曾我 様

ご丁寧にありがとうございます。

主体・対象・世界についてですが、言語学の考え方によるものだということで、了解しました。言語学のこの考え方については、まだどう理解してよいのか、私は考え中です。

ところで、もう一つの質問の方が重要だと思いますので、再度、質問します。

「あたりまえのことを方便とする般若経」の注1に

戯論寂滅とは、意識の主体・意識の対象・世界の三つが分裂する前の段階であり、 いわゆる「主客未分」と同意である。

とありましたが、三つに分裂したもとのものとは、何なのでしょうか。

こちらの問いの方が重要です。「主客未分」の「主」とは意識の主体、「客」とは意識の対象のことであり、「未分」とは未だ分かれていない状態のことを指すと解釈します。すると、意識の主体と意識の対象とは、元々一つものであり、一つのものが分裂して意識の主体と意識の対象が生じたと仏教では捉えているのではないか、ということを考えたのですが、ここで問題となるのは、分裂した元のものとは一体何であるのか、ということです。

ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」(中央公論社、111頁)に、「表象のすべての部門に共通する形式は主観と客観とへの分裂ということになってくる」とあり何が、主観(認識する者)と客観(認識されるもの)へと分裂したのか、ということについては、別の論文(持っていないので人から聞いた限りでは)に「意識」であると書いてあるそうです。

ショーペンハウエルを読んでいたので、曽我さんの記述を読んだときに、その分裂した元のものは何か、という問いが浮かんだのでした。

ところで、佐倉さんのHPの来訪者の声での私の発言ですが、買い被りではないです。
ソフトウェアの世界では、ソースを公開し複製・再配布・改版の自由を主張するフリーソフトというのがありますが、それのテキスト版(思想版)をされたのだと思っているからです。私にとっては画期的なことでした。

それから、人間、完璧な人というのはめったにいません。私自身、HPでは偉そうに書いていますが、実際は、力もなく七転八倒し自分の弱さ、だらしなさを、日々思い知らされながら生きている人間にすぎません。最近は、少なくなりましたが、ついこの前までの私は、自分が哲学的な問題に取り組んでいることに価値を見出し、そのことに優越感をもっている部分がありました。こうした問題に取り組んでいる人間は、孤独なのではないかと思います。周りの人が悩まないようなことを考え、様々なことを考えすぎるが故に現実生活でも要らぬことを考えすぎて、生き辛くなっている。

自分でも困ったものだな、と思っています。

最後に。こうした思想的なテーマについてやりとりする際には、時間がかかって当然だと思います。私自身、メールをいただいてから、読み、自分なりに理解し返信するには時間とエネルギーが要ります。

提案なのですが、気軽にゆっくりと、それぞれのペースでやりとりをしていくようにしてはいかがでしょうか。

1999年3月25日 池田政信


池田さんへの返事

池田様   1999、4、25 曽我逸郎

 優しい言葉に甘えてのんびり構えているうちに、苗代作りが始まり、おまけに酔いつぶれてうたた寝をして風邪を引き、返事が遅くなってしまいました。すみません。

 主体と対象と場(世界)が分裂するもとのもとは何か?という御質問を頂きました。

 「無記!」と叫んで、逃げていってしまいたい気持ちです。二重の意味で困難があるからです。

 ひとつには、私自身が、主客未分=戯論寂滅の体験を通して、本当のところの自己の無我・自己の縁起・自己の空を知っているわけではないためです。本当のところの自己の無我・自己の縁起・自己の空、すなわち対象化された自己ではなく、主体の自己が突き破られた経験はまだありません。(オートバイで無茶をして、顔に大怪我をして、救急車で病院に運ばれて何度も意識を失ったという経験はありますが、これはただの気絶です。)

 私にとって、本当のところの主体の無我・縁起・空は、別の方へのメールにも書きましたが、まだ体験ではなく、問題解決のために必要としていること、いわば要請なのです。

 二番目には、たとえ経験していたとしても、意識する主体がない状態のことだから、どうにも説明がつけられないだろうと思います。説明しようとした瞬間、主体の意識が立ち上がり、意識の対象を場から切り出してしまい、もはや主客未分でも、戯論寂滅でもなくなってしまう。主客による戯論の領域になってしまう。
 (おそらく、本来語り得ない主客未分・戯論寂滅を訳知り顔で語ると、世界の一切が顕わになるだとか、真如だとか、如来の知恵の光が世界を遍照しているといった表現をすることになるのだろうと思います。)

 仏教の領域なら唯識が説明の体系を持っているのかもしれませんし、心理学にも科学的理論があるかもしれません。しかし、どんな直接の言葉も主体の成立していないところには届かないだろうと推定します。ともかく残念ながら、私は唯識も心理学もまともに勉強したことがなく、このままでは「経験もなく、説明もできないことを、おまえは主張していたのか」と非難されそうで、別のアプローチとして、あーでもないこーでもないと動物の進化の過程を考えてみました。個体発生は系統発生を繰り返す、という法則がここでもあてはまるなら、動物の進化を考えることで、我々の意識(無我となるべき我)の起こってきた過程もみえてくるかもしれないという希望的観測です。

1)クラゲのレベル(=胎児の初期の段階)
*特化した感覚器官はない。=対象の切り出しはおこなわれていない。
*寒暖など対象化を伴わない感覚はあり、おそらくそれに伴う快不快・苦といった原始的感情はある。種としてはともかく個体として自己保存欲があるかは不明。
2) 魚のレベル(=胎児後期〜赤ちゃんの段階)
* 目・嗅覚など特化した感覚器官が発達し、餌や天敵などの対象を鋭敏に捕らえている。
* 欲望・恐怖などやや発達した感情を多分持つ。おそらく個体としての自己保存欲もある。
3) 人間の世俗的レベル
* 言語が発達し、複雑に構造化された社会的かつ恣意的な価値の体系(イデオロギー・宗教・国家・地位・名声など)をもつ。欲望・執着など高度に発達した自我意識を持つ。
 以前受け売りのまま「言葉によって対象を世界から切り出す」と書きましたが、こう考えてみると、対象の背景からの切り出しは、言葉よりもはるかに根が深いところに由来するようです。少なくともfocusの機能のある眼をもつ動物は、言葉を持たずともそれぞれの仕方で対象を切り出していることはあきらかです。聞き分ける、嗅ぎ分けるというのも、対象の切り出し方のひとつです。
 意識やその主体はどの時点で生まれるのか、対象の切り出しと同時ではないかと想像します。葦の束のように、主体と対象がささえあって意識は成り立つ。意識または主体が先にあって、それが対象を対象化するのではおそらくありません。何もない空間からある確率で電子と陽電子が対になって生まれるように、主体と対象が同時に生まれる。もしそうだとすると、主体と対象が未だ分かれざる時には、何もないことになります。「父母未生以前」という禅の公案を思い出しました。関係するのかどうか、わかりませんが。

 仮に「主客未分」にこだわって、分かれる前は先ほどの動物進化のどのレベルに相当するのかなどと考えてみると、違和感を覚えます。主客未分は、クラゲのレベルに戻ることなのか? けしてそうではなくて、主体の無我は、上の3)の次の4)のレベルである筈です。

 私自身を含めて、「主客未分」という言葉を使う人は、主客未だ分かれざる「本来のそこへ戻るべき」理想的あり方を無自覚のうちに前提としてきたようです。ここまで考えてみて気づきました。
 「完全な状態の意識がはじめにあったのに、我々の(日常の)意識は、主客が分裂した不完全なものになっている。戻らねばならない」何の根拠もなくこう考えてしまっています。主客未分などという完璧なる意識などは、未だなかったのです。「未」分という言い方は誤解を生みます。主客未分という言葉は、今後使わないようにしようと思います。

 では、主客未分という言葉で私が言い表そうとしたことは何だったのか?
 主体の無我であり、主体の縁起でした。対象化された自己ではなく、見ている自己の無我・縁起です。矛盾的表現を許していただければ「我の無我」です。
 でも、それがどんなものか説明しろといわれれば、最初に触れた二重の困難に立ち戻らざるを得ません。それをあえて1)〜3)にならって戯論すれば、

4) 主体の無我・縁起のレベル
* あらゆる対象が、等価・時間的・一回的現象となる。
* 対象化された自己ではない主体の自己が、それら対象とともに等しく縁起する現象であることを知る。時間的・一回的である事も。
* 執着の対象(自己という我執の対象も含む)が、時間的・一回的現象である事を知り、執着がなくなる。
* 無数の現象とともに縁起することを喜ぶ。

 「無我であれば誰が知り、誰が喜ぶのか」などとどうか責めないで下さい。言葉の届かないところをむりやり戯論しているのですから。あるいは、無我のさなかの言葉ではなくて、無我を知った後反省し整理したらこうだろうかと無我をまだ知らない私が推察した言葉、というのが一番正確なところかもしれません。

 内容がないくせにわかりにくい文章になりました。もう一度まとめます。
・意識の生成史(?)としては、主体は客体を対象化することによってうまれ、客体は主体に対象化されることによって生まれる。両者は同時発生・葦束の間柄であり、主客未分の時には、両者共にない。主体と対象が対になって生まれる事が、意識が生まれる事。
・ 「主客未分」ということばは、かつてそのような理想的状態があったかのような誤解を生むので今後使用を控える。
・ 「主客未分」という言葉で言おうとしたのは、「我の無我」であり、それは、過去に戻る事ではなく、これから実現すべき事である。

返事が遅かったにもかかわらず、支離滅裂な内容ですみません。池田さんにはいつも自分の考えの浅さを指摘頂いているようで、お恥ずかしいのと、ありがたいのと半々の心境です。また宜しくお願いします。

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