****さん 曽我の言葉は主体がなければ成り立たない 2011,6,

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(頂いたメールは、非公開です。)

 

曽我から ****さんへ 主体を前提とする言葉の本性に警戒しながら 2011,6,30,

前略

 メール有難うございます。こちらこそ大変失礼をしており、申し訳ありません。

 さて、頂いた問題提起、<しーさんさんへの返信で曽我が書いている文章は、「私(主体)」がないと成り立たない>と仰るのは全くそのとおりです。
 なぜなら、言葉、文章は、主語としてなにかがあらかじめ存在していることを前提し、それがなにかする、どうにかなる、という構造をもっているからです。つまり、すべての文章は、主語となる主体がないと成り立ちません。文章のこの構造は、進化の過程で作り上げられた、利害に関わる(プラス or マイナスの特定の価値を持った)諸々の現象を、クオリアによってカテゴリーとして捉え、執着し、実体視するという私たち凡夫(ホモサピエンス)に共通の反応パターンに根ざしています。
 そのような本性を持つ言葉でもって、縁によって起こる現象をなるべくそのとおりに言い表そうとすると、かなり不自然な捻くれた表現にならざるを得ません。
 問題提起いただいた三つの文章を、説明を補いながら、無理をして実態に近い言い方をしてみます。

1.すぐに執着の反応を起す反応の癖を、気をつけて、そうでないものに変えていく。反応の癖、パターンを変えていく。

 進化の過程と、個人の経験とをとおして、我々の様々な反応パターンは形成されてきており、そのつどの縁を受けるたび、これらの反応パターンによるところの執着の反応として我々は起こされる。これらの反応パターンは、反応が起こされるたびに評価検証の反応が起こされ、よりよく利害に適うよう修正されていく。
 例えば、すれたブラックバスにおいて餌とルアーが目ざとく見分けられるのは、カテゴリーの分別が精緻化されているのであり、犬における餌を置かれても我慢して「お手」をする反応は、反応がより長期的利益を目指すものに修正された結果である。
 努力と聞くと、大変主体的に響くが、端的に言ってしまえば、縁を得て努力という反応がおこるのである。ゾウリムシで周囲の水温が適温範囲を外れたとき繊毛が激しく波打ち足掻く反応や、手を打つ音を聞いた池のコイが争うように岸辺に殺到する反応と、根本的に同じであって、縁によって起こされる反応である。ただし、ホモサピエンスにおいては色身に非常に多くの、時には競合する反応の仕組みが極めて複雑に組み合わさっており、過去の膨大な蓄積から記憶として連想され引き出される縁も様々であり、時々の外部からの縁、内部の状況・縁によって、引き起こされる反応は、時に微妙に、時に劇的に変わる。
 凡夫(ホモサピエンス)においても、そのつどの反応とその結果は、そのつど自動的に検証、改変されており、凡夫の反応は、段々とより洗練された狡猾な計算高いものになっていく。
 ところが、ある時、狡猾な自動的計算は、それまでのレベルを突き抜け、目先の利益を目指すことでかえって執着が大きな苦を生じていることに気づく。これが発心である。  ただし、いくらありがたい説法を聞いても、自分で発心を起こすことはできない。縁を得て、痛切な気づき、反省が起こり、「今の自分ではだめだ」という気持ちがほとばしる。これが発心である。発心は、いくら起こそうとしても主体的に起こせるものではなく、縁を得た時に思いがけず起こる反応である。
 発心も、縁起の現象である以上、縁がなければ起こらない。いくつもの縁が重なった時に、発心は起こる。釈尊の残してくださった教え、例えば、四正諦(苦・集・滅・道)や三学(即ち、戒・定・慧、「いつも自分という反応に気をつけて苦を作らぬようにせよ」、「嵐の海のように騒ぎ荒れる自分という反応をなんとか静謐な状況に保て」、「戒定によって観察可能となった自分という反応をリアルタイムでつぶさに観察し、無常=無我=縁起を自分のこととして発見せよ」)などが、ふとした時に痛切な縁として我々に作用し、発心がほとばしる。これではダメだ、変わらなくてはいけない、という痛切な思いが起こる。
 釈尊の教えに触れても、それだけては発心も精進も起こせない。失敗や挫折や後悔や、あるいはほんの些細なきっかけが縁となり、発心を生み、精進を燃え立たせる。しかし、その前準備として、釈尊の教えは、縁として絶対に必要だ。釈尊の教えは、密かな縁、種として有情の中に撒かれ、それが縁を得て、発心や精進という芽が生じる。
 「あなたは執着の反応であり、無自覚のまま、自分も周りの人も苦しめている。そのことをよく見て、改めるよう努力しなさい」という教えは、縁として私たちの中に宿り、いつか芽を吹き、自分の反応パターンを変えようという反応を生み出す。

2.なにを馬鹿なことをしてきたんだと痛感され、握り固めていた拳や身体の力がすうっと抜けるのです。

 釈尊の教えが縁として記憶に植わり、その上に他の様々な内部・外部の縁が組み合わさって作用し、発心という反応が引き起こされ、精進という反応が反復的に起こるようになり、その結果、内部の反応パターンが徐々に変化していき、ある時、多くの縁が満ちて整ったとき、自分が無常にして無我なる縁起の現象であって、握り締めてもつかめない風のごとくいくら必死に執着しても甲斐のない現象であったのだと、ぱあっと広がるように見渡され、愚かだったと痛感され、握り固めていた拳や身体の力がすうっと抜ける反応となる。

3.このことが見えてくる。

 このことが見えてくる。(私において、このことが見えてくる、という反応が起こる。)

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 またお気づきの点、ご指摘頂ければ幸甚です。
 有難うございました。
                             草々
****様
     2011年6月30日               曽我逸郎
 

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