatatha^「このようにある<こと>」(状態の表現)ではなく、なにか外にある実在として、個々の現象を超越して存在していると考えるなら、無我と縁起に反する考えであり、ある種執着の産物であり、新たな執着の温床にさえなりかねないと思います。

(3)概念化をまったく離れた状態、離言について

 自覚的概念によって仏教を学び、言葉によって分析的に考えること。それによって執着に捕らわれた世俗的なあり方を批判・反省すること。
 上に書いたとおり、これが大切だと思います。でも、これだけで十分だと考えている訳でもありません。
 批判仏教の先生方は、あくまで言葉による分析的考察にこだわり体験主義を排しようとされていますが、この点では私は意見を異にしています。
 言葉だけでは届かない領域があります。言葉では本当の主体の自己(ノエシス)を問う事ができず、したがって、言葉だけでは我執を真底から払拭することはできないと考えます。言葉による分析的考察に合わせて、戒(日々の生活で節度を守り気持ちを荒げることなく落ち着かせる)・定(意識を定めて集中し、意識の指向性停止体験をめざす練習)も必要だと考えています。それらが積み重なった頂点で般若という智慧=質的にあたらしい世界観が生まれる。

 「意識の指向性停止体験」というこなれていない言葉は、私の造語です。伝統的には「主客未分」と言い表されていた言語化不能(戯論寂滅、離言)の宗教的体験のことです。はじめは私も、「主客未分」と言っていたのですが、池田政信さんからの「主客が分裂するもとになったものは何か?」という趣旨のご質問によって、「主客未分」という言葉には、未分なる理想的原初状態があるかのような誤解を生む危険があることに気付かされました。それで、かわりに「主客対消滅・主客対再生」という言葉を考えました。宗教的体験と、そこからの世俗的日常への復帰を表す言葉です。しかし、その後さらに考えて、離言の宗教体験の時、意識は本当に消滅しているのかという疑問を抱きました。今は、意識の本来的性質である指向性・対象化が例外的に一時停止する状態が、いわゆる宗教体験ではないかと考えています。対象に向かう意識の矢が、指向性を失い、世界の全方向、自己の内外への広がりとなる。(池田さんとの意見交換 99,2,28 3,25 5,23 谷 真一郎さんとの意見交換 99,5,13 参照下さい。)
 世俗的日常の意識では、見る自己と見られる対象が常に分裂しており、その間に意識の鋭い矢があります。自己を見る場合も、見る自己(ノエシス)と見られる自己(ノエマ)は異なっており、本当の主体の自己(働きの自己、ノエシス)は意識ではけしてつかむ事が出来ない。なぜならつかもうとしたとたん見られる自己に変じるから。それが、意識の指向性停止体験においては、般若という別次元の知によって、働きの自己・ノエシスも世界のあらゆる現象も等しく縁起していることが、分別知とは異なる仕方で了解され、世界が新しく開ける(別次元の世界観を得る)のだと想像しています。
 様々な対象のモノ化・実体視の中で、最も根深く厄介なのが、自己の実体視、つまり我執です。自分が存在するという意識が、外の対象への執着も可能にします。我執という土台がなければ、外の対象のモノ化・実体視があっても、そのつどの欲望にしか育たず、執着は起こりません(動物達のように)。自分(ノエシス)が世界のあらゆる現象と等しく無我なる縁起のそのつどの現象であると本当に知ること(般若)が、あらゆる執着を根絶することになると考えています。

 長々と書きました。要は、離言とか戯論寂滅といった形容は、外にある超越的存在についての形容ではなく、我々の側の世界への向かい方、接し方に関する形容だと考えます。世俗知の分けて(外に対象化して)知る知り方とは質的に異なる般若の知が離言なのです。離言真如とは、「言葉で表現できない外の絶対的実在である真如」ではなく、「自己の実体視を離れ執着を根絶した離言の知(般若)で見られた無我なる現象が縁起していく世界の有り様」ではないでしょうか。

(4)唯識の主張とは、(対象は)ただ「分けて知られる」だけであるということ?

>ただ「分けて知られる」だけであるというのが、唯識の主張です。

 そうなのですか? だとすると私の不勉強でした。外界の現象は現に外界に現象しており、それを我々は対象に切り分けて概念化していると、唯識は、考えるのですか? 唯識も、有情のいない時、例えば、できたばかりの地球において、噴火や雷などの現象は、現象としてあったと考える、と理解していいのでしょうか? もしそうなら、唯識の主張に異論はありません。
 私は、意識が外界を生み出しているのではなく、意識もまた縁起の現象であり、様々な現象が縁となり重なり合って、時間の中に世界の中に意識は生みだされると考えています。(このあたりのことは、「あたりまえ、、、」HPの小論集、「人無我を説く方便の試み。無我なる縁起の「自己」とは。その2」を御参照下さい。)

(5)常楽我浄説、慈悲

>喜怒哀楽することが無我であり、縁起するということ

 私もそう思います。ただし、これだけでは無自覚で世俗的なあり方です。無我なる縁起の現象であるのに、その事を知らず、執着し、みずから苦しみ、人を苦しめています。ですから、その事に気付き、発心し、無我と縁起を学び、自分(ノエシス)の無我と縁起を知り、執着を吹き消すことが必要です。

>如実に知見するならば、必ず慈悲が発動する

 「あたりまえ、、」本文に、何度も「ありのままに見なさい」と書いているのですが、今の私は、厳密には、如実に見ることは不可能ではないかと考え始めています。我々の意識に届く前に、外界からの刺激は、様々に前処理されているそうです。より端的には、我々は、人間という動物種として、見える色しか見えないし、聞ける音しか聞こえない。コウモリが聞いている音の世界と我々の音の世界、昆虫の見る色と猫の見る色、人の見る色、どれが一体「実」なのか? そもそも「実」があるという考えが、思い込みのように思います。
 では、なにが慈悲を発動させるのか? 何度も繰り返しになってしまいます。自分の、ノエシスの無我・縁起を知ることだと考えます。ノエシスは対象化されえない<働きの自己>ですから(対象化されたとたんにノエマになる)、けして言葉・論理で捉えることができない。ノエシスの無我・縁起を知るためには、意識の指向性停止の(離言の)宗教的体験が必要だと思っています。そして、自分が無我なるそのつどの現象であり、一瞬一瞬周囲の現象から無数の縁を受け、また同時に逆に無数の縁を及ぼしていることを般若知で知り得た時、真の慈悲が溢れ出すのだと想像しています。

>何か人としての「あたたかみ」を欲します。
>人は人のままに人として、人であればいい。

 「人は人のままに人として、人であればいい」という文章を、私は、Fukada Norikoさん(あるいは友人の方)の意図とは全然違う読み方をしてしまいした。
 人とは、執着に引きまわされ、自他を苦しめている現象です。この定義を上の文章に代入すれば、「執着に引き回され自他を苦しめている人間は、そのままに執着に引き回され、互いに苦しめあっていればいい」という意味になります。意地悪な曲解だとお思いかも知れません。でも、この見方は、さほどめずらしくはないと思います。過去の「仏教」の歴史の中には、仏教徒として立つべき時に立たず、この理屈で自分を納得させて保身を図った人は、案外多いのではないでしょうか? 差別や戦争や搾取や貧困に苦しむ人を眺めながら、それも真如のあらわれ、これも真如の姿と、うなずいていることを可能にする論理に発展しかねない見方です。「人としての温かみ」どころか、普通の人を見下し、見放す見方になりかねない。
 心外だとお怒りのことでしょう。勿論私が書いたような意図はお持ちでないことは承知しています。ただ、喜怒哀楽のあり方をそのまま肯定すること、「人は人として人であればいい」という見方には、上に書いたような論理に暴走しかねない種があるように思います。
 超越的な真如を個々の現象の向こうに見ようとすると、個々の現象に焦点をあわすことはできなくなり、有情の苦しみ悩みを捨象してしまうことになります。「真如」などにまどわされず、あくまでもざわめく現象達に目をむけ、無我なる現象の縁起の連鎖として世界を見ていきたいと思っています。
 無数の縁起が積み重なった大きな流れの中、我々は無力です。悠然と「あれもよし」「これもよし」「すべては真如のすがた」などとけして泰然自若を気取ることなく、

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
そのつどの現象に心を痛め、慌てふためきながら暮していく、そういう者に私もなりたいと思います。

 現実の自分の生活態度を棚に上げて、ご立派な事を書きました。
 露悪より偽善の方がましと考えているので、どうかお許し下さい。

 頂いたメールのつづきと、このメールへの反論をお待ちしています。

                               敬具
Fukada Noriko 様
                        曽我逸郎

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  次のメールへ