曽我逸郎 様
                        from 谷 真一郎

 メールをいただいて1ケ月近く、春もすっかり深まり、汗ばむほどの季節になってしまいました。この間、仕事の忙しさに加えて、ディスプレイが故障してメールのやりとりができなくなり、いただいたメールもここ数日でやっとゆっくり熟読することができた次第です。

 曽我さんの言われるとおり、「大乗国」日本では、神羅万象を全肯定してみせることが「悟り」のポーズの一類型として定着しております。修行をしていない俗人でも「善人も悪人もそのように仏に生かされているのだ、みんな実は仏なのだ」と言えばさも良いことを言っているように聞こえます。しかしそれではズブズブの現状肯定となり、現に存在する弱者・被害者への眼差しは欠如してしまうことになります。のみならず、自分の世俗的な欲望や執着さえも自ら全肯定してはばからないようにもなるでしょう。
 しかし、私は、こうも考えます。出家者の厳しい修行の果てには、(上述の俗人の「全肯定」と言説の上では同じ表現となったとしても)、悪人の存在や此の世の否定的な面をも全部含めて「法界」と観じ、それらに対して怒りの心を起こさず対処する、という境地も(そしてその境地に至った人も)存在するのではないか、と。
 自分はもちろんそのような境地に遠くあります。
 余談ですが最近、家の外壁の修理に関する事で隣人とトラブルになり、最終的にそのトラブルには「勝利」したのですが、その過程での自分の心の動き方を省みると、まさに「貪瞋痴」の三毒の中の「瞋(いかり)」の大活躍です。しかし、あの隣人相手に「和顔」「愛語」で臨めばうまくいったとはとても思えず、今の自分の人格的力量では、自分を含む家族や財産を守っていくのには戦闘的かつ毅然としたスタイルしかなかったと思います。隣人とのこのトラブルには将来第二ラウンドがある可能性もありますが、その時にはまた「瞋」の出番となるしかないでしょう。
 このような俗人たる自分が、本覚思想を読みかじって「すべてよきかな」という世界観を持ったとすれば、行動の基準となるのは自分の欲望と、それを貫徹するにあたっての他者との力関係だけ、という全く反仏教的な生き方に陥ることでしょう。堕落していた時代の比叡山の僧兵などは、僧籍にあったとはいえこういうレベルの存在ではなかったかと思います。
 やはりここは、縁起ということを常に念頭に置いて、金銭に対して顧慮関心を持ちつつも「金の亡者」にはならず、他者から受けた被害に対しては正当に反撃しつつもムキになったり「復讐の鬼」とはならず、人生の途上で得たものや得ようとするものも、人生の最後が来るまでには再び失われるものであり、よしや失われずに有ったものも、人生の最後には失われるものである、ということを折りにふれて観ずることが「対治」となるのでしょう。
 世界観としては、全肯定どころか、世の人々が価値としている諸物の縁起的性質(従って無常)を観じていくこと、どぎつい油絵具で描かれていた「世界」を、水彩に、さらには墨絵に変じていくこと、が、我々在家の者が達することの可能な境地であろうと思います。
 しかし(ここまでの脱線が長くて申し訳ありません)、本当に厳しい修行を積んだ人には、「世界」は別の姿に見える、ということを我々は「想像」してもよいのではないか、と思います。そして、その悟りの境地を言説として表現した場合には、如来蔵や本覚・法界という概念が必然性を持ったものとして登場してくるのではないでしょうか。

(曽我さんからの引用)
「この世界はすみずみまですばらしい」と主張する人がいて、その人は自制心に富み、慈悲にあふれた人であったとしても、その人の言葉が一人歩きして、世俗世界で浅薄な欲望肯定と無慈悲容認の論理にされてしまう事を恐れます。

 全く同感です。問題は、それが言説として紙に記されて以来、仏教本来の戒律に則った生活や師弟相承から独立して世間に流通し、印刷術の普及以来ますますその傾向が強まって仏教が「俗化」している、ということにあるのではないでしょうか。
 袴谷憲昭さんの「本覚思想批判」を読んだ時に、やや危ないな、と思ったのはそのてんです。彼は一方では維摩経や華厳経を仏説ではないとして批判し、その批判と論理的には地続きの所で曹洞宗の宗務上の問題や、梅原猛などのやや俗流の哲学者(?)への批判をしています。間違った思想原理からは現実の諸問題に対する間違った対処や態度が生じる、というわけです。しかし、彼に批判されている維摩経や華厳経の作者が、現今の宗派仏教の幹部と同様の「世俗的な」人格であったとは思われません。そうではなく、激しい修行の結果としての宗教的高揚の産物としてあのような「全肯定」的表現が言説として残されたと見るべきではないでしょうか。我々の前に置かれているのは(そして袴谷氏が批判しているのは)確かに彼らの言説でありますが、彼らの「慧」をあらわすそれとは別に、彼らの「戒」もあり「定」もあったわけです。我々にはできぬことにせよ、彼らと同じ「戒」に沿い「定」に達した者であれば、我ら俗人とは別のモード(?)における「全肯定」に達することはあり、それは彼の対社会的な菩薩行を妨げるものにはならない、と私には想像されます。
 理屈を組み立てて言っているように思われるかもしれませんが、私がこのように「自分の至らざる境地に関する想像」をたくましくするのは、出発点の読書経験があります。かなり以前に華厳経の「廬舎那佛品」を読んだ時に、(それは、宇宙が無数の仏国土から成っているというまさに「全肯定」世界観なのですが)素直に感動しました。これを書いた人には、この世のすべての悲惨を考慮に入れた上でなお、世界がこのように見えるのだろう、それが「悟り」というものなのだろう、と思ったのです。

***

(曽我さんからの引用) ただ、(愛別離苦などが伝統的にどういう意味で使われてきたかを調べた上でいった方がいいのでしょうが)自然な、あるいは一般的な苦と、他者との関係における社会的な苦を分けて考えねばならない必要性が、私にはあまりよく理解できません。

 確かに、「愛別離苦」という時の「愛」の対象は他者や外的対象(所有物等)のみなのか、自分の命も含むのか、というような議論を始めると、ややスコラ的という感じがしますね。しかしここは一歩踏み込んで私なりのアビダルマ(?)を試みてみます。
 まず、「苦」は「苦あれば楽あり」というレベルの苦A(生理的な快苦はこれに含まれます)と、執着によって生じる苦Bがあり、「一切皆苦」という時の苦は苦Bです。次に、苦Bには、自己存在の有限性(死にかかわる問題群)に恐怖する苦Baと、他者や外的対象への執着に由来する苦Bbがあり、前者が四苦、後者が愛別離苦以下、ということになります。原始仏典で「〜は我にあらず、我所にあらず」という形で出てくる時の、我に関する苦がBa、我所に関する苦がBb、という形で対応するのではないかな、と思います。
 さて、苦Bbの原因となる他者や(多かれ少なかれ他者に媒介されて自分の前にやってくる)外的対象物は、3月7日のメールで書きましたように、最初から「意味」という契機を免れません。つまり認識イコール執着なのです。従って、苦Bbに対する「対治」としては、対象認識の外側からそれに並置するかたちで、「しかし、それは縁起して有るものであり無常である」という認識を心に刻んでいくことになるはずです。「執着する自己」を消去するのではなく、「執着する自己」のかたわらに「執着を批判する自己」を置くのです。「四念処」というのはおそらくそういう修行法です。「身は不浄なり」「受は苦なり」「心は無常なり」「法は無我なり」ということを観想することで、日常の意味的諸存在に対する執着を外側から中和ないし削減していくわけです。美人の小野小町が死んで、腐乱して、野犬に食われて、白骨になって……という続き絵の絵解きを写真で見たことがありますが、あれだって、泥臭いやりかたではあれ女性に対する執着を多少減らすことにはなります(よね)。  一方、苦Baの方は、自己存在が有限の枠の中に入っている(だからこそ自己存在なのですが……)ということ自体に由来する苦です。換言すれば、「自分」というものがいつか終わってしまう、自分の身体にはその「終わり」に向けての刻印がしだいに打たれていく、ということへの苦です。従って、この苦に対する「対治」としては、たとえ一時的ではあれ、自己存在が有限の枠から放たれ(従って自己存在ではなくなり)、「世界」と同一となっているという体験が有効であるわけです。この場合、「世界」は他者を介せず、直接にその全貌を開示して彼を抱き取らねばなりません。以前のメールで「存在そのものの露呈」と呼んだ経験のありかたがこれです。私は山が好きなのでここでどうしても大自然の景観や森林を前にした経験が思い出されてしまうのですが、曽我さんのいわれるように、「細部に宿る神」の姿が雨音やコーヒーの湯気の中に顕れることもあるでしょう。

 私は以前、茶道の初歩を習っていたことがあるのですが、そこでかい間見たものは、茶事の主客が色々な約束事を共有することによって狭い茶室の中に「細部に宿る神」を顕現させ、その体験を共有するという世界でした。その後結婚し、子供もでき、お茶の世界からは長い間遠ざかっているのですが、お茶の世界には今でも魅力を感じます。
 茶室に掛けられている軸に「露堂々(ろどうどう)」という文句が選ばれていることが時々あります。これは、「〜に世界がそのまま顕現している」という意味です。「〜」を通して「世界」そのものの顕現に、茶室の中で(正確には茶事の流れの中で)出会うのです。「〜」は、たとえば、畳の上のそこにしかあり得ないという絶妙の場所に置かれた道具のひとつ、飾られた一輪の花、釜の中で沸騰していた湯の音が一勺の水を差した瞬間にぴたっと止まって訪れる静寂の瞬間、等々です。エラソウに書きましたが、私自身はごく初歩で終わってしまったのです。
 仏教とは離れて私個人の問題となってしまうのですが、私は人づきあいがあまり得意ではなく、自分一人でいる時の方が気が楽でしたし、今でもそうです。しかし、他者を介しなくても自分に対して「世界」が確実に顕現している、と実感できる経験がかなり多くあったのです。  しかし一方では人間関係の網の目としての「世界」があり、その中で自分が生きており(生活の糧を得るだけでなく心理的な安定もそこから得ており)、自分の観念もその中で醸成されてくるものだ、というわきまえはずっとありました。大学では主として社会科学系の勉強をしましたし、職業が高校の世界史の教員ということで歴史の書物に親しんで来ましたので、人間の営みを外側から見る、という視点はずっとあるわけです。
 やや脱線してお喋りしすぎてしまったかもしれません。しかし、「一切皆苦」という時の「苦」を二種に分けて考えたいという趣旨はわかっていただけたでしょうか。

***

(曽我さんからの引用)
大学生とかサラリーマンとか世間的に実現された自己を、すべて本当の自分ではない、と否定し、本当の自分は違うのだ、本当の俺は何か別の未だ実現されていない何者かなのだ、と考えていらいらしているのは、不満ばかりが募るあり方でした。(同)「なにものでもない自分があって、それはAでも、Bでもない。世間的には、学生であったり、サラリーマンであったりするかもしれないが、それは本当の自分ではない。そうした無価値なものを超えたところに真実の自分がある」こういった考えがそもそも間違っていたと気づいたのです。

 私は、恥ずかしながら、そのことに気づいたのは就職して数年たってからでした。普通は(昔の「まじめな」大学生の話としてですが)学生時代に抱いていた自分の生き方の理想像が就職によって打ち砕かれ、現実の「厳しさ」と同時に「重さ」をも知る、という段取りになるのでしょうが、私の場合は色々な事情があってそれが数年遅れたのです。高校教育という「現場」にあって自分の力量がなにほどのものでもなく、だからといって他に自分の「勝負の場所」があるわけでもなく、一方、読書というものは頭の中に(死ねば消える)知識がたまっていくだけのことである、と悟りました。
 しかしこのような認識が確定したのもやっぱり読書によってでした。精神医学者レインの「引き裂かれた自己」(みすず書房)や、同じく精神医学者ビンスワンガーの論文集「現象学的人間学」(みすず書房)の中にある「夢と実存」を読んで、「自分の生きている具体的(ということは同時に、被限定的)現実に重きを置かず、それとは別の所に観念の王国を立てて閉じこもろうとする傾向」が批判されていたことに大きな刺激を受けました。そして仏教書の助けを借りて、自分の生きている具体的・被限定的現実というものはまさに「縁起」的に成立しているものであり、物事にそれ以外の成立の仕方はない、と考えるようになったのです。
 おそらくここまでは曽我さんと私とで同じような探求の道を来たことになると思うのですが……

(曽我さんからの引用)
ですから、本当の自分、谷さんのおっしゃるノエシス的な自己が残っている限りは、私の価値の問題は克服されないのです。

 ここで曽我さんの言っておられる「本当の自分」とは、それ以前の部分で自己批判的に言及されたところの、「未だ実現されていない何者か」(「現実の自分」はそれに引き較べられて批判される)のイメージのことでしょうか。だとすれば、それはやはりノエマ的な何かであって、ノエシス的自己の有無の問題とは別なのではないでしょうか。現象学の用語にそれほど詳しくはないのですが、私としてはノエシス的自己という言葉で、曽我さんの以前のメールでの「主客未分の自己」と同じものを指していたつもりだったのです。
 あるいは、私の読みに誤解があり、私としては一応(言葉の上では)解き終わったつもりであったこの問題にはまだ先があり、曽我さんの言葉がそれを示唆している、ということかもしれません。このあたり、御教示願えれば幸いです。


 以上、書き始めると何日もかかってひどく長いものになってしまいました。明日からはまた書物に向かいたいと思っております。お互い勉強を続け、これからも交流願えれば幸いです。草々


谷さんへの返事

谷 真一郎様      1999、6、8、  曽我逸郎

 私の方もメールを頂いてからほとんど一月返事ができませんでした。このペースでいくと、年間6往復になりますが、6往復のやり取りができれば、結構すごいことのようにも思います。


 まず、「全肯定の背後にあるもの」に関して。

 谷さんのおっしゃっているような「境地」あるいは宗教的体験を、私とて否定するわけではありません。それどころか私もそのような体験をいつかしたいと願っています。
 私が警戒するのは、体験そのものより、その体験を説明する言語表現です。
 主客対消滅(たった今ひねくり出した変な言葉です。「主客未分」という言葉が、主客一体のなにかがかつて存在し、それに戻ることが理想であるかのような誤解を与えるので、違う言葉を捜しています。こなれない言葉ですが、とりあえず当面は「対消滅」を「未分」の替わりにします。)の宗教的体験は、戯論寂滅の体験であり、意識の主体も客体もない経験ですから、ある意味では世界を一挙に全体として体験し肯定しているということもできるかもしれません。しかし、意識の主体も客体も(すなわち意識自体も)ないわけですから、戯論寂滅、言葉は届かない。後から思い返しても思い返すことさえできない。それを無理に後から整理し言葉にしようとすると、球形の地球を平面地図にするように、様々な歪曲を内包せざるを得ません。それならば、害のない危険度の低い歪曲を見つけるしかありません。主客対消滅の体験無しに、言葉だけを聞いた人が、欲望肯定・無慈悲許容の論理にすり替えてしまえるような表現、個々の現象を捨象して世界全体を丸のまま肯定する言語表現は、最も危険な歪曲だと思っています。
 前の段落の頭で、「境地」を「体験」に言い換えました。その理由は、主客対消滅・戯論寂滅の宗教的体験は、一時的であり、境地というほど持続的なものではないと想像するからです。釈尊が成道された時は7日間でした。「あたりまえ、、」の<町からきた娘>の場合は、おそらく一時間もなかったでしょう。宗教的体験から、主客対再生と戯論の世間的日常にもどってきた時、個々のモノが違う様相で復活すると想像します。カテゴライズされた退屈な永遠不変の「存在」から、一回きりの活発発地の現象に姿を変えて。その時、我々は、一つ一つの現象に目をむけ、慈しみ、いとおしむことができる。慈悲を知ることができると想像します。(主客対消滅の体験から戯論の日常にもどった後を「境地」と呼ぶことはできると思います。)(解脱とか成道とかいうと、まるでRPGのキャラクターが経験値をつんでクラスアップしたように、その後はそのレベルが維持されるように思ってしまいがちですが、おそらくその境地を維持するのにはかなりのエネルギーが必要だと想像します。この件は、今回のテーマとはあまり関係ありませんね。)ともあれ、体験を持たない人をミスリードするような言葉は控えねばならないと考えています。


 「本当の自分」について

 すみません。言葉足らずでした。「本当の自分」という言葉に内容の違う二つの意味を与えていました。
 実生活において、教師(a)とか、サラリーマン(b)とか、学生(c)とかの自分があって、「しかしそれは本当の自分(x)じゃない、本当の自分は、もっと別のまだ実現されていないなにか(x)なのだ」と歯ぎしりをしている主体の自分(S)がいる。
 わたしが主客対消滅の体験によってその無我を知らねばならないと考えているのは、勿論Sの無我です。あーでもない、こーでもないと考えている時、自我を対象として(s’)考えている時でさえ、そういった妄想分別を主宰する主体の自分(S)がいる。いかに分別で追いかけてもSは先回りして追いつけない。Sを問うことはできない。Sの無我を知るには、主客対消滅の経験が必要だと考えています。

 頂いたメールによって、「主客未分の自己」という私のかつての言い方は、主客未分の先にさらに別の根源的な「本当の自分」があるかのように取れる不適切な表現であり、自分自身の考えがいいかげんで未整理であったことを知りました。主客対消滅はSをふくむすべての無我を知る体験であり、本当の自分などないと知る体験だと考えます。

 ノエシス、ノエマという言葉を正しく使う自信がないので、今回はこれらの言葉を避けました。上にいう「主体としての自分(S)」をノエシス的自己と言い表してかまわないものでしょうか? 御教授下さい。

 谷さんに触発されて、精神病理学の本を読み始めました。Sは分別では問えないと書きましたが、仏教が分別でSを問う努力を早い段階で放棄し、定による努力に移るのに対し、精神病理学は、分別には違いないのだけれど、ほとんど(患者さんには失礼な言い方ですが)実験科学といっていいような方法でSを追求しているのかもしれません。
 もう10年以上前、木村敏という先生の「時間と自己」(中公新書)と「あいだ」(?)という本を読みました。私はヒントを得たり面白いと思うことがあると本に書きつけるのですが、この2冊程汚した本は他にあまりありません。それだけ刺激的だった訳ですが、手強い内容で、今となっては何を学んだのかさっぱり覚えていません。で、同じ先生の「分裂病と他者」という本を買いました。いきなり面白かったのは、我々仏教を学ぼうとするものが、なんとか我執を解体し自分の(Sの)無我を知ろうと努力しているのに対し、分裂病患者を観察してきた医師は、一貫性のある自我を確立し保持することがいかに困難かを述べています。仏教的無我=分裂病とは思いませんが、仏教の無我やSを考えていく上で、精神病理学は別の角度から仏教の問題に強い光をあててくれると期待しています。


 「愛別離苦など」に関して

 私は少し変なのでしょうか? 精神病理学では、身近な人との関係が人に重大な影響を与えると観察しています。人と人の出会いは、雲や風や光や動物たちとは比べ様もなく重要な、主体と主体の(SとSの)交流・相互影響であるのが普通なのかもしれません。人との出会いに、風に鳴る枝や波に踊る光と同じ程度の意味しか見つけられないのは、どこかに問題があるのかもしれません。
 かつて高校生の頃から大学を出てしばらくの頃まで、自然は意味などなくとも単純に美しいのに、人間のすることはすべて意味や価値を求める悪あがきのように見えて、いらいらしていました。それからずいぶんたって、人間のしていることも自然(たとえば電線に憩う雀)と同じように意味のない現象と見ることができるようになりました。しかし、それは「人と人の人格の出会い」を「自然の観照」のレベルに引き下げただけだったのかもしれません。
 大学の時に書いた小説もどきでも、登場人物達は、ニュートリノのようにまれにぶつかりあって方向を変えるくらいで、ほとんど相互作用をせず、それぞれが孤独にさまようばかりでした。「あたりまえ、、」でも登場人物達は仏教についての考えをやりとりするだけで、全人格的交渉と呼べるようなものはなく、それぞればらばらに集まって、ばらばらに去っていくだけです。
 私は、人とのふれあいに対する感受性に欠けるのかもしれません。あるいは、我執を解体したいなどと言いながら、自我を安寧に保持したくて、人との人格的ふれあいを恐れて逃げてきたのかもしれません。

 メールを頂いたり、本を読んだりすると、いろいろな可能性に気づきます。また是非お便り下さい。

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