曽我逸郎
曾我様

仏教の考え方を私自身がこの世界が何であるか、そしてどう生きるべきかという問題に繋げたいと思っています。そこで、少しずつですが、質問をさせてください。

「あたりまえのことを方便とする般若経」の注1に

戯論寂滅とは、意識の主体・意識の対象・世界の三つが分裂する前の段階であり、いわゆる「主客未分」と同意である。

とありましたが、三つに分裂したもとのものとは、何なのでしょうか。それから、分裂したものが、三つに分かれていますが、意識の主体と意識の対象の二つで充分なのではないでしょうか。世界は、意識の対象に含まれているのではないかと考えます。

1999年2月27日 0:18 池田政信


池田さんへの返事(99年3月6日)

池田様

メールを頂きながらお返事が遅くなり申し訳ありません。
雑事に追いたてられる毎日です。大乗経典の居士のように、世俗のことも仏教のことも余裕をもってこなせるようになれたらいいのですが。(言い訳ですね。)

主体と対象と世界の事、簡単に考えを述べます。

主体は、「思う、考える」といっているとき、その主語として想定されているもので、これについては、説明不要かと思います。
ご質問は、「世界も対象の様々な建て方の一つではないか」、という主旨と理解して説明を試みます。

確かに、「自己を考える」「数学の問題を考える」というのと同様に「世界を考える」という言い方が可能ですし、この場合の「世界」(という言葉)は、対象になっています。

しかし、私が「主体、対象、世界(対象が切り出される場)」と書いたとき頭にあったのは、言葉のしくみのことでした。
我々が何事か考えるとき、通常は(戯論のレベルでは)言葉によって考えています。言葉は、その指し示すものを、本当は指し示しているのではなく、そうではない他のものから区分けしているだけだと考えます。言葉は輪郭線なのです。
「魚」というと、人それぞれに具体的なイメージを抱きます。我々が言葉を覚え始めた頃は、言葉は、それぞれ今よりもっと具体的なイメージと結びついていたかも知れません。「水の中にいて、ひれがあって、鱗があって、、、」
しかし、言葉を学んでいくにつれ、「魚屋さんに売っているものがすべて魚というわけではない」「イカは魚ではない」「鯨は魚みたいだけど魚ではない」「タツノオトシゴは魚のイメージから遠いが魚だ」というように、言葉の意味するところをどんどん精緻にしていきます。これは、つまり、ひとつひとつの言葉の指し示す範囲・輪郭を確定する作業です。魚と魚以外のものを分ける作業です。

別の比喩を試みます。
いっしょに仕事をしているPさんがいます。Pさんは、その担当分野に詳しく私は彼を頼りにしています。日常的な言葉の使い方としては「わたしはPさんを知っている」と言って憚りません。しかし本当にPさんを知っているのでしょうか? 彼が一番大事にしているものが何か? 彼の夢は? 彼の挫折は? 彼と何度飲んでも、家族ぐるみの付き合いをしても、本当に彼を知っているとはどこまでいっても言えない。Pという名前は、単にPさんをそうでない人から区分けする記号にすぎません。(本当は、本当のPさんなどという存在はなく、動き変化するその時々のPさんという現象なのですが、、)
言葉は、その対象の内容を表すのではなく、単に印をつけて、それ以外のものから区分するだけの記号なのです。

ところでこの区分けの仕方は、必ずしも一つではありません。先程の魚の例で言えば「魚屋さんに売っているものが魚だ」としてもかまわない。要はその言葉を使う人たちの間で、カテゴライズの仕方が一定していればいい。虹の比喩で言えば、赤と呼ぼうがマゼンダと言おうが、言葉を交わす人の間で、名前とその示す色の幅が共通していれば、言葉は機能する訳です。多様な言語があり、その単語のひとつひとつが言語間で1対1に対応していないという事実が、言葉の恣意性の証です。
つまり、言葉というのは、沸騰している世界の上に、少し隙間をあけて、ふわふわと浮きながら、生きている世界を区分けしている網みたいなかんじでしょうか。

書いているうちに、ご質問のテーマから外れてきていますね。
白状すると、「あたりまえ 注1」を書いたとき、以前流行った言語学の理屈の読みかじりが念頭にありました。上にだらだらと書いたことがそれです。
「対象に直結しない言葉をいくら積み重ねてもありのままの世界の在り方を見ることはできない」といいたかった訳です。

しかし、こんな風に言葉を批判しながら、これも言葉で考えているわけです。「言葉ではありのままの世界を見られない」とか「言葉がありのままの世界を隠す」とかいっているその「ありのままの世界」が、言葉による虚構かもしれません。言葉を言葉で考える難しさがここにあります。

読み返してみて、誤解されるかもしれないと思い、関連して現時点での私の見解を述べます。

(1)最後の最後に「本当の知」「ありのままの世界」を知るためには、言葉だけでは不十分だ。なんらかの「主客未分」の宗教的体験が必要だ。
(2)しかし、無我・縁起・空を正しく学び、考察し、理解するには、また正しく伝えるには言葉によらなければならない。
(3)無我・縁起・空を言葉で考え、深め、究めていく先端に、言葉を超える体験があると思う。

今回は(1)の部分について説明(?)を試みました。

頂いた質問に関連してもう少し大きく問題を考える必要があるとかもしれません。脈絡なく書き加えさせてください。
*「主客未分」と「戯論寂滅」を=(イコール)で結ぶことは、乱暴でeasyだとの批判が予想されます。私自身、よく検証せねばならないと自省しています。
*このところ、釈尊の仏教と大乗の仏教を明確に区別して理解する必要性を感じています。釈尊の仏教は、非常に分析的で、私の思う「戯論寂滅」から遠く隔たっていると感じます。対して、大乗は、世界全体を一挙につかもうとして、「真如」とか「諸法実相」とか言い出し、無批判かつ無慈悲な全肯定の論理の芽を宿してしまったように思います。両者の対比と批判、これも考えねばならないテーマです。

いろんな事が頭に浮かんで、未整理なままで申し訳ありません。
ご質問を受けていながら、いつもただ自問自答しているようで、答えになっているのか不安です。わたしにとっては、未整理な部分や、新しい問題を見つける手がかりになっているので、今後もこれに懲りずにメールを下さい。

それから佐倉さんのHPで、私のことを買いかぶって書いて下さって、うれしくもあり恥ずかしくもあるのですが、実体がばれた時は困ります。
わたしは、人格者になりたいだけの、酒飲みで自堕落ななまけものです。十分ご理解のほどを。

1999年3月6日   曽我逸郎


3月25日の再質問へ意見交換は続きます。

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