chloeさん 識は行為主体を前提とする? ハルさんに関連してクオリアのこと 2010,1,6,

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曽我逸郎様

 丁寧なお返事をいただき、ありがとうございました。また、お礼のメールが遅くなりましたことをお詫び申しあげます。いただいたお返事からいろいろと思うことはあるのですが、いずれも曽我さんから見れば「戯論」に属するだろうと思われ、それらを書き連ねて曽我さんを煩わせることを躊躇っているうちに時間が過ぎてしまいました。
 なんとか「戯論」すれすれのところで、感じたことを書いてみようと思います。

 まず、「識」が“「仏教」の流れの中では、【...】もう少し高度、後次なものとして考えられてきた”ことは、そういうものだと受け容れざるを得ません。そして、「識」が〈常に必ず〉行為主体(つまり「私」)を前提とすると言われたら、ゴータマが無我を説いたと考える人は、曽我さんならずとも、十二支縁起を「なかったこと」にしてしまいたくなるだろうと思います。
 ところで、十二支縁起を並べ換えた「曽我版十二支縁起」は、あるプロセスの積み重なりを記述するという意味では、私の十二支縁起の解釈とほぼ同じことを述べているように思われます。つまり、ほぼ同じ意味内容を「識」の定義が異なる辞書を用いて記述した結果、十二支の配列が異なっているにすぎないということです。「仏教」の流れの中にいない私には、これは記述の仕方の問題で、どの辞書を用いたかが明記されてさえいれば、どちらの記述でもかまわないと思われますが、「仏教」は片方の辞書の使用しか認めません。さらに、曽我さんが「仏教」の認める辞書を用いた「曽我版十二支縁起」を提示されるにあたって、それを“「仏教」の歴史に盾突くこと”と断わらねばならないように、「仏教」が十二支の配列を換えることも認めないとすれば、(少なくともこの論点に関するかぎり)そもそも“「仏教」の流れ”にそんなに義理立てする必要はないのではないか(つまり、「曽我版十二支縁起」と同様に“「仏教」の歴史に盾突く”試みとして、十二支の配列のほうを活かして異なる辞書を採用してもかまわないのではないか)、という素朴な疑問も浮かんできます。
 また、「仏教」における主流的な見解がお教えいただいたようなものだということは判りましたが、二千年以上にわたる仏典解釈の歴史の中で、十二支縁起における「識」は主体を前提としないという説が提起されたことは一度もなかったのでしょうか。『仏教要語の基礎知識』の「識」の説明で“認識作用が本来の意味であろうが”とわざわざ断わっているのは、過去に認識主体なき「識」をめぐる論争があったことの痕跡ではないか、という気もします(これは苦しまぎれのこじつけなので、普通に読めば、この「認識作用」も認識主体を前提としているということになると思いますが)。

 さて、ここで昨年12月22日付のハルさんのメールに触れたいと思います。私に理解できたかぎりでは、ハルさんは曽我さんのクオリアの捉え方について二つの間違いを指摘していらっしゃると思います。

1)主観的体験における「生の感じ」を意味する「クオリア」という言葉を、「クオリアを生成するシステム」や「クオリアをプロセスの要素として含む認識‐反応システム」の呼び名として用いている。

2)主観的体験を伴わない(いわゆる「意識」よりも下位の)「認識‐反応システム」にまでクオリアという言葉を用いている。

 デイヴィッド・チャーマーズをはじめとする「クオリア」という言葉を再定義した人たちの立場から見るかぎり、二つのご指摘はまったく正しいと思います。「クオリア」という言葉には、「心」や「意識」と身体(とりわけ脳)の関係を論じる際に当の「心」や意識」の意味が論者によってまちまちで、まともな議論ができないという状況に対処すべく導入された側面があり、その意味では、曽我さんの「クオリア」の用い方はせっかく整えた議論の土俵を破壊することになるからです。
 私も原則的には、「クオリア」という言葉は主観的体験における「感じ」という意味に限定して用いるべきだと思います(それでは曽我さんが「クオリア」と呼ぶ原始的な生命体から人間にまで見られるプロセスを何と呼ぶべきでしょうか――いい言葉が見つからないのですが、できるだけ「私」と結びつかない言葉が望ましく、私が普段この問題を考えるときには、とりあえず、「包摂」という言葉を用いています)。ただ、(1)は直接には言葉の用法上の混乱ですので正されたほうがよいと思いますが、(2)については支持したいと感じています。
 というのは、自称・受動意識論者である私は、「クオリア」が導入された背景にある考え――「私」が今まさにまざまざと生々しく主観的体験を「感じて」いることは否定できない――に疑問を感じていて、(2)のように敢えて「クオリア」を誤用することは、この前提を揺さぶることにつながり得ると思うからです。こういう言い方をすると直ちに「お前がそういう疑問を〈感じ〉そのように〈思って〉いることは否定できないだろう」という反問があって、以降、議論は果てしなくすれ違ってしまうわけですが、ここではそのことには立ち入らずに、以上のことから思いついたゴータマについての一つの「物語」について書きます。

 この物語は私のブログ記事と同様、宮元啓一氏の『ブッダが考えたこと』に書かれた、苦行に見切りをつけたゴータマが十二支縁起を順逆に観じることで成道に至り、その後修行仲間だった五比丘のもとに赴いて五蘊非我の教えを行なったという経緯を前提にしています。
 曽我さんはお返事の中で、“私の解釈では、五蘊は世界の分析ではなく、「私」の分析です”とお書きになりました。その点は私の物語でも同じです。もう少し詳しく言い直しますと、その中のどこにも「私」が見つからないことを五比丘に解らせるために用意された、通常「私」の働きだと考えられていることのモデルです。ゴータマの生きた時代にも、現代と同じように、「識」は一般に「私」という主体が行なう認識や判断を意味していました。そのことを反映して「色→受→想→行→識」の順に並べられた五蘊を提示して、ゴータマはその各段階に「私」が見つかるかどうか検討することを求めました。この作業は、「クオリア」という概念を導入した人たちが「意識」の働きと考えられるものがどこまで物理的プロセスに担わせることが可能かを検討したことに、とても似ていると思います。弁別、知覚、記憶、推論、判断といったものは物理的プロセスに担わせることができる、でも「まざまざと感じること」は物理的プロセスで説明できない、それを「クオリア」と呼ぼう、というわけです。一方、ゴータマは五蘊のどこにも「私」が見つからないことを示して、「私」という主体の虚構性を説きました。
 ゴータマの死後、弟子(複数かもしれませんが)がゴータマの成道を記述することになりました。弟子は、成道に至るゴータマの思索の内容を表現するために、十二支縁起を考案します。五蘊非我の教えをよく理解していたその弟子は、一般には「私」が行なうと考えられている「識」が本質的には名色を形成する包摂・弁別と変わらないことも理解していました。そして、それならば、敢えて包摂・弁別を「識」と表記したらどうだろう、無我を説いたゴータマの教えをよりよく伝えることにならないだろうか。
 さて、もちろんただの物語にすぎませんが、このお弟子さんのやったことは曽我さんが名色をクオリアと呼んだことに似ているとお思いになりませんか?

 

曽我から chloeさんへ 識の危険性 2010,1,9,

拝啓

 早速にお返事を頂きありがとうございます。

 クオリアについては、手に余るハード・プロブレムでもう暫く時間をいただきたいと存じます。識については、筆足らず?でしたので、少し補足させてください。

 識は行為主体を前提とする、とは考えておりません。「仏教」の伝統の中でも、そのような解釈はほとんどないと思います。

 行為主体とおっしゃるのは、アートマンにあたると思いますが、バラモン教のアートマンを否定したのが、釈尊の「無我」アナートマンです。無我は、釈尊でなければなしえなかった画期的な気づきであり、法印(仏教を他から区別する根本の特徴的教え)のひとつですから、「仏教」と自称するものの中には、よほどの異端でないかぎり、アートマンや行為主体を正面から主張するものはおりません。

 識は行為主体を前提とするものではありません。しかし、私が危惧するのは、識そのものがしだいにこっそりと行為主体の役割を担わされていくことです。

 無我の教えは、自然な思い込みに深く染まった凡夫にはほとんど理解不能です。そのため、「仏教」の歴史は、アートマン、行為主体を理論上は否定しながら、実質的にその代役を果たすものを誘い込んできました。先のメールで触れたサーティ比丘の識理解もその一例ですし、阿頼耶識とか自性清浄心とか如来蔵とか仏性とかがこれにあたります。これらを主張する人たちも無我の教えは知っていますから、横目で無我を気にしながら、あれこれ言い訳をしています。しかし、どう名づけようがなにかを自分の根っこに想定するという点で、無我の教えに反するものです。なおかつ、その「なにか」がほとんど例外なく「よきもの」として想定されているのは、梵我一如の焼き直しであり、すなわち反釈尊の思想だと思います。

 「仏教」の歴史は、一面では反釈尊の歴史でもあったのです。これが言いすぎであれば、釈尊の教えを正しく学び伝えようとする動きと、自然な思い込みを抜け出せず、執着に叶う形で釈尊の教えを改変しようとする動きとのダイナミックな絡み合いだった、といえましょう。そして、「仏教」の歴史においても、残念ながら執着のほうが正しさよりずっと強かったのです。

 chloeさんは、「言葉の定義の仕方次第で、曽我の言う十二支縁起の問題はなくなる」と考えておられるように思います。あるいは、「曽我が勝手な定義をして、問題を作りだしている」と言うべきか。

 確かに、私は、ことクオリアについては敢えて自覚的に普通でない定義をしていますし、名色については正しく理解できているか心もとないところがあります。しかし、識については伝統的な解釈からそう遠くはないように思います。

 識は、行為主体を前提とするから問題だ、と言っているつもりはありません。識は、行為主体を前提とするものではないけれど、他のさまざまな反応が縁起したことに縁起する反応である、と考えています。いくつもの反応が、ドミノ倒しのようにパタパタと続いた後で起こる反応です。高次・後次の反応です。

 であるにもかかわらず、それを根っこに近い早い段階に置くと、「縁が感覚器官を刺激する以前から、情動や執着の反応が起こる前から、識は存在する」ということになってしまいます。これは、識にアートマンの役割を担わせることに繋がりかねません。

 識をこのような早い位置に置いたということは、サーティ比丘と同じような発想、すなわち自然な思い込みの表れでしょう。「先に何かがあって、それが感じる、それが行為するのだ。主語が先にあるべきだ。」このような“能動”意識の囚われの発露だと思います。

 言葉は、きちんと定義して意味を限定して誤解の余地のない論理的用い方をしたつもりであっても、勝手に一人歩きするものです。例えば、空は、本来インドではzUnya「うつろな、空っぽの」という意味の形容詞であり、それを名詞化したzUnyatAも元の述語のニュアンスをしっかりと残していた筈です。しかし、漢訳されて「空」となると、元の述語的ルーツを失い、謎めいた抽象名詞になり、老荘思想とも結びつき、ほとんど梵と同じにイメージされ、「仏教」の梵我一如化に貢献しました。

 これは私にとっても非常に難しいことで失敗ばかりですが、こうした思いがけない展開の危険性もできる限り意識しながら、言葉を使っていかねば、と思っています。

 識は、行為主体の代わりになりやすい危険性を宿した言葉だと思います。

                               敬具
chloe様     2010年1月9日                    曽我逸郎
 

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