シリカゲルさん 宗教と科学「未完成の釈尊の教えを完全としていては終らぬ問いを繰り返すだけ」 2011,8,17,

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はじめまして、シリカゲルと申します。
http://sirikageru.seesaa.net/ ホームページを拝見させていただきました。とりあえず感想を述べます。
私の仏教に対する考え方は、ブログに記載しておりますのでご閲覧ください。

興味深かった論点は二つ、科学との絡みと、主体性の有無です。

> 一方、科学は、解明できた範囲を徐々に拡大し深めていく学問だと思います。常に解明できていない外の範囲を前提しているけれども、内側で発見された事実は、真理として尊重せねばならない。
「私が無常=無我=縁起であること」が無条件な真実であれは、科学によっても反駁され得ないはずです。つまり、科学は、テスターとして使えます。科学にさえ否定されるような「真理」は、とても真理とは言えない。
と話しておられましたが、仰るとおりだと思います。
一方、科学と宗教の違いもあるかと思われます。具体的な宗教の弱点としては、神学形而上学的な知識を認めるものと並びまして。創始者を真理の体現者とするため下克上を嫌うもの、と考えております。
確かに、科学が釈迦の教えの域に達していないとの考えは出来ますし、科学では還元主義が使われております。

>存在論的還元主義:"生命体は、それを構成する分子とその相互作用によってのみ存在する"と見なす考え方。生物学における存在論的還元主義は物理主義とも呼ばれる。それはどのような考え方かと言うと、例えば"生物学的特性は物理的特性に付随している"と見なすような考え方である。(Wikipediaより)
ただし還元主義が発達した西欧でも心身二元論が生じましたように、物質と生物との境目にはある種の創発性が存在しており、要素間に分解すると見えなくなるものもあるかと思われます。生命という創発性、自我という創発性という考え方が出てくるのはもっともなことです。

個人的には、釈迦の教えは未完成だったため、後世付け加えられた。釈迦存命のときは異論を押さえつけることは可能であったが、釈迦の死後結集を繰り返してもなお原点に戻ることは無かった。結果、解脱当初の釈迦の思惑?と乖離した方向性を持つことになったと認識しております。それが、釈迦の存命時しばらくは生み出せていた阿羅漢を生み出せなくなった理由だと考えております。より具体的に言えば教えが変化したため、解脱出来る人間がいなくなった理由だと。

「全体は部分の総和に勝る」2400年前のアリストテレスの言葉ですが、釈迦の教えを完全なものとなして、創発性を否定しても、結論は出ず、このまま永遠に終わらぬ問いを繰り返すだけになってしまうのではないでしょうか?

 

曽我から シリカゲルさんへ 釈尊は苦の生起を創発(縁起)で説く。その滅をも 2011,8,30,

前略

 メール頂戴し、有難うございます。

 ずいぶん以前、仏教を勉強し始めた頃は、科学と宗教について以下のように考えていました。

 この2点については、今でも概ね同じような考えを持っています。
 それに対して、仏教については、当時こう考えていました。
 言うなればつまり、世間によくある、意味ありげで意味不明な、深そうで浅薄な俗流の伝統的思い込みに、私も嵌っていたわけです。
 世界の全体を知ることが、なぜ必要なのか。言語を超えた無分別知とは一体何か。伝えることも、聞くことも、自ら考えることもできない無分別知など、独りよがりの妄想に過ぎません。全体世界を論ずることや無分別知という妄想が、釈尊以降の歴史において、「仏教」をおかしな方向に引き摺ってきた大きな原因のひとつだと思います。

 ブッダダーサ(プッタタート)比丘の言われたように、釈尊の教えは、苦を生み起こすことを止めることを目標とするものです。その目標に関わらないものは、釈尊の教えではありません、全体世界の把握などは、苦の生産を止めることとは無関係であり、釈尊が追求された問いとは関わりありません。そのことは「無記」が端的に示しています。
 では、釈尊の発見はどういうものであったか。釈尊は何を説かれたのか。

 苦を生み起こしてしまうのは、執着のためです。そのつどの現象を、カテゴリーで固定化して固定した価値を持つ存在として捉え、好悪の対象としてプラスもしくはマイナスの執着をする。利益をもたらすものは奪い永遠に保持しようとし、不利益をもたらすものは永遠に根絶しようとする。私とは、そのような激しい反応です。その結果、自分と周囲に苦を生じる。
 自分も執着の対象も、そのつどそのつど縁をうけて起こされる現象であって、一貫性や持続性のある自存的存在ではありません。そのことが、自分のこととして実感でき、腑に落ちて納得できれば、それまでの執着の反応の愚かさが痛感される。四正諦も戒定慧の三学も八正道も無常=無我=縁起も、すべてそのための教えです。

 世界の全体を把握することも、真の自己を掴むことも、釈尊の教えとは関係ありません。特に「真の自己」については、そんなものはない、無我である、そんなものを妄想することがそもそもの間違い、執着の元だ、というのが釈尊の教えです。

 シリカゲルさんの問題意識を共有できているか、自信がありませんが、もし全体世界や真の自己の把握というテーマに関して、釈尊がどこまで到達したかを評価しようとしておられるならば、それは「仏教」の歴史展開上仕方のない問題設定ではありますが、実のところは味や香りで薬を評価しようとするがごとく、少し評価ポイントがずれていると言わざるを得ません。釈尊の教えは、苦の滅に関して評価すべきです。

 創発性についても言及があり、シリカゲルさんは、釈尊の教えを創発性を否定するものと考えておられるようです。しかし、私は、釈尊の教えこそ、創発性を説くものだ、と思います。釈尊は、我々凡夫が縁を受けて自動的に執着の反応となり、苦を生み起こすに至るプロセスを詳細に観察、分析され、示してくださいました。色・受・想・行・識の五蘊の分析も、色から段階をおって識までが次々と創発してくるプロセスを説くものです。十二支縁起も、いろいろ問題があると思っていますが、それでも基本的な姿勢は、如何にして執着が起こり、苦が生み出されるに至るか、創発の過程を分析しようとするものです。特に「名色」という言葉は、キイワードではないかと考えています。
 (小論「名色(ナーマ・ルーパ)をクオリアの視点から考えてみる」、また2009,10,21,chloeさんとの意見交換2010,3,21,旅師まさ坊さんとの意見交換 あたり参照ください。)

 また、シリカゲルさんは、釈尊の教えは不完全であるのに、それを絶対視して、「下克上」しようとしない、釈尊入滅後、教えから乖離していき阿羅漢が生まれなくなった、と述べておられます。ある面、ポイントを突いておられると思います。  勿論、私は、釈尊の教えは信じがたい程行き届いた完成度の高いものだと思っています。そして、私の解釈こそが、正しく釈尊の教えを継承していると考えていますが、同意してくれる人は多くはないでしょう。皆それぞれが、自分こそが正しく釈尊を受け継いでいる、と主張しています。その結果、「仏教」は釈尊の教えからどんどん乖離していっている。釈尊を讃えながら、実態は「下克上」して、教えを台無しにしているのが今の有様です。せっかく釈尊が月を指して下さっているのに、その指をないがしろにし、無視して、自分勝手なものを「あれこそが月だ」と狂喜し、争っています。
 この状態を改めるには、やはり釈尊の教えをちゃんと学ぶしかありません。つまり、神秘的体験や霊的直感や言語化不能の無分別知などと呼ばれるものを有難がらず、まず釈尊の教えを言葉でしっかりと学ぶ。自分という反応に気を付けて整え(戒)、観察可能な静謐な状態にして、自分を対象にして無常=無我=縁起な反応であることをリアルタイム、クローズアップで詳細に観察する(定)。そのことが実感され、腑に落ちて納得されれば、執着という反応を繰り返してきた愚かさが痛感され(慧)、執着の反応は沈静化する。このように考えています。

 頂いたメールへの返信になっているのか、不安ですが、以上、メールを拝読して思ったことです。

 ご意見有難うございました。
                                 草々
シリカゲル様
       2011年8月30日                  曽我逸郎
 

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