曾我様

ご丁寧な返信、ありがとうございます。

いつも私の何気ない質問に丁寧に私のようなものにもかみ砕いて書いてくださり、何と御礼を申し上げてよいのか、わかりません。

返信をしようと思いましたが、なかなか書けませんでした。というのも、主観と客観にまつわる問題に私自身とらわれており、語ろうとすると直ぐに行き詰まってしまうからです。

とはいえ、引っかかっている問題ですので、私のHPからリンクしている掲示板:新・個室で対話をしながら、何とか考えていこうとしているところです。

曽我さんの書いてくださったことも時折参考にしながらこれからも考察を繰り返して生きたいと思います。

1999年6月23日 2:28 池田政信

新・個室:http://us.pm-jp.com/~rbbs/cgi-bin/bbs.cgi?usid=masa970503
新・個室ログ:http://www1.odn.ne.jp/~cak69050/mkoshitut.html


池田さんへの返事

池田様     1999、7、11、 曽我逸郎

 メール、ありがとうございました。このところメールを頂くことが大変少なくなってしまい、あの表現が顰蹙を買ったのか、この部分がまずかったのかと不安になっておりますので、すこし元気づけられました。

 前回「主客未分」のもとは何かというご質問に、ようやくしどろもどろの返事をお送りした後、いくつか思い付いたことがあり、ご連絡しようかどうしようかと考えていたところ、今回のメールを頂きました。
 個室を覗かせて頂きました。粘り強く考え続けておられるので、懲りずに思い付いたことを書いてみます。

 前回頂いた質問で、自分が、「無我」や「主客未分」という言葉を隠れ蓑にして、自我(自分が無我なる縁起の現象であると気づくなにものか)とはなにかという問題を考えていなかったことに気づきました。気づいただけで今もってほとんど進展はないので、今回のメールも前回同様答えには程遠い脈絡のないものになることをあらかじめお断りしておきます。喩えて言えば、カード式発想法の思い付きメモをお送りするようなもので、池田さん御自身のカードと組み合わせ、ならべかえて、何か新しい思い付きが生まれればよし、トンチンカンでしたら破り捨て下さい。

<カード1>「主客未分」をやめて「主客対消滅」に

 前回のメールでも書きましたように、「主客未分」は、本来修行によって将来体験すべき事であるはずなのに、「主体と客体とが分かれてしまう前(過去)に、なにか本来のあるべき自我の状態があり、それに戻るべきである」かのような誤解を生んでしまう。そのような思い込みが言葉の背後に残っている。それゆえ「主客未分」という言葉はやめて、かわりに「主客対消滅」という言葉を思い付きました。意見交換の頁にご紹介している谷真一郎さんという方にお褒め頂いたので、調子に乗って使い続けようと思います。主客は、対として同時に消滅する。消滅であって、なにか主客が渾然となったもの(真如とか)が出来上がったり、姿を現したりするわけではありません。

<カード2>1、主客対生成 −> 2、主客対消滅 −> 3、主客対再生 −> 4、主客対消滅

 「主客対消滅」を発展させれば、上のような図式も考えられます。
1、「主客対生成」(胎児か乳児か幼児の頃?):主と客が、対としていっしょに(どちらか片方が他方の原因ではなく、蘆束のごとくにささえあって)生まれる。
2、「主客対消滅」(宗教的体験):主と客が、対としていっしょに(どちらか片方が原因になるのではなく、蘆束のごとくに)消滅する。
3、「主客対再生」:主と客が、対としていっしょに(どちらか片方が他方に先んじた原因ではなく、蘆束のごとくに)再生する。
4、「主客対消滅」(涅槃・死):主と客が、対として同時に消滅する。

 1と2の間が、自我と欲の対象に執着して苦しむ我々凡夫のあり方です。1の前と2と3の間には、主も客も単にない。その時の状態は、けして「言葉を超えた、言い表し様もないすばらしい体験」ではなく、体験する人も対象もない、端的になにも無い状態だと考えます。(勿論4の後も何もない。)
 しかし、2と3の間は、長続きせず、時間を置かずに主客が再生してくる。しかし、ここで再生する主は、自分(主)と客が無我であり縁起であり空であることを知っているが故に、もはや執着が無く苦しみが無く、自分と等しく縁起する他の一切の有情に等しく慈悲の心を持つ。
 執着に苦しむ凡夫が、主客対消滅になるには、言葉による学習・考察が大切だがそれだけでは不十分で、一種のいわゆる宗教的体験が必要だと想像します。何故なら、考察されただけの無我は、客体の無我であり、主体の無我を考察しているつもりでも、それは考察の客体として立てられた「主体」の無我であって、生のままの主体ではない。対象化されていない生のままの主体の無我は、考察=言葉によっては捉えることができず、言葉を超えた(=主客対消滅の)体験が必要だと考えます。
 (このように書くと、主と客とは全く対等ではなく、主の方が重要度は高いようにも思えてきました。この件は今後もっと考えねばなりません。)

<カード3>分裂病からのヒント。

 これも谷さんの影響で、最近分裂病に関する本を読みました。まだよく理解できていないので、誤解している公算も大きいのですが、分裂病や離人症などの疾患は、上の<カード2>でいう1の主客対生成の失敗ケースとして捉える見方があるようです。失敗したからといって「主客」の全然ない状態にあるのではなくて、私の受けた印象では、ソフトのインストール失敗のように、一部の機能がうまく働かない状態のように想像します。

<カード4>「そのつど」(現象)と同一性(存在)

 今回読んだ本は、木村敏という先生の「分裂病と他者」です。歯ごたえのあるむずかしい本で、あきらめて読み流した部分も多いのですが、断片的に刺激を受けて思い付いたことを書いてみます。
 自我(われわれのいう「主」とお考えください)は、様々な他者(客)に出会い、そのつど異なったありかたで出会う。そのつどの出会いの自我は、ばらばらの一貫性のない、その時だけの自我(?)だけれど、その後そのたびにほぼ一定の位置に戻ってくる。それを繰り返すことで同一性のある一貫した自我が形成される。他者との出会いを繰り返すことで、自我は形成されていく。自我とは、やはりなにか存在と呼びうるような実体ではなくて、その時その時の相手・状況によって変化する様々なあり方(ペルソナ、さらにはもっとそのつどの状態)の間のニュートラルな仮想的ホームポジションとでも呼ぶべきintangibleな「こと」のようです。
 他者の同一性も同じように出会いの繰り返しによって形成される。おそらく他者の同一性のほうが、自我の同一性よりも先に成立するのだと想像します。
 我が家の玄関先にツバメの巣がありますが、生まれたての雛達は、親鳥の姿か羽音かを覚えていて、先に背伸びして大きく嘴を開き、親鳥を迎えます。雛の時点で既に親鳥の同一性は確立しているのです。雛にとっては餌を得て生きのびるために必要なことだからでしょう。勿論これは、パブロフの犬レベルの条件反射なのかもしれません。おそらく一定の他者(もっとも顕著には母親)が、そのつどの出会いの繰り返しを通じて条件反射などによってまず同一性を確立するにいたり(昨日怒っていたママも今笑っているママも同じママ)、その後に自我の同一性は確立される。分裂病がはっきりわかる形で発現してくるのは思春期だそうですから、自我の同一性の成立は案外遅いのかもしれません。(だとすると、主客対生成・同時に生成するとは言えなくなりますね。もっと考えてみなければ成りません。)いずれにせよ、他に先んじて自我があり、それが対象を認識するのではなく、身体がさまざまなそのつどの出会いを繰り返していく過程で、他者と自我の同一性が形成されていくというのが実際のようです。
 しかし、「そのつど」から「同一性」へという進展は、「あたりまえ」で言えば、「生き生きとした一回きりの現象」を「退屈ないつもの存在」に変えることと同義のようにも思え、だとしたら、逆に分裂病の人は、生き生きとした現象を楽しんでもいい筈なのに、実際は不気味な不安におびえ苦しんでいるようです。分裂病と無我を知ることの対比をもう少し考えてみたいと思っています。分裂病という主客対生成の失敗のケースから主客対生成のプロセスを類推し、さらにそれをヒントに主客対消滅と対再生の過程を考える事ができるのではないかと期待しています。

<カード5>同一性把握の過剰が第一原因?
 他者の同一性を把握するという事は、生きていく上で有利な事であったが、言語を生み出し、自我の同一性にも発展し、さらに過剰になることによって、毎日が退屈になり、我執と執着とそれによる苦を苦しみ、目的と価値に追い立てられ、宗教が必要とされるようになった、、、人間の同一性の認識は、マンモスの牙のように、有害な過剰進化である、、、こんな総括は可能でしょうか? ほんの思いつきです。

 一貫性のない矛盾した内容になりました。毎度毎度いつのまにか自分にメールを送っているような文章ですみません。池田さんの問題に関連がなければ、無視してください。
 池田さんのメールでもらったテーマを考えることは、いつも自分の未整理な部分を見つけたり、新しい思い付きを得るきっかけになります。今後も宜しくお願いします。

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