曽我逸郎

《名色(ナーマ・ルーパ)をクオリアの視点から考えてみる》


2009年4月25日

 クオリアの視点から名色(みょうしき、ナーマ・ルーパ、nAma-rUpa)を考えてみる、という着想を得た。

 名色という概念は、単純に見えるけれど、すとんと腹に落ちる形で納得することは難しい。しばしば「名称と形態」と訳されるが、なぜそのふたつが対として捉えられるのか、用語としてこれほど頻出する重要性はどこにあるのか。分かったようで腑に落ちないまだるっこしさがある。
 しかし、クオリアと対照してみれば、名色という概念をかなり明解に捉えられるのではないか。のみならず、釈尊の教えの核心についても、新たな角度から光をあてることができるかもしれない。
 そんな目論見で、クオリアを方便として名色を考え、さらにその延長線上で釈尊の教えについて考えてみたい。

 はじめに『仏教語大辞典』(中村元著・東京書籍)の「名色」の項から抜粋する。

@ 原語は、古ウパニシャッドにおいて現象世界の名称と形態とを意味した。これが仏教にとりいれられたのである。仏教でも最古の詩句においては、ウパニシャッド的な意味に用いられている。
A 仏教では後に、名は個人存在の精神的な方面、色は物質的な方面を意味すると解せられた。心的・物的要素の集まり。精神と物質。心と肉体。概念と存在。または、認識の対象、客観をさす。
B 十二因縁の第四。心的な名と物質的な色との複合体。すなわち個体的存在としての五蘊の全体をさす。五蘊に同じ。『倶舎論』では名は色蘊以外の四蘊をいい、色は色蘊をさす。また十二因縁の第四としては、感覚機官形成以前の胚胎の状態における五蘊。
C 個性。人格。個人が他と区別(識別)される精神的・物質的な要素。
 大まかに言えば、名色には二つの意味がある、と言えるだろう。ひとつは、現象世界の二つの側面(名称と形態)である。もうひとつは、個人存在のふたつの側面(心と肉体)だ。
 『仏教語大辞典』のAは、後者を述べながらも、最後に付け足されている「認識の対象、客観」というのは前者であろう。やや歯切れが悪い。

 次に『仏教要語の基礎知識』(水野弘元 春秋社)の索引から「名色」をあたってみると、上記A、Bと同趣旨の説明の他に、こういう一文もあった。(p187)

 識の所縁(対象)としての六境(色・声・香・味・触・法)を指す。縁起経の中に「内に識身、外に名色」とあるのがこれを示している。
 縁起経の「内に識身」というのは、上記のA、Bにあたるのではないだろうか。つまり、荒っぽく言ってしまえば、名色には、A、Bの「内の」名色(心と身体)と、識の対象である「外の」名色(名称と形態)と、2種類があるようだ。

 おそらく『仏教語大辞典』が言うとおり、本来の名色は、現象世界を意味し、それが識の対象となった際の二つの側面を意味していた。ところが、識の対象には、五蘊のように自分自身も含まれ得るし、それどころか、自分を観察することこそが釈尊の教えにおいては重要であった。そのため、自分を認識対象とする修行(観)が体系化するにつれて、名色の意味は、自分の(内の)二面(心と色身)という意味へと狭められていったと想像される。

 どうやら名色については、内か外か、すなわち自分の側に捉えるか、対象の側で捉えるかが、最初の関門になりそうだ。理屈で考えると、四つの違う考え方が可能であると思う。経典などに基づくものではなく、私の勝手な整理だが、表にしてみよう。
 ABCD
名称
(「概念」的な)
名称
形態

身体
名称
形態
形態
(「物自体」的な)

 A は、「名称と形態」がもともと外の対象の側に備わっているという考え方だ。B は、「形態」(物質的なもの)が外に対象としてあり、それを内で捉えたものが「名称」だ、とする考え方。C は、「名称」も「形態」も、認識する我々の側だとする捉え方である。D は、もっと狭く「心と身体」として捉える考えであるが、これはこの小論の問題設定から遠い。

 名色について、4種類の捉え方があり得る中で、釈尊のお考えはどれであったのか。また、名色とはなんのことか。

 さしあたって、数ある経典の中でも最古といわれる『スッタニパータ』の第4章、5章から、名色が言及されている詩句を中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫 から列記してみよう。中村元は、名色を「名称と形態」と訳している。
 (並川孝儀の最近の二つの著作、『ゴータマブッダ考』大蔵出版、『スッタニパータ 仏教最古の世界 書物誕生』岩波書店 によれば、最も早く成立したとされる『スッタニパータ』の中でも、第4章、5章が最古層。)
 以下の《注》 は中村元による。

スッタニパータ 第4 8つの詩句の章

871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起こるのですか? また所有欲は何から起こるのですか? 何ものが存在しないときに、<わがもの>という我執が存在しないのですか? 何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」
872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、<わがもの>という我執も存在しない。形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」
《注》名称と形態:ウパニシャッドに説かれている二つの概念であって、現象界の事物の二つの側面を示す。(曽我:『仏教語大辞典』の@にあたる。)
873 「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか? 楽と苦とはいかにして消滅するのですか? どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。―わたくしはこのように考えました。」
874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。―このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。」
《注》註(MahN.)によると、「ありのままに想う者」とは凡人であり、「誤って思う者」とは狂人であり、「想いなき者」とは滅尽定に入った人であり、「想いを生滅した者」とは四無色定を得ている者だというが、のちの教義を適用した趣きがある。

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

950 名称と形態について、<わがものという思い>のまったく存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、―かれは実に世の中にあっても老いることがない。

スッタニパータ 第5 彼岸に至る道の章
1036 アジタさんがいった、「わが友よ。知慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか? おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」
1037 「アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」

1100 バラモンよ。名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には、諸々の煩悩は存在しない。だから、かれは死に支配されるおそれがない。」

 スッタニパータ第4、5章においては、名色は、やはり「心と身体」よりも「現象世界・認識の対象のふたつの側面」として語られているようだ。871〜874では「感官による接触」と関連づけて語られているし、909は「見ること」とともに、1037は「識別作用」との関連で説かれている。「心と身体」に限定して考えるのは難しい。
 この小論では、名色を、はじめの目論見の通り、現象世界・認識対象のふたつの側面「名称と形態」として、考えていくことにする。

 ただし、名色を「心と身体」として、特に「色」を色身(身体)として、解釈すべき詩句もいくつかある。
1074 師が答えた、「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」
1121 師(ブッダ)は答えた、
 「ピンギヤよ。物質的な形態があるが故に、人々が害われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病などに)悩まされる。ピンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。」
 スッタニパータ最古層にも、「心と身体」としての名色があるのは、語り継がれるうちに後世の考えが紛れ込んで現在の形になったのかもしれない。あるいは、もともと名色という言葉がそれほど厳密ではなく、文脈によって意味がずれる曖昧さがあったのかもしれない。
 内か外かの問題については、909において、名称と形態は、見る対象とされているから、外にあるように思ってしまうかもしれない。しかし、909は、凡夫のあり方についてのコメントだ。名称と形態は、正しい修行によって消滅する、ともされている。もし、人のあり方に係わりなく、対象の側に始めからあるのだとすれば、消滅させることはできない筈だ。修行によって消滅させることができ、それによって所有欲や我執、煩悩、楽と苦を滅することができるのであるから、名称と形態は、外の対象の側にあるのではなく、人の側、内にあることにある。つまり、先の対比表で言えば、C だ。

 現代人が普通に解釈すれば、「形態」は認識対象として外に存在しており、それを内側で捉えた主観が「名称」であるといったものになろう。 Bの見方だ。しかし、スッタニパータは、名称のみならず形態もまた滅することができるし、滅するべきだと言っている。つまり、名のみならず色もまた、人の側のことであるようだ。

 人の側にあって、執着と苦をもたらし、滅すべき名色とは何であろうか?

 もう少し材料が欲しい。『スッタニパータ』第4章、5章には上記の詩句の他にも、関連づけて考えたい詩句がいくつもあるので、抜き出しておこう。

1050 師(ブッダ)は答えた。
 「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。
1055 師が答えた。
 「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。
1056 このようにしていて、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わがものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう」

1066 師は言われた、
 「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」
1068 師は答えた。
 「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、―それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。

1070 師(ブッダ)は言われた、「ウパーシヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
《注》無所有:無一物、何も存在しないこと

1110 「どのようによく気をつけて行っている人の識別作用が、止滅するのですか? それを先生におたずねするためにわたしはやってきたのです。おなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」
1111 「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が止滅するのである。」

1119 (ブッダが答えた)、
 「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は見ることができない。」

 これらの詩句と、先に抜き出した名称と形態が言及されている詩句とから、どんなことが読み取れるだろうか。私なりにまとめてみよう。
 凡夫は、見えるままに(874)名称と形態を見て、それらを常住・安楽であると思いなし(909)、名称と形態を喜び偏執し識別し貪り、そのために諸々の煩悩がある(1055,1100)。上と下と横(=自分の周囲)と中央(=自分自身)とにおいてよく知っているもの(=慣れ親しんでいるもの)(の名称と形態)が執着の対象である(1068)。(名称と形態への)執着を縁として苦は生起する(1050)。
 形態が消滅したときには<感官による接触>は働かない(871)。内面においても外面においても感覚的感受を喜ぶことがなければ、識別作用が止滅する(1111)。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びる(1037)。自我に固執する見解をうち破って、世界を空なり(実体に欠ける)と見よ(1119)。『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ(1070)。名称と形態について、<わがものという思い>がまったく存在しなくなり(950)、わがものとみなして固執したものを捨てれば、苦しみも捨て去られる(1056)。
 名称と形態は、凡夫が見ている世界だ。凡夫は、名称と形態を常住で、よきものと捉え執着し(ものによっては、悪しきものと捉え、嫌悪・憎悪し)、そのために苦しむ。

 認識の対象を常住・安楽だと感じさせ、対象に執着させて、煩悩・苦を生む名色とは何だろうか? 認識の対象の二つの側面、名称と形態とは、何だろうか?

 先に私の結論を言ってしまうと、名色とはクオリアである。

 私がクオリアについて書いてきたものを読んでいただいている方は、既に察しておられたかもしれない。そうでない方のために、私の考えるクオリアについて簡単に説明したい。

 クオリアは、本来は条件反射を可能にする仕組みである。利害にかかわり、適切な反応をすべき縁(現象・刺激。例えば、天敵の気配や餌の可能性など)を、カテゴリーによっていち早く感知し、ふさわしい反応を全身に起こさせる。
 池のコイは、手を打つ音で条件反射が起動し、食餌行動のスイッチが入る。餌をついばむ鳥達は、誰かが枯れ枝を踏み折る音で、一目散に飛び立つ。
 手を打つ音、枝の折れる音は、毎回異なるが、カテゴリーで捉えられるため、一回的個別性は捨象される。経験を重ねることによって、反応すべき刺激かどうか、カテゴリーの輪郭線は精緻化されていく。進化につれて、クオリアの数は指数関数的に増えていき、ひとつのクオリアが複数に再分化することもしばしばあるが、それでもクオリアがカテゴリー検知の仕組みであり、カテゴリー内部の個別性が捨象されることに変りはない。そのためクオリアはイデア的であり、無時間的である。

 我々が、個々の現象に接するとき、個別的一回的な生の現象をそのまま見ているのではない。個別的一回的な生の現象によって起動されたクオリアを、いうなれば生の現象に被せて、見ている。我々は、個別的一回的な生の現象ではなく、それに起動されたクオリアに反応しているのだ。そのことは、例えば、草むらに古いロープの切れ端が見えた瞬間の反応を思い起こしてもらえれば、納得していただけるだろう。
 ロープをヘビと見まちがえた場合は、すぐに間違いに気づくことができる。しかし、見まちがいではない普通の場合には、生の現象とそこに被さったクオリアとの違いは意識されない。クオリアの無時間性は、変化するそのつどの一回的現象も無時間化して、永続的な(少なくとも持続的な)実体的存在として感じさせる。これが色(形態、ルーパ)だ。変化する一回的現象が、クオリアによって、無時間的実体的存在として捉えられた姿である。

 また、そもそもクオリアは利害に係わる現象を捉えるための仕組みである。クオリアには利害が染み付いている。そのため、クオリアが被さった現象は、実体視されること(色)に加えて、自分にとって馴染みのあるいつもの意味を帯び、「いつも化」される。そのつどの現象への「いつも化」された意味づけが、名(名称、ナーマ)だ。
 現象の「いつも化」された意味づけを「名称」と呼んだことには、含蓄がある。言葉(名詞)は クオリアによる好悪の価値判断が染み付いた無時間的実体視のカテゴリーを土台にして生まれている。言葉はクオリアの反映だ。言葉は、価値の染み付いたカテゴリーを指し示すだけで、よほどの芸術的・詩的手法が駆使された場合は別かもしれないが、生の一回的現象には届かない。この小論もまたしかり。
 禅が「棒」を使い「喝」を叫び始めたのも、言葉とクオリア(名色)を突き抜けて生の現象に飛び込もうとしたのであろうが、たちまちその試み自体が「いつも化」し、単なる儀礼的所作に堕落してしまった。

 クオリアが被さることで、そのつどの現象を、いつもの変らぬ価値を持った持続的実体として見てしまう。それによって執着が生まれる。しかし、いくら執着しても、そのつどの現象を持続的実体として自分のもとに留めておくことは不可能である。また逆に、拒絶したいカテゴリーをいくら攻撃しても、次々と立ち起こってくる現象をなくすことはできない。その結果、苦が生まれるのである。

 以上が、名色、クオリアによって苦が生まれるプロセスだ。

 では、苦が生まれないようにするには、どうすればいいのだろう。

 最初に行われるのは、執着を発生させる「名」の取り替えであろう。例えば、魅惑的な異性に出会ったとき、その体内を想像して、さまざまな体液や老廃物の入った袋であると見做す、といった訓練である。
 この場合、クオリアの機能そのものは維持されている。プラスの執着を生む名をマイナスの執着を生む名で置き換えているのだ。しかし、体液や垢や消化管の内容物を汚いと思うのも、執着であることに違いはない。けれども、凡夫の「ありのままの」粗雑な名色を、腑分けし分析して、ひとつずつより精緻な名色に置き換えていくことによって、執着の反応は薄まっていく。「**人は汚らわしい」「##教徒は危険だ」という粗雑な名色が、「接してみれば、彼らも私と同じ人間、大差ない」と変化すれば、憎悪や恐怖の反応は薄らぐ。この努力を正しく積み重ねることで、世界の苦はかなり減少するだろう。

 しかし、名色(クオリア)の働きに無警戒なまま、執着対象の実体視を続けている限り、苦を生み出すことを真に止めることはできない。それどころか、執着の対象が、粗雑で原始的なものから熟慮され洗練されたものに高度化するにつれて、執着の生む苦は、かえって極めて甚大なものになることがある。その筆頭は戦争だ。内実はともかく、戦争は、いつも美名のもとに人を動員する。神や国や自由などの美名(洗練された「名」)によって人々の執着心は煽り立てられ、撚り合わされ組織化され、夥しい苦が生み出され、人々は夥しい悪縁にまみれされられる。

 だから、本当に苦の生産を停止させるためには、「名」の置き換えだけではなく、「色」という実体視の働きも見破らなければならない。つまり、現象を実体視せず現象のままに見ることだ。それが「名称と形態」が滅することだと思う。「名称と形態」が滅して、執着が滅し、苦も生まれなくなる。

 経典はしばしば、「世界は幻」と説く。これは決して象徴的な意味や比喩表現ではない。正しく訓練を重ねることで、実際にそう見えるのだ。分厚く重く被さっていたクオリアによって磐石な実体と見えていた世界が、クオリアが擦り切れたようにほつれ、その向こうに変化する現象が透けて見えてくる。世界は重量感を失い、希薄化する。

 例えば、ゴッホにとって、燃え立つような糸杉や渦巻く夜空は、ヴィヴィッドにめくるめく今そこに現象していて、それを彼はなんとか絵筆で表現しようと悪戦苦闘したのだと思う。宮沢賢治の童話の自然表現が生成する躍動感に溢れ、擬態語を多用するのも、彼にはそのように見えていて、それを表そうとしたからに違いない(そういえば、賢治には「わたくしといふ現象」とか「小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が いかにも確かに継起する」いう言葉があった)。自閉症サヴァンの女の子ナディアは、健康な年長の少女の描く板のような平板な馬の絵とは比較にならない写実で、ダ・ヴィンチがデッサンを重ねた末に辿りついた疾走する馬の姿を、そのままに見ていた(ラマチャンドラン『脳の中の幽霊』角川書店 p249)。

 おそらく、ゴッホの場合は、絵の題材を見つめるうちになんらかの弾みで、そしてナディアの場合は、クオリアの発達不全によって、クオリアが被さらないままの現象が見えてしまい、凡夫たちの社会に適応できず、苦しんだのだと思う。きちんとした準備の整わないまま生の現象が見えてしまうことは、「健康な」凡夫として社会生活を営むことを不可能にする危険なことなのだ。

 それに対して、釈尊の教えには、苦の原因追求・原因撲滅のためというはっきりした理由があり、無常=無我=縁起という分析があり、慈悲の発揚があり、戒定慧の三学や止観といった体系付けられたカリキュラムがある。カリキュラムに従って、穴の開くほど見つめる徹底した観察を重ね、凡夫の分厚い名色・クオリアに実際に穴を開け、クオリア(名色)を透かしてその向こうに現象を見ることによって、現象のままに世界を見せて、自分がそのつど縁によって起こされるそのつどの反応であって、持続的実体的な主宰者などではないことを納得させ、執着の無駄さ・愚かしさを痛感させ、執着をなくし、人も自分も苦しめなくさせ、現実社会で慈悲によって働くことを可能にするのである。

 ご意見お聞かせ頂ければ幸甚です。

2009年4月25日 曽我逸郎

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