谷 真一郎さんから  仏教と自然、意識の中間層、津田真一『アーラヤ的世界とその神』について 2001,6,6,

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曽 我 逸 朗 様
               from 谷 真一郎
 「津田真一の本を読みました」というメールを曽我さんに送ったのが、今調べてみるとなんと1年前のことです。いくら一生の勉強テーマだといっても、こんなにのんびり・ぐずぐずしていたのでは、いずれ無常の風に追いつかれてしまいますね。とにかく、一応読んで考えをまとめましたので、お送りいたします。
 その前に、前回の曽我さんのメールに書いていただいたことについて、少し考えた事を書きます。また、最近読んだ別の本から示唆された事なども。
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 まず、「民族的土着的な超越的なもの」について。
 後述しますように、我々の通常の意識の表層から下へ降りてゆくと、個人的な無意識に達し、さらに集合的な無意識に達し、さらに奥深くへわけ入ってゆくと、言語表現の不可能な"clear light"と言うしかない領域に入ると考えられます。さらにその下には死(=意識の滅)があるわけです。
 ポジティヴな面に限って言えば、個人的無意識は個人に発する芸術表現の源泉ですし、集合的な無意識は民族特有の世界解釈のプロトタイプや神話的表象に充ちており、それらはいずれも言語に置き換え可能な領域と考えられます。その下にある"clear light"に達した時、言語表現を離れ、かつ民族的・風土的な特質も離れるわけです。
 我々日本人は深山の森の中に一種の「聖」を見るのですが、アラブの人たちは砂漠の中で心が安らぐそうです。ある時、アラブの人が日本の田舎の風景を列車の窓から眺め続けて、あまりにも緑、緑、で気持ちが悪い、と言ったそうです。しかし、アラブの人が砂漠の中での瞑想を最も深めた時、日本の山岳修行者が山中での瞑想を最も深めた時と同じ"clear light"を見るはずです。
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 「自然」「反自然」の問題について。
 高等類人猿から人間が発生したことは、「自然」の中のひとつの飛躍であると私は思います。曽我さんは、動物進化の途上での認知能力の段階的な発展を書いておられますが、それらに重ねて、人間以外のすべての生物と人間とを隔てる、決定的な特徴があると私は考えます。それは「欲求」が「本能」という枠を離れて増殖したり変形(倒錯)したりするようになったことです。このことを岸田秀は「本能のこわれた猿」と表現しています。自意識の成立はその次の段階のことでしょう。
 ですから、他の動物の場合と違って、人間は「自然のままに」まかせておけば個体生存のための合理性を逸脱して果てしなく欲望に耽ったり、仮構された「自己」なるものの防衛のために殺し合ったり、生殖とは全く遊離した性的倒錯に陥ったりするわけです。釈尊の言われた「苦諦」も、人間の陥ったそのような「自然的」状況のことであろうと思います。
 ですから、「苦」からの脱却のためには何らかの「反自然」的な作為が必要になるのが道理です。性的禁欲(梵行)はその「苦からの脱却のための反自然」の中での代表的なものではあるが、必要条件や十分条件ではないだろう、と私は考えます。梵行の価値を絶対的なものと見ない、というところで、私は津田真一氏と意見を異にします。
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 さて、4月に『意識と存在の謎』(講談社新書)という本を読みました。高橋たか子と田中輝義という人の対談で、両者はともにカトリックの人(田中氏は司祭)ですが、敢えてキリスト教の用語を使わず、さらに哲学用語も使わずに日常用語だけで「魂」の深い領域に関する一般論を組み立ててみよう、という野心的な試みです。
 この本の中でとりわけ、「中間層」と二人が呼んでいるものには多くの示唆を受けました。前にも少し触れたように、個人の意識の表層から下へ潜って行くと、その道はただちに普遍的な「悟り」のclear lightにつながっているのではなくて、まず、良くも悪くも内容豊かな「中間層」に出会うのです。唯識で言うアラヤ識は、この「中間層」に対応します。そこには個体的なあるいは集合的なさまざまな起源を持つ膨大なイメージが渦巻いており、時に応じてそれらは意識表層に噴出します。芸術表現、夢、「デーモンの働き」としか言えないようなどうしようもない性癖(たとえば異常犯罪)、等々は、この「中間層」のイメージや衝動の意識表層への噴出です。
 「中間層」の豊かな内容は、それらを言語化して表現することは可能ですが、「中間層」の中でそれらがすでに言語というステータスにあるかというとそれは微妙なところで、おそらく「言語の生成」というべき状態にあると思われます。意識の上層から「中間層」に対象化の光が射し込む(海中に光が射し込むイメージです)たびに、あるイメージは他のイメージを参照して自らを示します。そういう事のくりかえしの中から、個々のイメージの上にしだいに、言語化された「意味」が成立してくると思われます。このあたりは昔読んだデリダの『声と現象』を思い出しながら書きました。
 さて、この「中間層」の個々の内容物の起源は、何らかのかたちで個体の外部から来ているはずです(そのように考えないと悪しき神秘主義に陥ります)。
その起源には集合的なものももちろんあるのですが、彼本人の行為による「薫習」の部分もかなりあると思われます。この場合、行為は対他的なものである必要はありませんから、まさに「身・口・意」を全部含みます。このような意味での(広義の)彼の行為が、彼の無意識の中に色々なものを沈殿させ、それが他日、彼の意識ひいては行動に影響するのです。このような意識表層と「中間層」との間のダイナミズムは、(評判の悪い唯心論はともかくとして)唯識の理論が詳しく語っているところです。
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 以上のことから、さらに考えてみました。
 人間の「身・口・意」の働きは、外部に対する働きと内部に対する働き(無意識の「中間層」への「薫習」)と、一対になっています。つまり両者は一種の反作用のような構造になっています。しかし、問題性ということで見ると、主として外部への働きかけの方に問題がある場合(「他者の生存や共同体の存続を脅かす」「人に迷惑をかける」)と、内部の「中間層」への悪影響に問題がある場合とに、おおざっぱに分けられます。従って、人間の「悪」あるいは「罪」というのも、理念的には二種になるわけです。つまり、権力・金銭・名声等の社会的対象への執着(それによって生じる苦)と、小人閑居して不善を為すといった種類の執着(苦)。後者には性的なものの他に、薬物依存・拒食過食・現実から逃避して種々の仮想現実(ミリタリー・スプラッター等)に浸ること、等が含まれます。いずれも、「中間層」から噴出する衝動に駆られてその行為を繰り返し、その行為自体がまた「中間層」に「薫習」して、彼の無意識をますますゆがめていくのです。
 ここまで考えて、日本神道で「天津罪」と「国津罪」とを区別することに思いあたりました。大祓祝詞では、多少の混乱はあるものの「天津罪」には主として共同体の秩序を乱すことが含まれ、「国津罪」には主として近親相姦や獣姦等、性的な倒錯行為が含まれます。現代に置き換えて言えば、たとえば殺人そのものは「天津罪」であり、その殺人に酒鬼薔薇少年のような猟奇的部分があればそれが「国津罪」と言えるでしょう。「援助交際」について、男女合意の上のことだからいいじゃないかという意見に対して河合隼雄が「それは『魂に悪い』からよくないんだ」という名言を吐きましたが、これはまさに「国津罪」のことを言っているのです。
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津田真一『アーラヤ的世界とその神』 及び 津田・松本論争について

「我が意を得た」こと、すなわちこの本を読む以前から自分が考えていたこと
1.釈尊の教え(出発点の仏教)にとって「慈悲」が外的な契機であること。
2.四諦の意味……「苦−集−滅」は知、「道」は行。
3.釈尊の教えは「反自然」である、ということ。

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津田氏の説の要約

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 釈尊は、試行錯誤的な苦行の末に「女性形単数のdharmaの『無明−明』の両極構造」の「明」の極に合一(ヨーガ)した。
 この瞬間に彼が得た視野は、自己・他者・宇宙の全体像(中性形単数のdharma)である。これによって彼自身が宇宙と一体化した。すなわち彼自身そのものが「開放系の神」(超越者に関する普遍的(諸宗教横断的)な概念。ヴェーダ・サーンキヤにおけるプルシャ)となった。
 彼は弟子に対しては、以下の二つの事をした。
1.苦(輪廻)の原因を無明であるとし、対象化され気づかれた無明(明に対するnegativityとしての無明)を渇愛(タンハー)とした。言説としては十二因縁・四諦の苦集滅がこれにあたる。これが釈尊の「教」であり、これを受け入れる事が「信」である。「教」に対して「信」の態度決定をした者は、ある意味ではここですでに「悟って」いる(原始仏典「遠塵離垢の法眼を得たり」)。しかし、ここでは「開放系の神」は理念としてしか現成していない。
2.無明から明への移行(=渇愛の滅)は、生涯にわたる性的禁欲(「現法的梵行」)によって成就すると教え、そのための出家教団を作った。四諦の道諦(=八正道)がこれにあたる。これを実行すれば、釈尊と同じく、「開放系の神」と合一できる。つまり、これが釈尊の教えた「行」である。
 彼の示した道は、まさしく反自然、人間性否定の道であった。しかし、自分の力で明の極に合一するにはこの方法しかない。
 ここで無明と言い明と言うのは、世界全体(「存在」=女性形単数のdharma)に関する規定である。それが釈尊一人の力で(釈尊一人にとって?)転換する。これが「存在」の「空的」なありかたである(「空」の第一義)。

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 後の時代になって、釈尊の方法の反人間性に飽き足らない人々が、全く別の生き方を思いついた。すなわち、釈尊自身の修行法である現法的梵行ではなく、彼の過去世(ジャータカ的利他行)の生き方をモデルとするようになった。
 無明の対象化(=渇愛の発見・苦集滅諦)という出発点は(「空」「不生」等の表現を使うとはいえ)釈尊の教えと同じである。ある意味ではここですでに「悟って」いるから、「頓悟」説の根拠はここにある。しかし、前述のようにここではまだ「開放系の神」は理念的にしか現成していない。
 この後に続く「行」として、(釈尊の「現法的梵行」のかわりに)利他行が行われる。ところが、ひとたび利他行を行うと、直ちに世界全体が仏国土(マンダラ=善なるものすべてが揃っている意)になる。ただし、それは彼の利他行の力でずっと(現法)支えられていかねばならない。彼の利他行が息切れしたとたんに元の世界に戻る(華厳経の「初発心時便成正覚」)。
 ここでも、釈尊の悟りの場合と同様、一人の修行者に対して世界全体が変容する、という関係がある(西田幾多郎の「逆対応」)。これが「空」という事(前述の「空的」と区別して)の意味である(「空」の第二義)。個々の存在者(男性形複数のdharma)が縁起的であることも否定できない(「空」の第三義)が、これは我々の生き方にとって重要な事ではない。
 しかし、「開放系の神」との合一を保障するのは釈尊の現法的梵行だけであるから、利他行の菩薩は、生きている間は利他行を重ねるのみであって「開放系の神」との合一には達しない。ところが彼の死において(法然の「臨終の正念」)「開放系の神」は彼の眼前に、現実的に出現する。そのように信じてよい。これが「救済」ということの意味である。

   V
 以下が、釈尊の弟子と大乗仏教徒との共通の構図である。
1.「教」に対する「信」によって、「悟り」(=「開放系の神」)はひとまず理念的に出現する(頓悟)。
2.「信」に続く「行」の長い経過の後、(釈尊の弟子の現法的梵行の場合は自力で、大乗仏教徒の場合は臨終に際して他力で)「悟り」(=「開放系の神」)は現実的なものとなる。
 利他行とならんで念仏も、そして密教の最終期に出現したサンヴァラ系密教の「死に至るまでの聖地巡礼」もまた「行」である。いずれも臨終に際しての「救済」が約束されている。
 密教に関して言えば、大日経では「教」の部分がシンボル化されているのみで、「行」としての利他行は従前の大乗仏教と同じである。
 金剛頂経に至って「行」の部分までもシンボル化が可能(従って実際の利他行は不要)と考えられたが、密教の辿ったこの道は挫折し、サンヴァラタントラに至って、死に至るまでの聖地巡礼というかたちで「行」が復活する。
 法然・親鸞に対する解釈も、親鸞の「信心決定(による横超(=悟り))」と法然の「臨終の正念・来迎」とを対立させて、近代的立場から前者を重視する、というのは誤りである。人格神阿弥陀(「開放系の神」)の、前者は「教」「信」における理念的な現成、後者は「行」の果ての全たきリアリティにおける現成である。

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批判

1.「現法的梵行」(=生涯に渉る性的禁欲)という概念の狭さ
・無明の原因あるいは源泉としては、事実としての性的経験ではなく、種々の代償経験をも含んだ心的諸経験が問題となるし、心的諸経験にまで広げて考えた場合、問題となるのはその有無ではなくそれらの質であろう。つまり、それらの「ゆがみ」と「むさぼり」によって、無意識層に無明を蓄積する(薫習する)ような心的経験でないかどうか、であろう。
・単に事実としての性的経験の有無であれば、現在でもテラワーダ仏教国の僧侶の大多数は「現法的梵行」をしている。しかし、権力欲等の煩悩は多いらしい。
・このように「現法的梵行」の意味を転換した場合(「ゆがみのない、正しい心的体験としての性的体験」)、必ずしも「反自然」ではないから、我々においても、そのような「梵行」は可能、ということになる。つまり、現在の我々の前にも、(転換された意味での)「梵行」か、「利他行」か、「念仏」か、という選択がありうることになる。

2.具体的諸現象(男性形複数のdharma)が縁起的に存在する、ということが、なぜ、我々の生にとって規定的かつ重要な事実ではない、ということになるのか。説明抜きで言われている。事実としては、やはり第一級に規定的かつ重要な事実であろう。この事は「苦」と表裏一体の関係にある。

3.「自分に見える部分・自分にできる部分」に関して目一杯やっておれば、世界の残余の部分に関する責任を問われることはない。この場合、「自分に見える部分・自分にできる部分」が「世界」の中のどの範囲に限定されているか、は、彼にとっては被規定的(運命的)な事実である。これは吉本隆明の思想でもある。津田が「初発心時便成正覚」とか「空ということの意味」と言って難しくしてしまっているのは、そのことではないのか。「自分に見える部分・自分にできる部分」に関して目一杯やった人は、1.残余の世界をも含めて世界全体を肯定的に(大袈裟に言えば「仏国土」として) 見ることができるし、2.臨終にあたって、自分の生涯が世界全体の中で如何に部分的・被限定的であったとしても、自分の生涯を肯定することができる。

4.世界観に関して、現象の背後に「目に見えない、深層の」存在があるのかないのか、これはいくら論じても一致しない論議である。「ある」立場「ない」立場のそれぞれの中でならば世界観の論議が成立するであろうが。
 かくて、津田が言葉を尽くして何を言っても、それを「ない」とする松本のさらなる怒りと愚弄を呼ぶだけである。
 私は、自分個人の決断として、津田と同様の、「目に見えない、深層の」存在が「ある」立場を採る。そして、「ある」立場のもっとも優れた理論的表現としてハイデガーの「存在−存在者」を採ることも津田と同様である。
 しかし、津田(あるいはハイデガー)のように「存在の構造・機制」をあたかも観察可能な物体のそれのように確信を持って一義的に決めてしまい、そこから目に見える世界に関する事までも演繹する、という形而上学を展開する勇気はない。というより、そのような形而上学は何らかの形で回避しうるはずだ、と考える。
 津田は「存在」の形而上学(「女性形単数のdharmaの「無明−明」の両極構造」)からさらに進んで、人格神的唯一神の「はからい」「意図」のような事まで言う。これは明らかに「神話」の言説である。「神話」そのものがいけないと言っているわけではない。しかし、この言説が証明不可能な世界観を語っているということ、また、その世界観を前提とし踏み台とした上で世界内の諸存在者が解釈・意味付与されてゆくのであってその逆ではないということ、総じて、この言説が神話というレベルに属するものであること、への自覚が、彼には欠けている。そういう意味では、彼は素朴である。


谷 真一郎さんへの返事

                             2001、7、11、
前略

返事遅くなりました。すみません。
早速感想を書きます。

* 「民族的土着的な超越的なもの」について
 私は、「民族的土着的な超越的なものは、本来の仏教ではない」と頑迷に主張してきました。しかし、谷さんの考えておられることは、「民族的土着的な超越的なものは、いくら意固地になって否定したとしても、自覚的意識の底で我々のものの見方・感じ方に大きな影響を及ぼしている」という点だったのですね。やっと了解しました。すみません。
 しかし、自覚的意識の前段階で我々の見方・感じ方を規定しているものというと、それは執着にほかならないのではないでしょうか。だとすれば、「民族的土着的な超越的なもの」は、やはり、釈尊の教えにのっとって、自覚的に批判検討を加え、解体すべきではないでしょうか?
 (「民族的土着的な超越的なもの」の根深さをを考えると、簡単に解体できるとは思えませんし、逆に100%解体できたとしても、その結果は、日常生活が不可能になるだけのような気もします。「自覚的意識の前段階で我々の見方・感じ方を規定しているもの」の中には、解体すべき執着と、世界の変化にすばやく正しく対応するために利用し続けるべき「道具としての言葉・概念」の区別があるのかもしれません。「意識の指向性停止体験」の間は、例外的に言語機能も停止しているのですが、世俗に戻ったら、言葉はやはり便利で必要な道具であると思います。)
 ともかく『良くも悪くも内容豊かな「中間層」』とは、活発発地な生命力の場なのか、それともどろどろの執着の束縛の場なのか? 私は、後者のような印象を持っています。外の現実の変化する縁起の世界こそ活発発地な場なのですから、どろどろに濁った執着のフィルタは、なるべく透き通らせるようにしたいと思います。

* 『普遍的な「悟り」』は下にあるのか、上にあるのか?
 「中間層」の下にある「clear light」は『普遍的な「悟り」』なのでしょうか?
 『意識と存在の謎』(講談社新書)を踏まえて書いておられると思います。おもしろそうだし、私も読んでみなければと本屋を探したのですが、なかったので読まないまま書きます。勘違い、曲解、ご容赦ください。
 悟りとは、「そこに帰るべき本来の自然なあり方」なのか、それとも反自然・人工的な成果なのか?
 「中間層」の下には「clear light」があるのでしょうか? 動物は始まった時から一貫して自分の利害・都合に即してのみ世界に対処してきたのだろうと想像します。だとすると、無我を見、縁起を見る仏教の教え(=clear light?)は、けして元に戻ることではなく、新しい見方を前に構築することではないかと感じます。
 自然の問題に関連付けて言えば、人間的自然を否定して動物的自然に戻ることが悟りではなく、動物的自然の後に人間的自然(執着とか倒錯とか悔恨とか)があり、(反省や発心や努力・研鑚を経て)人間的自然を新しい方法で克服することが仏教の教えだと思います。
 アニメに喩えるなら、如来や菩薩はニュータイプの人類だということになりましょうか、、、(冗談です)。

* 津田氏の主張について
 暗喩に充ちた文体もあって、私には津田氏の主張は、全体体系としては理解不能です。
 谷さんの要約から引用させて頂くと、例えば、
『「女性形単数のdharmaの『無明−明』の両極構造」の「明」の極に合一(ヨーガ)』とか
『それ(女性単数のdharmaに関する規定)が釈尊一人の力で転換する。これが「存在」の「空的」なありかたである(「空」の第一義)。』といった表現。
 意味深長に響くものの、私の読みが浅いのか、なんのことだかよく分からない。
 おそらく、津田氏は、仏教ではなく、釈尊が戦われた当の相手、すなわちインドの「民族的土着的な超越的なもの」を説いておられるのだと想像します。インド的精神の流れから突出した仏教を、再び流れの中に象嵌しようとしておられるのではないでしょうか。
 さりながら、私も、谷さん同様、津田氏の論文から、断片的な問題提起は受けました。例えば
「釈尊の出家主義は世俗の否定であり、大乗の世俗主義、慈悲とは対立する。」とか
「釈尊の仏教は、反自然である。」
といった主張です。こういった問題については、今後も続けて自分なりのやり方で検討していこうと思います。

 谷さんの津田氏批判については、まったく私も同感です。唯一の相違は、『現象の背後に「目に見えない、深層の」存在があるのかないのか』。ご存知のとおり、私はないと考えていますし、釈尊はそう教えられたと信じています。

 断片的な感想御許し下さい。

 では。
                            草々

谷 真一郎 様
                          曽我 逸郎

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