曽我逸郎

人無我を説く方便の試み

《無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か》

その2:動物進化と自己意識の発現

(2001年3月)


 2000年10月に、自己という現象を考察すると予告しておきながら、いまだ果たせていない。試行錯誤はしているのだが、テーマが大きすぎて、全体を捉えきれず、暗礁に乗り上げている。
 時間稼ぎではないが、正面から自己という現象を取り上げる前段階の準備として、自己意識という現象が発生した過程を、動物進化の道筋の上に位置づけてみたい。霊魂といわれるような、世界に対して超越的な「存在」を導入することなく、世界に開かれた縁起の現象として意識を検討して頂くためだ。
 もとより進化に関する格別の知識がある訳ではない。高校で習った生物の教科書の記憶をたよりに、自己意識について、一つの見方を提示することができるだろうか? 間違いの指摘やアドバイスを頂けるとありがたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・

 動物進化とは、危険あるいは不利な状況をいかにうまく回避し切り抜けるか、有利な状況をいかに見つけそこに身を置けるか、チャンスをいかにものにできるか、そのための能力向上の道筋だと考える。その時その時の状況への対応能力向上の過程である。この進化の道筋の上に、自己意識の発現を位置付けたいと思う。

<レベル1> 環境傾斜への対応
 ゾウリムシや大腸菌は、周囲の有機物濃度、温度、pHなどの傾きに対応して、より快適な側へと移動する。勿論おそらく、ゾウリムシや大腸菌が、快不快の意識を持っているとか、意識的に不快を避け快を選んでいる、ということはないだろう。周囲の環境の違いが、体の片側と反対側への刺激の差となって、繊毛などの運動量の違いとして自動的に現れ、意図もないまま自己の生存に有利な方向への移動という反応が生まれる。しかし、意識があろうとなかろうと、これは立派な状況への適応反応である。

<2004、8、19、加筆訂正>  ゾウリムシのような小さな体では、温度のゆらぎ(温度のむら)の方が大きいので、体表温度の差を感知して水温分布の全体傾向を感知することは不可能なのだそうだ。そうではなくて、ゾウリムシは、水温が適温から外れてくると、運動を活発化させてともかくランダムに動く。適温エリアに行きあたれば運動は低下するので、結果的に適温エリアに集まることになるという。自然は、貧困な想像よりずっと精妙だ。

<レベル2> 今ここにある個物への対応
 次の段階として、個物への反応が生まれる。たとえばイソギンチャクが触手に触れた魚を捕らえるように。
 意識があるかどうかは不明だ。単なる刺激に対する反射反応なのかもしれないし、ひょっとすると原初的な「しめしめ」「ワクワク」という興奮(?)があるのかもしれない。どちらにせよ、個物を対象とした反応がこのレベルで既に始まっていることは確かである。

<レベル3> カテゴリーの発生。カテゴリーに属する「今ここにないもの」の対象化
 レベル2のイソギンチャクなどの腔腸動物では、たまたま触手に触れた「これ」が刺激となって反応を引き起こしていた。「今ここにあるこれ」がなければ、反応は起こらない。ところが、ヒトデなどの棘皮動物の段階になると、貝などの獲物を求めて、積極的に動き回る。すなわち「腹を満たしてくれる獲物一般」というカテゴリーが発生し、それに当てはまる「今ここにない」個物を求めている訳である。まだまだ意図と呼べるレベルではないだろう、しかし、少なくとも結果として現れる行動としては、特定のカテゴリーの対象化が始まったということができる。

<レベル4> 世界からの対象の切り出し
 目を持つようになるのは、ヤツメウナギなど円口類以降だろうか。
 目は、カメラやビデオのように外界を分け隔てなく受動的に写している訳ではない。レーダーやサーチライトのように、獲物や天敵などを主体的に探索している。レンズを持ちフォーカス機能のある目は、世界をまんべんなく眺めるのではなく、利害に関わる個物を探索し、意味のない信号は意識にあがる前に抹消され、利害にかかわる対象だけが切り出されている。目は、捉えるべき、または避けるべき対象探索のより高度な手段である。
 勿論目だけでなく、音や匂いなどの刺激に対する感覚器官が種ごとの個性で発達し、利害に関わるカテゴリーをより高度に聞き「分け」、嗅ぎ「分け」、より早く的確に状況に対応できるようになる。

 かつて、私は、言葉が世界をカテゴリーに切り分け、個物を対象として切り出し、好悪その他の価値で色分け、執着や憎悪を生み出すと思っていた。しかし、執着・憎悪はともかくとして、カテゴリー化、対象の切り出し、好悪の色付けは、進化史上言語成立よりずっと前まで溯り、非常に根深く、言語による影響よりもはるかに抜き難い現象であるといえるだろう。「ありのままに見る」ことは、本来不可能であるか、あるいは、不可能といっていいほど困難なことなのだ。

<レベル5> 「他者」の発生
 魚類になると、たとえばアユのように、縄張りを持つものが現れる。ただし、自分の縄張りを主張するからといって、自己意識が生まれたと考えるのは早計だ。一定エリアに入ってきた他のアユを追い出す。ここで起こっていることは、食物でも天敵でもない「他者」という要素が、行動への刺激に加わったことである。縄張りとは、「自分の占有する」エリアというよりも「他者を排除すべき」エリアと考えた方が正しいと思う。

<レベル6> 他者との関係の高度化
 鳥類や哺乳類になると、他者はもはや単なる競争相手とは限らない。信号を出し合って、互いに危険を知らせるようになる。陸上の敵、空からの敵など、危険の種類ごとに信号は異なる。交代で見張りに立ち、あるいは役割分担して狩りをする。ここでは、他者との間でカテゴリーとその意味の共有化が起こっていることになる。
 共同体が形成され、序列が生まれ、他者との関係が複雑化・高度化する。母親、ボス、その他共同体内の他者が、「そのつどの」他者ではなく、一貫性のある「いつもの」他者として捉えられるようになる。

 危険信号の使い方には、こんな「高度な」ものも見られる。大勢で餌を食っている時に、偽の危険信号を発して、皆が逃げた隙に自分だけで餌を独占する。勿論この手はしょっちゅう使うと効果がなくなるので、ここぞという時にだけ使われるそうだ。信号の意味を理解し、それを本来使うべきでない時に使うとどうなるか、原初的シミュレーションがここですでに行われているに違いない。

<レベル6’> 経験の抽象化・蓄積、シミュレーション
 より効率のよい狩りを行うためには、「獲物はどう逃げるか」などの秩序だったシミュレーションが有効である。その時には、川や林といった地形、風向きその他様々な要素も考慮されている筈だ。そのような高度なシミュレーションを行うためには、過去の多くの失敗や成功の経験が抽象化されて蓄積されている必要がある。カモシカは群れで逃げる? 川に逃げる? 川を避ける? こういった課題を設定すること、さらには、それへの答えがなければ、対象の動きをシミュレートし、それに対応することはできない。

<レベル7> シミュレーションの高度化、自己対象化の萌芽
 シミュレーションをさらに高度なものにするために、自分自身の動きもシミュレーションの枠組みに加えられるようになる。レベル6’では、対象の動きをシミュレートし、予測し、それに対応していた。しかし、進化した哺乳類では、対象の動きのみならず自分からの働きかけにも比重がかけられるようになり、シミュレーションは立体化高度化する。たとえば、牧羊犬は、適切な位置に回り込み、適切なタイミングで吠えることで、羊の群れを操ることができる。野生動物でも、獲物を追いたて、操り、追い込むといった高度な狩りをする種もあるだろう。まだ自覚的に自己を問題にするには至ってはいない。しかし、自己を対象化することの萌芽がここにある。

 *「自由意志」の萌芽
 本能や反射や条件反射の段階では、ひとつの外部状況に対してひとつの対応しかあり得なかった。それに対して、自由意志とは、ひとつの与えられた状況に異なった様々な対応が可能である、ということだと考える。
 いかにしてそれが可能になるか。自己と外境の相互作用をシミュレートすることによって。
 現実の行動を起す前に、与えられた状況を対象化して捉え、自己がAという対応をすれば、状況はどうなるか、結果自分はどういう状況に至るか、Bという対応をすれば、Cなら、Dなら、、、。自由意志とは、外境と自己のシミュレーションと不可分の現象だと考える。

<レベル8> 自己の対象化
 鏡に映った自分の姿を自分として捉えることができるのは、霊長類以降らしい。霊長類でも個体差が大きいという。(眠っている間に顔の一部に色をつけておき、目が覚めて鏡を見た時に、驚いて自分の顔のそこに手をやるかどうかという実験による。)だとすると、はっきりと自分を対象化できるのは、やはり人間からなのだろうか。
 幼児は、系統発生の場合と同様に、自己の対象化に先立ってまず外界の対象化を身につける。
 人間の幼児の外界対象化学習が、動物達の場合と異なる点は、母親が言葉によってカテゴリー分けをサポート、加速している点である。「ママですよ」「マンマだよ」「ブウブに乗って行こうね」「ワンワンがいるね」、、、寄り添う母親から、名前といっしょに対象化を教えられる。
 こうして外界の対象化を学んだ幼児は、次に自己の対象化も学ぶ。「XXちゃん、ママですよ」「XXちゃん、マンマだよ」「XXちゃん、ウンコですか?」「XXちゃん、お風呂チャプチャプしましょう」、、、母親から「XXちゃん」と繰り返し呼びかけられた子供は、自分にも、外界の対象と同様名前があることを知り、自分を「XXちゃん」と呼びはじめる。すなわち、母親を鏡として、自分を対象化する母親の視点で自分を対象化することを学ぶ。
 このあたりの事情は、幼児心理学とか発達心理学などの範疇なのだろうけれど、不勉強でよく知らない。いずれにせよ、母親を中心とする共同体と言語が、ヒトの自己対象化獲得に大きな役割を果たしているであろうとは想像できる。

<レベル9> ノエマの発生
 幼児は、母親を筆頭とする共同体内の他者との関係において、自分のあり方をシミュレートし始める。こういうことをすれば、お母さんにしかられる。こういうことをすれば、お母さんを喜ばせられる。こういうふうにすれば、言うことを聞いてもらえる、、、。
 成長するにつれて、かかわりを持つ共同体も急速に大きくなり複雑化する。Aとよい関係を築くにはどうすればいいか。Bを従わせるにはどうすればいいか。Cにかかわらないようにするにはどうすればいいか、、、。さらに個人との関係だけでなく、様々なグループの中での自分の位置や役割、振る舞い方も身につける。
 これらの関係は、そのつどの揺らぎはあるものの、大抵大枠では一定の様式を継続する。(時々けんかをするけれど、ずっと友達である、とか。)別の言い方をすれば、共同体、社会の中での関係は、基本的には「いつも」的でありつつ、同時に「そのつど」的でもある。自然外境に比較してはるかに複雑で濃密な他者との関係の中で、人は、自分の対応と相手の反応、結果どういう状況が生まれて、自分にどういう影響が及ぶか、「そのつど」を「いつも」にもとづいて様々に何度もシミュレーションし続ける。
 このように自己が繰り返し対象化された結果、「いつも化」された自己、すなわちノエマが発生する。

 ノエマが完成されるのは、思春期を過ぎてであろう。思春期とは、自然的ノエシスの自己に自覚的反省的ノエマのしくみを組み込んで自己の構造を作りかえる「精神的変態」の時期だといえる。その間の「自己」は不安定で暴走しやすく、サナギのごとく壊れやすい。

 ノエマは、状況に対応する為には画期的な方法であった。自己のあり方を対象としてシミュレーションを行い、決断し行為し、その結果を検分し、フィードバックして自己のあり方を改変していく。こうして状況への対応をみるみる精緻化・高度化することができた。ノエマの発生は、動物進化の歴史上、まさにエポック・メーキングな出来事だった。

・・・・・・・・・・・・・

 シミュレーションとフィードバックを繰り返すことによって、ノエマは、より精緻に、高度になっていく。そして、あたかも確固たる永続的「存在」であるかのように思われてくる。こうして魂という概念が発生する。

 ノエマは、持続的に現象し続けている訳ではない。楽しい時、うれしい時、悲しい時、腹が立つ時、恐い時、熱中している時、すなわち普段のほとんどの時間、ノエマは発現せず、我々は、ノエシスとしてただ楽しみ、喜び、悲しみ、腹を立て、恐れ、熱中している。ノエマは、反省された時だけとぎれとぎれに発現しているにすぎない。しかし、反省の時はいつも発生しているので、まるでいつも「存在」しているように考えてしまう。喩えて言えば、前を向いている時には影も形もないのに、振り返った時だけすかさず後ろに現れて、前を向けばまた消える幻影のごとき現象である。

 誤解されないように言い添えなければならない。私は、ノエマはない、単純に無だ、といっている訳ではない。ノエマは現象としては発現している。「あたりまえ、、」本文を読んで頂いた方はお分かりだと思うが、ノエマのみならず、ノエシスも、肉体も、石も山も、価値観やイデオロギーも、すべて縁起の現象であると私は考えている。したがって、ノエマも、他の現象と等しく他から縁を受けるだけではなく他に縁を及ぼしもする。

 ではノエマの縁はどのように現れるのか?
 ひとつには、執着として。
 ノエマは、自己の「いつも化」(そのつどの現象を持続的実体的存在として捉えること)である。外界対象の「いつも化」と自己の「いつも化」がともにあって、執着は発生する。いくら美しくても「いつも化」されない対象(たとえば雲)には誰も執着しない。一方、自己を「いつも化」していない動物には、進化した哺乳類でも、そのつどの欲望はあっても、執着はない。
 ただし、ノエマは全面的に否定すべき現象でもない。宗教的発心もノエマである。ノエマによって反省し、人々の苦を抜くように心がけ、執着に躍らされないように気をつけていれば、普段のあり方がそうなっていく。執着に躍らされ、どうすれば儲かるか、人を出しぬけるか、威張れるか、と考えていれば、ノエシスがそういう動き方に流れてしまう。執着を生み出すのも、執着を吹き消すのも、ノエマである。ノエマは、その強さと繰り返しによって、ノエシス化していく。自分自身と周囲の人間に無用な苦を生み出さない生き方をするか、その反対か、自覚的な選択はノエマによって可能になる。

・・・・・・・・・・・・

 デカルトは、考察のすべての対象に先立って考察する主体(思う我)が存在すると考えた。しかし、実際は、まず状況への原初的な対応があり、それが高度化され洗練されていく過程で、自分の利害にかかわる対象が外境から切り出され、他者が認識され、その後、やっと自己の対象化が始まる。そして自己意識は、一番最後に完成されるのだ。

 人間に、霊とか魂といわれるような実体的な本体があると考える方々は、おそらく受精の瞬間から魂があると考えておられるのだろう。あるいは、魂が先にあって、それが子宮に入るのだと考えておられるかもしれない。
 では、系統発生的には、どの段階から霊・魂があるのだろう? ゾウリムシ? イソギンチャク? ヒトデ? ヤツメウナギ? アユ? 鳥類・哺乳類? 霊長類? それともヒトだけ?

 ご承知のとおり、私は、霊や魂といった実体的「存在」を認めていない。動物は、ヒトか霊長類の段階で、状況に自己のあり方をよりよく対応させる方法として、自己を対象化し自己と外境の相互作用をシミュレートする術を得た。ノエマを持たない動物もそのつどの欲望は持つが、ノエマを持つヒト(+霊長類の一部?)だけが、執着を抱く。魂とは、ノエマという自己モニターの仕組みが、自己執着した結果うまれる概念だと思う。

「自己とは(1)縁起」へ  「自己とは(2)動物進化と自己意識」トップへ  小論集リストへ  ホームへ

ご意見・ご感想をお寄せ下さい。
soga@dia.janis.or.jp

曽我逸郎