ムニムニさん 無我と輪廻、輪廻を乗り越える 2010,4,10,

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曽我様。はじめまして。



ムニムニと申します。「月を差す指はどれか?」を楽しく拝見させていただいています。難しくてわからない部分もありますが、とても感心して読ませていただいています。

公職でお忙しい曽我様に突然メールを差し上げてまして恐縮です。サイトを拝見させていただいていて、無我と輪廻の関係について自分なりに考えてきたことを聞いていただいて、ご意見を伺いたいと思い、失礼とは思いましたが、メールをさせていただいたところです。


私は、仏教について興味を持って以来、無我と輪廻の関係について、なんとか矛盾なく理解できないものかと悩んできました。曽我様もそうだと思います。この問題は仏教にとっての数百年来の課題で、古来、いろいろな人が様々な考えを提出してきたものと思います。唯識についても、ある意味、無我と輪廻を矛盾なく理解するために考え出されたという側面もあるのではないかと考えています。


サイトを拝見する限りでは、曽我様は、釈尊の教えは「無常=無我=縁起」で、それと矛盾する輪廻という考え方を否定するというお立場だと推察いたします。これは釈尊の考えを矛盾のない一貫したものとするには、とても明快で魅力的な考えで、私もそう考えたいと一時期思っていました。しかし、スッタニパータなどを読むと、どうも釈尊が輪廻の存在を前提にしていたような記述、輪廻を否定していたとは思えないような記述があちらこちらにでてきます。そこでずっと悩んできたのですが・・・。


不躾とは思いますが、無我と輪廻についての釈尊の考えはこのような考えではなかったかと、現時点で私が想像しているものを書いてみました。曽我様の考えとは少し違っていると思いますが、曽我様のお考えをお聞かせ願いたいと思い書いてみました。ぜひ批判していただけると参考になります。






よく言われることだと思いますが、釈迦は経験主義の立場に立ち、証明不能、経験不能な形而上的論議に対しては、無記として議論そのものを拒否したと言われています。

もし輪廻というものが存在するとして、その場合、輪廻する主体となるのはアートマンということになると思いますが、自己の本質たるアートマンが客観的な実体として存在し輪廻しているかどうかということは経験上把握することができません。常住たる自己の本質であるアートマンというものが存在するかどうかということ自体が経験的に把捉できるものではありません。

中村元博士が釈尊の主張は「無我ではなく非我」であったと述べていますが、私もこの説に賛成です。釈尊はアートマンがある(有我)ともアートマンがない(無我)とも主張していないというのです。釈尊が主張しているのは、アートマンが存在しないという「無我」ではなく、この世に存在する(この世で把捉できる)すべての事物はアートマンではない(諸法非我)ということなのではないかと思います。釈尊が形而上的論議を拒否したということを前提とすると、無我ではなく非我を主張したのだという考えは筋が通っているように見えます。


一方で、釈迦が認識主体としての自己の存在を積極的に認めていると考えられる記載も古い聖典にはよく出てきます。自己を拠り所にせよという自灯明の教えなどはその典型的な例だと思います。真理(ダンマ)を認識してニルヴァーナに至ることのできるのは自己のみであり、世界を認識して行動しているのがまさに自分自身であることは、とりあえず経験上明らかだと考えることができるのではないかと思います。


何を言いたいかというと、釈迦は、客観的実体としてのアートマン(これが存在するかどうかは形而上的なことがらであり議論できない)と、認識主体である自己とを区別して理解しているのではないかということです。


ところで、釈迦は解脱によって死と老衰を乗り越え、「不死」、「不老」の境地を得ると述べていますが、これは、もちろん身体や精神が現実に死滅しなくなると言っているのではありません。欲望や生存本能を滅ぼすことによって、死滅する動き、常に変滅する動きの外側に抜け出して、自分自身を含めて常に変滅し続けている世界や生死の流れを外から覚知できる境地になったものと考えられると思われます。

これについては、中村元博士の次の言葉が理解の手がかりになると思います。

「この場合『不老』というのは、身体や霊魂が死滅しないという意味ではなく、死滅する動きの外側にあるという意味であろう。」(中村元『原始仏教の思想T』)

視点(認識主体としての自己)を、生成し変滅していく当事者から、その外側へ移し、自分自身をも含めて世界を常に移り変わっていく事象として俯瞰できる位置に移すことによって、その自己はもはや移り変わることのない不動の安らぎを得るというのです。この境地に達した時点では、認識主体としての自己は、生成変滅する世界の外側の別次元の位置から世界を眺めていることになります。

だからこそ釈迦は語っています。スッタニパータの中で、「滅びてしまった(解脱した)その人は存在しないのでしょうか? あるいはまた常住であってそこなわれないのでしょうか?」と尋ねるウパシーヴァに対して、釈迦はこのように教えています。

「滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。彼をああだ、こうだと論ずるよすがが、彼には存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

常に生成、変滅を繰り返すこの世界に中に自己というものが存在しないことを確認することによって、世界の中の自己は滅び、それに対する自覚のみが動揺する世界を超越したところで、安らぎを得ている状態と言っていいのではないかと思います。ひとたび、生成変滅を繰り返す世界に自己が存在しないことが確認されれば、世界がどのように変化し動揺したとしても、その世界に再び自己が生じることはないのです。


少し話が脱線しました。輪廻というものがあるとした場合に、輪廻の主体となるのは自己の本質たるアートマンに他ならないと述べましたが、輪廻が実体として成立するためには、アートマンが客観的実体として存在しなければならないことになります。逆に言えば、アートマンが実体として存在し輪廻しているとすれば、輪廻もまた実体として存在しているということになります。

釈迦は、くり返し「もはや再び母の胎内に戻ることはない。」と、解脱すること(真実を知ること)によって輪廻から離脱できると述べています。輪廻が実体として存在しているのであれば、解脱することによってなぜ輪廻から離脱できるのでしょうか? 真理を知り、世界をどのように認識しようが、実体としてのアートマンは輪廻し続けることとなってしまうのではないのでしょうか?


はじめに、釈迦は形而上的な論議を拒否したと申し上げました。そうであれば、釈迦が解脱によって脱することができると説く輪廻も、形而上的な見解によって(伝統的な古代思想によって)実体として存在するとされるところの輪廻ではないものと思われます。

この論の最初に戻りますが、そもそも客観的実体としてのアートマンは把捉できないものであり、したがって、アートマンが連綿として異なる肉体に宿るとする伝統的な古代思想による輪廻が存在するかどうかもまた、知りえることのできないものです。


釈迦は、古来の言い伝えではなく、「いま、眼のあたりに体得された法」を語ろうとしています。真理を知ることによって脱することのできる輪廻とは、伝統的な古代思想による実体としての輪廻ではなく、常に生成し変滅していく世界そのもの、様々な因果関係の中で次々と変化していく世界そのものをさしているのではないでしょうか。

常に生成変滅していく世界の中で人間の肉体や精神も常に変化し、消滅し、また誕生していきます。現代の考えで言えば、肉体を構成する元素は次の瞬間には大気の一部となり、また他の生物の構成要素となり、さらに自然界を循環して再び人間の構成要素となるかもしれません。釈迦はこの常に変滅を繰り返す世界を総体として捉えて輪廻(輪廻的世界、輪廻的生存)と言っているのではないかという気がします。


自分自身を含めこの世界のすべての事象は常に変滅するものであり、そのことを知り、乗り越えることによって欲望を捨て去り、不動の安らぎを得ようというのが釈迦の考えなのだろうと思います。釈迦が乗り越えようとした輪廻とは、我々自身が当事者として関わっているところの、常に生成変滅を繰り返している世界そのもののことではなかったのかと思います。

つまり、釈迦は実体としての輪廻のあるなしを問題にしているのではなく(実体としての輪廻の存在自体が証明不能、経験不能な事象で、そのことを問題にすること自体が無意味です。実体としての輪廻があると言ってみても、ないと言ってみてもそれはいわゆる「見解」に過ぎないものとなってしまいます。)、自分自身を含めて常に生成変滅する世界を輪廻(輪廻的世界、輪廻的生存)と捉え、すべての事象が生成変滅するものだという真理を体得することによって、それらを超越した不滅の境地の獲得を目指したものではないのかという気がいたします。


話がゴチャゴチャしましたので、整理して述べてみたいと思います。

釈迦は、実体としてのアートマンが存在するかどうか、実体としての輪廻が存在するかどうかという認識不可能な命題は問題としていませんでした。自分自身を含め常に生成変滅する世界を輪廻(輪廻的世界、輪廻的生存)と捉えて、欲望や生存本能を滅ぼし、視点(認識主体としての自己)を輪廻的生存の外側に出して、生成変滅する世界を俯瞰しそれらを超越した不動の視点を獲得することにより、輪廻を超越した揺らぐことのない安らぎを獲得しようとしたのではないかと考えるのです。




以上が私の考える釈尊(意見中ではあえて釈迦と表記しました)の考え方です。説明が上手でないので、うまく思っていることが伝わったか不安ではありますが・・・。 ご批判のご意見をいただければ幸いです。

 

曽我から ムニムニさんへ 2010,7,4,

拝啓

 遅い返事になってしまい、申し訳ありません。

 「形而上学的議論の否定が釈尊の根本姿勢である」といった主張を時折目にしますが、実は私はそうは思っていません。
 釈尊のお考えは、苦は執着によって我々自身が生み出していること、自分自身をはじめ、我々が執着しているものは、無常=無我=縁起であって、いくら執着しても甲斐のない現象であること、自分自身をはじめ、すべてが無常=無我=縁起であることを納得して、執着を鎮め、苦の生産を止めること、です。
 このことに傾注すべきであって、形而上学的議論に耽る暇はないぞ、というのが釈尊の教えでありました。釈尊が、形而上学的議論の否定を出発点とし、そこから考えを組み立てられた、とは思いません。

 アナートマンについては、やはり非我ではなく無我だと考えます。客観的実体としてのアートマンは勿論、認識主体である自己も「存在」しません。ムニムニさんも私も、そのつどそのつどの縁によって、そのつどそのつど起こされる不連続な反応です。認識主体としても、持続的な存在はありません。

 輪廻(サンサーラ)を「常に生成し変滅していく世界そのもの」と捉えておられるのは、ご慧眼だと思います。saMsAraを辞書で調べると、確かにそのような意味もあります。
 ただ、「死滅する動き、常に変滅する動きの外側に抜け出して、自分自身を含めて常に変滅し続けている世界や生死の流れを外から覚知できる」とおっしゃっているのは、よく分かりません。<認識主体である自己が変化する世界の外に出る>と考えておられると読みましたが、具体的にはどういうことでしょうか。また「すべての事象が生成変滅するものだという真理を体得」することで、不滅の境地になるのでしょうか?

 いろいろ想像してみると、表現が違うだけで、考えておられることは、実は私と近いのかもしれません。
 私の言葉で言えば、「我々が執着する対象は、なにより自分自身をはじめとして、無常=無我=縁起、そのつどそのつどの縁によって、そのつどそのつど起こされては消える不連続な反応であって、いくら執着してもつかむことはできない。執着することのむなしさ、愚かさを痛感、納得できれば、執着の反応は止み、苦を作らず、平穏・軽安に過ごすことができる」ということになります。
 いかがでしょうか。結構似たことを考えているのではないでしょうか。

 またご意見頂ければ幸甚です。
                                敬具
ムニムニ様
      2010年7月4日                     曽我逸郎
 

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