しーさんさん 「無常=無我=縁起」と唯物論とに違いが有るのか? 2011,6,17,

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はじめまして。
ハンドルネームは「しーさん」です。
無常=無我=縁起というのが曽我さんの仏教に対する理解の根本のようですが、その意味は、人も生き物も、生きていない物も何もかもが流転するものであって、全ては水面に生じた波が干渉しあっているだけのようなものという解釈で宜しいのでしょうか?
ということは、今生きている者は死ねば(自分の波が消えれば)それで終わり。
その先もその前もないということですよね?
だとすると、私には良く分からないことがあります。
それって、そのままアジタ・ケーサカンバリンの唯物論じゃないんですか?

彼は唯物論を説き、業・輪廻の思想を否定した。善悪の行為の報いはなく、死後の生れ変りもない。人間は地水火風の四要素からなるもので、死ねば、四要素に帰り消滅する。死後存続することはない。布施に功徳があるとは愚者の考えたことであるとする。
 「人は(地水火風の)四要素からなる。
  人が死ぬと、地は地、水は水、火は火、風は風に戻り
  感覚は虚空の中に消える。
  四人の男が棺を担いで死体を運び
  死者の噂話をして火葬場にいたり
  そこで焼かれて、骨は鳩の羽根の色になり
  灰となって葬式は終わる。
  乞食(こつじき)の行を説くものは愚か者。
  (物質以外の)存在を信ずる人は空しい無意味なことをいう。
  からだは、死ねば、愚者も賢者もおなじように消滅する。
  死後、生きのびることはない。」
(『沙門果経』§22-24.『バラモン教典・原始仏典』世界の名著1、p.512.)
 野沢正信 (沼津高専 教養科 哲学)インド思想史略説より引用
 http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/ajita.htm

ニルバーナに至る道が簡単なのなら良いですが、そんな簡単なものではないですよね?

経典に説かれているとおりであれば、ニルバーナに至る道は、人としての、生き物としての、一切の欲求を葬り去ること抜きには成り立たないのですよね?
この世における一切の愛着を無くすことを抜きには成り立たないのですよね?
曽我さんご自身、「無常=無我=縁起」と言い続けて何年も経つでしょうが、未だにニルバーナに至ってはいないのでしょう?
何年かかるのか、死ぬまでかかるのか、そこまでして一体何のために修行するのか?ということです。
だって、死に臨めば、そうやっていて苦労して修行して来ようと、毎日ちゃらんぽらんで生きて来ようと同じじゃないですか?全て消滅して跡形も残らないんですから。
喩えてみれば、余命1ヶ月と知ったにもかかわらず、東大入試のための受験勉強を脇目も振らずに猛然とやっているようなものでしょう?
やった!合格だ!と言ったところでそれが何なんでしょう?
そんなことをするくらいなら、残された日々を楽しく穏やかに過ごした方が何ぼましか分からないと思うのが普通では?

そうなってくると、仏教というのは、地べたを這い蹲るほどの苦しみを抱えている人だけがやれば良い代物で、苦しいことや辛いことがあっても、そこまでの苦しみのない人にとっては何の意味もない教えということになるのでは?

唯物論との言葉尻の違いを問うているのではないのです。
@根本的なところで「無常=無我=縁起」と唯物論とに何か違いが有るのか?と思うわけです。
Aニルバーナに至ったと言ったところでそれが何なんでしょう?死ねば終わりなんですよね?

 

曽我から しーさんさんへ 無常=無我=縁起、涅槃 2011,6,22,

前略

 メール頂き、有難うございます。

 拝読して、しーさんさんと私とでは、なにか根っこに近いところで考え方というか、問題設定が異なっているように感じました。
 それが何であるか考えてみると、ニルバーナ、涅槃の捉え方ではないか、と思い至りました。しーさんさんは、涅槃をなにかとても素晴らしいもの、凡夫が手にしたことのないなにかプラスのものとして考えておられるのではないかと想像しています。

 勿論そういう言い方もできると思いますが、私の場合はすこしニュアンスが違って、涅槃を苦を作らないこととして考えています。つまり、ポジティブな何かとしてではなく、ネガティブなことの否定としての涅槃です。

 「仏教は、地べたを這い蹲るほどの苦しみのない人にとっては何の意味もない教えということになる」という言葉から推察すると、しーさんさんは、現在それ程苦しいと感じておられる訳ではなく、ニルバーナという凡夫の日常にはないなにか素晴らしい宝を手にいれようとしておられるのではないかと思いました。だから、努力してそれを手に入れた後は、長くそれを楽しむことができなければ意味がないと…。
 しかし、苦しいという自覚がなくても、焦ったり、憎んだり、怒ったり、そういった反応もまた苦であり、自分と人を苦しめます。

 何事をも采配している大事な「我」があって、それを守り育てなければならないという執着の反応が、苦を作ります。私達の色身には、複雑なさまざまな反応の仕組みがあって、執着の反応もそれらの内です。すぐに執着の反応を起す反応の癖を、気をつけて、そうでないものに変えていく。反応の癖、パターンを変えていく。
 そして、采配する立派な「私」などいない、後生大事に守り育てるべき我などなかった、とストンと腑に落ちた時、自分大事と必死になっていた愚かさが白日の下の如くすっかり見渡され、なーんだ、なにを馬鹿なことをしてきたんだと痛感され、握り固めていた拳や身体の力がすうっと抜けるのです。

 私とは、そのつど起こる反応であって、持続するなにかではありません。涅槃も、存続するなにかではありません。そのつどの反応の、執着のない、力の抜けた、苦を生まない反応の仕方が涅槃です。私も涅槃も、そのつど起こってはそのつど跡形もなく消滅します。今そのつどの私という反応の涅槃以外に、持続する涅槃や、ましてや永遠の涅槃などはないと思います。
 (部派仏教において、涅槃が、縁起しない常住不変の無為法とされていることは存じておりますが、この分類は、学問仏教が体系仕分けの枝葉末節に迷い込んで生み出した無用過剰な産物であると思います。)

 そのつどの現象をカテゴリーとして価値づけてクオリアで捉え、さらにそれを実体視し、主語として想定される主体があらかじめ実在し、それが何かする、どうにかなる、と思いなす。これは、ホモサピエンス(=凡夫)に至る長い進化の過程で編み出された、変化する世界のそのつどに素早く的確に対処する方策でした。この対処法は、非常に優れており、ホモサピエンス(=凡夫)を生存競争に勝ち抜かせました。でも、その一方で、激しい執着の反応を起こし、夥しい大変な苦も生み出しています。

 主語として捉えられる主体的何かがあらかじめ存在し、それが何かする、どうにかなる、のではなく、つまり、我があらかじめあってそれが思うのではなく、思うという反応から、我という主体が妄想され、我ありと思いなされる。

 風があらかじめあって、それが吹くのではなく、火があらかじめあって、それが燃えるのではなく、吹くという現象から風が妄想され、燃えるという現象から火が妄想されるのです。同様に、我があって、それが思うのではなく、思うという反応から、我という主体が妄想されるのです。

 我があらかじめあるのではない、そのつどそのつど縁によって生じては終わるのが私という現象だ。このことが見えてくると、仰っている疑念は、おそらく霧消するだろうと思います。

 うまくお伝えできているといいのですが…。

 ご意見有難うございました。
                                 草々
しーさん様
     2011年6月22日                    曽我逸郎
 

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