旅師まさ坊さん 仏教では個体をどう捉えているのか? 存在するのか? 2010,3,21,

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「あたりまえ」のホームページをここ半年あまり拝見してきた者です。はじめてメールいたします。

般若経、小論集、意見交換など大変面白く、むさぼるように読んでおります。曽我さんのお書きになっていることにとても共感を覚え、仏教のことを少しずつかじりはじめております。その中で、いまひとつ理解できないことが幾つか沸いて出てきましたもので、曽我さんにメールさせていただいた次第です。とりあえずひとつだけ質問しようかと思います。

私が知りたいのは、仏教では個体(あるいは個物)についてどう捉えているのか、ということです。個体といったものは存在するのでしょうか。

「あたりまえの般若経」でもありましたが、たとえば自分の手をじっと見つめた場合、通常抱いている「手」というイメージが崩れ(というか従来のイメージを超え)、なんだかつかみどころのない不気味(あるいは新鮮)な物体に見えてきます。人間の概念を超えた「もの自体」が現れる、ということでしょうか。ただ、手というものをひとつの対象として捉えた時点で、何らかの恣意が介入し、実体からかけ離れている面があるのではないか、と感じます。目の前の手も、テーブルの上のりんごも、この私が「手、りんご」だと勝手に思い、勝手に輪郭を決めて向き合っているだけ。本来「手」や「りんこ」といったものは存在しないわけで、そうすると、勝手に私が輪郭を決めている日常の個物それぞれについて、存在が不確かなものに映って仕方がなくなり、なんだか不安にさいなまれます。

まどろっこしい言い方で申し訳ありません。質問が単刀直入でなく恥ずかしい限りですが、仏教の視点では個物についてどう解釈しているのか。本来個物というものは実在すると考えていいのか。曽我さんご自身の意見としてもご指摘をいただけると大変ありがたいです。

お返事を気長に待っております。お仕事がんばってください。

敬具

旅師まさ坊

◆ 旅師まさ坊さんから、追伸 2010,4,7,

前略

先日、個体に関する仏教理解について質問メールを送らせていただきました、旅師まさ坊です。
大変お忙しい中、小生の疑問について考えてくださり、大変ありがとうございます。

私が今日メールいたしましたのは、先日送らせていただいた質問内容をより具体的に説明しようと思った次第です。「個体」についてです。

目の前のりんご、机を見た場合、私たちはそれをひとつの個体、言い換えると、「ある程度の統一性をもったもの」と捉えているのではないかと思います。
りんごは特定の植物(木)から育った果実(の一部)、机は人間が特定の数の木材を組み立てた物体、というようにです。「個体=統一性」、とでも表現できましょうか。とにかく、特定の対象を、ひとつのまとまりあるもの、ひとつの目的や概念でくくられているもの、と(人間は)捉えていると考えます。

ただ、そのように考えたときに、そもそもその「統一性」といったものは実在するのか、疑問が残るんです。私の側がつくりだした「概念」にすぎないのではないか、と。

走る馬を統合失調症の女の子が生き生きと描くことができた、というエピソードを曽我さんのHPで拝見しました。これはその女の子が「馬」という概念を持たず(持つことができず)、言い換えれば対象をひとつの統一性あるものとして捉えることができなかった(そもそも「対象」として捉えていなかった)からなしえたのかな、と私は感じました。もし、この女の子のような見方がより現実(ありのままの世界)に近いものだとしたら、そもそも個体(たとえばこの私、曽我さん、ペットの太郎、最近買ったワイドテレビ1台、など)といったものは具体性を失い、まことに根拠薄弱な「妄想」、ということになるのでは、と不安になります。

仏教では、私という存在を「無常、縁起、無我」という形で捉えていると思います(私の勉強不足でしたらすいません)、そこでは「私」という永遠不変な実在はない、と指摘しているでしょう。ただ、その立場でも、仮の存在として「私」という統一体の存在を想定していると思います。仏教の立場からみて、個体、統一体といった存在はどのように映っているのか。どの程度まで統一性、独自性(私は他人とは違う唯一の私である、といったようなこと)を認め、どの程度まで否定しているのか。そこが知りたいです。

舌足らずの文章で申し訳ありません。ただ、こういった疑問を身近に相談できる人がおらず(変人扱いされること間違いなし)、こうやってネットを通じて意見交換させていただく場ができたことに大変感謝しております。

曽我さんの文章に大変刺激を受けております。今後ともネット上での意見発信をお願いします。

草々

 

曽我から 旅師まさ坊さんへ 「個物について、スッタニパータと名色=クオリアを材料に」 2010,4,21,

拝啓

 メール頂戴し、ありがとうございます。遅い返事で申し訳ありません。

 このところ自分の中で、ベーシック・インカムとか、平和の事とかの比重が増して、釈尊の教えについて考えることが少なくなっています。それらのことも、苦を減らす手段として考えているので、釈尊の教えから展開してはいるのですが、根っこである部分がちょっとご無沙汰になっていると反省しています。旅師まさ坊さんのお陰で、原点に立ち戻ってみる事ができました。感謝します。

 さて、「仏教の視点では個物についてどう解釈しているのか、個物というものは実在すると考えていいのか」、とのご質問を頂きました。

 返事が遅くなっているのは、書きかけては見たものの、たいした中身にはなりそうもなく、何をどう書くか、考えあぐねていたためです。しばらく間をおけばなにか浮かぶかと思いましたが、いたずらに時間が過ぎるばかりなので、再度取り掛かってみます。

 旅師まさ坊さんは、「仏教の視点では」と尋ねておられます。「私の考え」であれば、いろいろ書く事ができます。おそらくいつもの「無常=無我=縁起」でもって、「我々が個物として捉えている対象は、縁によって今そのように現象しているのであって、実体として存在しているのではない」といったことを書くでしょう。また、岸善生さんのサイト『現代物理と仏教を考えるページ』を紹介することも考えたかもしれません。

 しかし、「仏教の視点で」となると、「仏教」に詳しい方々の大半からも「まあさほど大きく間違ってはいないね」と言ってもらえるレベルにしたいし、できるならしかるべき経典を引用して根拠も示したい。ただ、「仏教」といっても様々です。存在論的な議論となれば、説一切有部を材料にする人もいるでしょうし、中観の空の見方で考える人もいるでしょう。しかし、ここはやはり釈尊のお考えを想像してみたいと思います。釈尊となると、遠くかなたに望遠鏡を向けて原初の宇宙を探るごとく、おぼろでつかみがたく、結局はやっぱり自分考えに終わるかもしれません。眉に唾をつけながら、批判的にお読みください。

 並川孝儀さんが、スッタニパータの第4、5章こそ最古層としておられるのにならい(『ゴータマ・ブッダ考』大蔵出版、『『スッタニパータ』仏教最古の世界』岩波書店)、スッタニパータ第4、5章から材料となりそうな部分を抜き出します。(中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫より)

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第四 八つの詩句の章
 805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。
 867 世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起こる。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。
 870 快と不快とは、感官による接触にもとづいて起こる。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。生起と消滅ということの意義と、それの起こるもととなっているもの(感官による接触)を、我は汝に告げる。
 872 名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起こる。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。
 874 ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。―このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いによって起こるからである。
 909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。
 916 師(ブッダ)は答えた。「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
 974 またさらに、世間には五つの塵芥がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

第五 彼岸に至る道の章
1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか? おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」
1037 「アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」
1070 師(ブッダ)は言われた、「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄想の消滅を昼夜に観ぜよ。」
1100 バラモンよ。名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には、諸々の煩悩は存在しない。だから、かれは死に支配されるおそれがない。」
1111 内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が止滅するのである。」
1113 物質的なかたちの想いを離れ、身体をすっかり捨て去り、内にも外にも『なにものも存在しない』と観ずる人の智を、わたくしはおたずねするのです。シャカ族の方よ。そのような人はさらにどのように導かれねばなりませんか?」
1119 (ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」
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 1070、1113で、はっきりと「何も存在しない」と言われています。従って、旅師まさ坊さんへの答えとしては、「個物・個体は存在しない」ということになります。
 ただし、外境を否定する独我論ではありません。独我論なら慈悲の教えはなかったでしょう。916にあるとおり、「我思う、故に我有り」は〈迷わせる不当な思惟〉として否定されています。我もまた存在しない。
 個体・個物は、常住ではなく変滅する(805)。生起し消滅する(867)。これが「存在しない」ということの意味です。つまり、個体・個物は、我々凡夫が普段思っているような仕方で存在しているのではない。我々が普段思っているような存在の仕方とは、「個体・個物が、慣れ親しんだ用途・価値・意味を本性的に備えて固定的・持続的に一貫して存在している」というあり方です。我々凡夫は、日々事物をそのようなものとして捉えているので、執着します。いつまでも「わがもの」として所有しようとする。あるいは「わが敵・有害物」として根絶しようとする。しかし、事物は実のところ常住ではなく、次々と新たに生起しては消滅する現象なので、執着する凡夫は悲しみ苦しむことになります。私の言葉でいうと、凡夫は現象を「いつも化」して存在として捉え、執着するので、苦しむ、という事です。

 上記の抜き書きには、名称と形態、感官による接触、識別作用といった耳慣れない言葉も頻出しています。こういった言葉は、変滅する事物(現象)を、快・不快を伴って識別し常住のものとして執着するに至るプロセスを分析するものです。実のところ、旅師まさ坊さんへの返事を考えあぐねて上の抜書きをしてみるまで、スッタニパータ第4,5章に、これほど明瞭に、凡夫のあり様、つまり現象を存在として実体視し、執着し、みずから苦を生んでいるあり様が示され、またそのプロセスが分析され、プロセスの停止が明記されているとは、思っていませんでした。経典最古層にして、凡夫の常識からなんと遠く、深く、シンプルで斬新な着想でありましょう。細部には後世の粉飾が混ざっている可能性はあるとしても、根本におけるこの深さは、釈尊ご自身の発見であるに違いなく、あらためて釈尊の偉大さを思い知らされたところです。

 では、現象を「いつも化」し執着するに至るプロセスは、どう分析されているのでしょうか。僅かな資料からこれ以上突き進むのは無謀かもしれませんが、上記の抜書きからさらに抽出し、文脈を無視して、機械的に連関の順に並び替えてみます。

  a 感覚的感受→識別作用(1111)
  b 識別作用→名称と形態(1037)
  c 名称と形態→常住・安楽の認知(909)
  d 名称と形態→煩悩(1100)
  e 名称と形態→感官による接触(872)
  f 感官による接触→快・不快(870)
  g 快・不快→欲望(867)
  h 欲求→所有欲(我執)(872)
  i 執着→悲しみ(805)

 有支縁起説的なものができあがりました。d については、g または h に至る途中を端折っていると考える事ができるので、これを省いた上で、普通の言葉にしてみます。

 『感覚に刺激を受けて識別作用が起動し、識別作用は「名称と形態」を起動する。「名称と形態」は、変滅する現象を常住・安楽(もしくは苦痛)であると見せ、感官による接触〈積極的に感覚を求める反応〉を催させる。感官による接触によって、快・不快を感じ、欲望(もしくは嫌悪)が起こる。欲望(欲求)は、(プラス又はマイナスの)執着を生み、それによって悲しみ(苦)が生まれる。』
 一応筋の通った解釈ができました。ただし、後世の完成された十二支縁起とはかなり順番が異なります。感官による接触を、感覚的感受とは全く別の〈積極的に感覚を求める反応〉としたのは、辻褄あわせの解釈で一般的ではありません。(しかし、実は自分ではなかなかおもしろい可能性の発見だと感じています。)また、識別作用を初期段階の機械的受動的反応とした点は、これまでの自分の主張に反します。chloeさんとの意見交換では、識別作用(識)をもっと高次の反応と捉え、十二支縁起における識の位置は早すぎる、と主張しました。今もまだ、私はこの立場です。「先に識ありき」はダメで、識もまたそのつどの縁によって起こされる反応である筈だと考えます。上記の、〈感覚の感受によって引き起こされる識〉ということであれば、私の釈尊理解の体系と整合させることができます。

 スッタニパータ第4、5章が最古層の経典として釈尊のお考えをそのまま反映していると捉えれば、上記の有支縁起(?)に重きを置かねばならないし、あるいは、最古層の経典とはいえ、釈尊以降の考えが混ざりこんでいる可能性を考えるなら、それぞれの支の内容や順序は不確実になります。情報不足の状況で、あまりに細かく詮議しても無益です。私としては、大まかにこのように理解しておきたいと思います。

 『生起・変滅する現象が縁となって、名称と形態(名色=クオリア)が起動され、そのつどの現象が、「いつもの変らぬ価値を持った実体的存在」として捉えられ、それに執着し、苦しむ。』
 中村元訳の〈名称と形態〉とは、「仏教」伝統用語の名色のことで、私はそれを私の言うクオリアと同義だと考えています。小論《名色(ナーマ・ルーパ)をクオリアの視点から考えてみる》に書いたとおりです。
 (私の言うクオリアは、一般的なクオリアからはかなり隔たっています。簡単に説明すると、私は、クオリアを「そのつどの一回的刺激(現象・縁)をカテゴリーで捉え、ふさわしい反応を引き起こさせる仕組み、条件反射を可能にする仕組み、と考えています。クオリアによって、そのつどの一回的な現象は、自分にとっての意味・価値が染み付いたカテゴリーを象徴する、無時間的・イデア的な「存在」として「いつも化」されます。我々は普段、一回的現象そのものを見るのではなく、現象によって起動されたクオリアをそれに被せて、クオリアを見て、クオリアに反応しています。)
 読み返してみると、よい刺激を頂いて、独りよがりに考えが暴走してしまったと、少し反省しています。軌道修正して頂いたメールに戻ります。

 見慣れたはずの手が、なんだかつかみどころのない不気味(あるいは新鮮)な物体に見えてくる、と書いておられます。それは、被せていた名色(クオリア)がかすれて、慣れ親しんだ意味・姿を失い、剥き出しの現象が現れてきた、という事だと思います。

 個物は、客観的に個物なのか、あるいは、連続する世界を勝手に恣意的に切り分けて捉えているだけではないか、との問題提起も頂きました。我々が現象を個物として対象化するのも、クオリア=名色による働きです。あらかじめ現象の側に輪郭線がある訳ではありません。上で触れた岸善生さんによれば、物理学の数式を解釈すると、宇宙空間の全体が様々に波立ちざわめいていて、我々が個物として捉えているのは、波紋が干渉しあって突出した波形の部分である、というように聞きました(曽我による如是我聞)。物理学でも、我々の捉える個物は、個物として存在するのではない、と考えるようです。

 しかし、連続した世界を、まったく何の妥当性もなく勝手に切り分けているのでもないと思います。現象が次々と生まれては消える連続した縁起の世界を切り分けるのは、名色=クオリアの働きです。クオリアはふさわしい反応を条件反射として起こす仕組みであり、対象となる縁・刺激を経験するたびに、反応が適切だったか検証され、クオリアのカテゴリーの輪郭線は精緻化されていきます。したがって、我々が個物として捉えるものは、我々の利害に照らして、個物として対象化する相応の妥当性がある、という事になります。それは、個人としての一貫性のみならず、共同体やホモサピエンスや脊椎動物などといった単位で共有された妥当性でもあり得ます。獲物や天敵を個物として対象化できなければ、我々の祖先たる動物たちは、生存競争を生きとおせなかったでしょう。

 成道後の釈尊においても、名色や識や受や触といった反応は、完全になくなったわけではなく、依然としてあった筈です。もし、そうした反応が完全停止すれば、生命を維持するための日常的行いも、弟子達との会話も、不可能になっていたに違いありません。言葉は、クオリアのカテゴリーを反映したものだからです。感覚の感受やクオリアの意味づけ・対象化は、成道後の釈尊においても持続していたと思います。ただ、それを自分の中の反応だと了解し、執着の暴走が起らなくなっていた。手を見ても、慣れ親しんだ手としてみることもできたし、価値付けを伴わない剥き出しの現象のままに眺めることも、両方できたであろうと思います。

 以上が頂いたご質問への私なりの返答です。

 せっかくのご縁ですので、もう一歩踏み込んで、ひとつだけ追加させてください。

 釈尊の教えにおいて、最も難しく、最も肝要な点は、外界の事物がそのつどの現象である事を納得するのと同様に、自分自身が、縁によって起こされるそのつどの現象である事を、腑に落ちて納得することだと思います。
 私たちは、「私」が大事で「私」にとって得なように損にならないように、いつもそういう自動的反応を繰り返しています(我執の反応)。私たちは、本当は、この色身における様々なそのつどの反応の不連続なつらなりなのです。だけれど、「私」という名色=クオリアによって、それら縁によって起こされるそのつどの反応は、「私」として「いつも化」される。確固たる重要な「私」が存在する、と思い込む。そして執着のままに自動的に反応し、奪おうとし、絶やそうとし、争う。苦をつくる。戦争はその最大のものです。
 無常=無我=縁起を自分のこととして納得せよ。そうすれば、執着の反応で自ら苦を作り続けてきた愚かさが痛感される。…釈尊の教えの核心は、こういうことだと思います。

 以上、久しぶりによい機会を頂いて、書きすぎたかもしれません。お許しください。

 またご意見お聞かせください。
                                  敬具
旅師まさ坊様
       2010年4月21日                   曽我逸郎
 

 

旅師まさ坊さんから  2010,4,21,

拝啓

大変お忙しい中、懇切丁寧にご指摘をくださり、誠にありがとうございました。
実は私今からじっくり読み始めるため(先ほどメールチェックしたため)、内容についての感想や発見についてはまた後日メールさせていただこうと思います。
それでもザザッと拝読させていただきまして、3つほど発見(自分にとって)があり、ホッと胸が落ち着くものがありました。

ひとつは、仏教では「個体というべきものは存在しない」と捉えている(少なくとも文献上にはそういった記載がある)ことです。
ものの見方に対するスタンスがはっきりしていて(推測やごまかしがない、明晰。私自身がある程度無条件に納得できる)、今後の私自身のものの見方についても大変な刺激になることだろうなと感じました。

もうひとつは、個体の「輪郭線」についての記述です。我々が個物として捉えているのは、波紋が干渉しあって突出した波形の部分である、といった部分は私自身にとってこれまで出会ったことのない表現でした。なるほど、個体をこのように捉えれば、個体を個体たらしめる「輪郭線」(他と切り離す境界)を絶対視せずにすむな、と感じました。

三つめは、これがやはり大切なことだと思いましたが、曽我さんの

最も難しく、最も肝要な点は、外界の事物がそのつどの現象である事を納得するのと同様に、自分自身が、縁によって起こされるそのつどの現象である事を、腑に落ちて納得することだと思います。
という一文でした。他の現象のこともさることながら、まずこの自分を見つめること。浮き足立って余所見をしないこと。最も奥深いものは自分自身の中にある、ということでしょうか。

最後に、私は仏教について関心を深めている者ですが、それは曽我さんの言葉や表現を通してやっと理解できるようになったことが多いから、ということがあります。私は大学時代西田哲学をかじりましたが、仏教なんてアウト・オブ・眼中でありました。ところが社会に出て数年、ふとしたことでこちらのサイトにたどり着き、「ふむふむ、なるほど・・・なんとな、仏教とはこんなに深いものの見方をしていたのか!」と驚かされている次第であります。「我思う、ゆえに我あり」から出発するのが根本、と考えていた私にとっては斬新すぎる発想、見方でした。

仏教という思想、発想にも感謝しますが、仏教と私をつなぐきっかけを提供してくれた曽我さん(とその表現)に大に感謝します。今後ともさまざまな方角から仏教を語り、また曽我さんご自身の発想も語ってください。

つらつら書きたいことは山ほど出てきます(本当に)が、また曽我さんの目を疲れさせない程度に書きつづらせていただきたいと思っております。

それでは今から熟読させていただきます。貴重なお時間を私の質問のために使っていただき、本当にありがとうございました。

旅師まさ坊
 

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