ハルさん (曽我の)クオリアのとらえ方に対する疑問 2009,12,22,

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曽我様

HPを見て初めてメールさせていただきます。メールの上ではハル、としておいてください。まず第一に私は仏教徒ではない事をお断りさせていただきます。

>「クオリアとは、免疫と同様に、なにかを経験することによって形成され、それ以後それと同類の縁に接するとふさわしい反応(条件反射)を自動的に起動するシステムである。」(曽我)
率直に申し上げて上記の理解は”クオリア”(とそれについての議論)を完全に誤っていらっしゃると思います。”クオリア”とは我々が主観する世界に写される”生の感じ”であって何らかの”システム”ではありません。仮に将来ある特性を備えた”システム”があれば”クオリア”が自動的に作られる(これが受動意識仮説と言えると思います)としたとしても、”システム”=”クオリア”ではありません。

もう少し私の専門に近い言い方をさせていただくと

Q:まだ「万物方程式」こそ出来ていないが大まかのところこの世のすべては物理方程式に従っていると思われる。所で、この方程式をどうこねくり回そうと”主観的体験”なるものが存在する必要はない。しかし自分以外の他人についてはともかく私自身そ主観的体験は否定できない。これは矛盾ではないか?(我はないということはできても今この瞬間の識は否定しようがない)

ということです。よく”クオリア”の議論で「哲学的ゾンビ」というものを仮定します。哲学的ゾンビは「ほかの物理的特性はすべて我々のコピーであるが”クオリア”を持たない」存在として定義されます。物理方程式だけを見れば当然できるはずだ、が本当にこれが存在できるか?存在したとして何が我々と違うのか?というものです。

曽我様の言うような”システム”をこの哲学的ゾンビに持たせることは不可能でしょうか?その定義ゾンビの脳は我々の完全コピーですから明らかに可能です。このゾンビは一見、バスの見分けどころか、われわれ同様恋をしている(と主張し)場合によっては苦しみから救ってくれと釈尊の教えにすがることすらするでしょう。(しかし彼はなんの識も持ちません)

受動意識仮説というのは科学者の目から見ればある意味、

A:”システム”さえあれば自動的に”クオリア”は生成される(仏教の方から見ればまさに縁起説!ということになるのでしょうか)と認めよう。所でこの“クオリア”なるものは一方的に生成されるだけで物理世界に一切干渉不能である。我々の物理方程式を書きかえる必要は一切ない。この”システム→クオリア”法則を付け加えることにより我々の”主観的体験”含めすべての観測事実は説明された、めでたしめでたし。

ということです。注意していただきたいのはこれにおいても”システム→クオリア”であって”システム=クオリア”ではありません。

”主観的体験”というところを無視して「パターン認識反応システム」がクオリアなのだと言ってしまうと、ゾンビどころかニンテンドーDSですら「あ」の”クオリア”をもっている、ということになります。また、曽我様が云われている例で言えば「気付かずコーヒーを飲んだ患者」というものがあります。意識(主観的体験)がなかったのなら、その定義からその間患者さんにパターン認識はあっても”クオリア”は無かったのです。

最初のお便りがまとまっていない長文で申し訳ありません

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