ムニムニさん 認識主体たる自己 世界全体を俯瞰する 2010,7,18,

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   (以下のやりとりは、前の意見交換の続きです。)

曽我様

 ムニムニでございます。
 お返事をいただき、ありがとうございます。
 首長としてお忙しい中、まして、あわただしい参議院選挙のさなかにお返事をいただけたこと、ありがたく思っております。
 曽我様から一点ご質問をいただきました。このことについて、考えてみたことを若干お話してみたいと思います。

 曽我様からいただいたお返事の中で、曽我様とムニムニの考えは表現が違うだけで、考えていること自体は実は近いのではないかとのご指摘をいただきました。これに関してはまったく同感です。
 「自分自身をはじめとしてすべての事象が、そのつどそのつどの縁起によって生じる『現象』に過ぎないものであって、本質を持っていないものであるから、『本来あるべき姿』なるものを想定してそれに執着するのはむなしいことである。すべてはあるがままの現象であって、野に咲く花のように自然体で生き、そして散っていくことをありのままに受け入れることができれば、何の不安もなく、幸福に生きることができる。」という基本的かつ最も重要な考え方(釈迦が考えたであろう解脱の基本的アイデア)については、(おそらく)曽我様とまったく同じであろうと思います。

 それでは、曽我様とムニムニの異なる部分はどこかということですが、私は「認識主体たる自己」の存在についての考え方について、若干、見解を異にしているのではないかと思ってます。

 曽我様からご質問をいただいた「死滅する動き、常に変滅する動きの外側に抜け出して、自分自身を含めて常に変滅し続けていく世界や生死の流れを外から覚知できる」とは何か? 「すべての事象が生成変滅するものだという真理を体得することで不滅の境地になれるのか」? ということを考えることは、この認識主体たる自己をどう考えるかと言うことに関わってくるご質問です。そして、認識主体たる自己を認めるかどうかが、無我論と非我論の違いとなってきます。

「認識主体たる自己」を認めるかどうかについては、いくつかの考え方があると思います。
@ まず、認識主体そのものが一切存在しないという完全な無我論(タイプT)。
A 次に、認識主体の存在は一応認めるが、それは、そのつどそのつど不連続に生じては消えるあぶくのようなもので、事象への反応も、ほぼ機械的・自動的な反応に過ぎないもので、自ら主体的な意思を持たないとするもの(タイプU)。
B 現に存在している自己(五蘊)は真の自己(アートマン)ではないが、認識主体は存在するとするもの(いわゆる非我論。ただし「認識主体=アートマン」ではない。タイプV)。

 まず、タイプTは認識主体そのものが一切存在しないとするものですが、これを想定するのはなかなか難しいと思われます。認識主体が存在しないとすると、人生を苦と認識することもできず、すべてがありのままと言うのはいいのですが、現実にこの世の中を苦と考えている自分がいる以上、あまり説得力のある考え方ではないと思われます。
 タイプUについては、認識というものは存在しているが、その認識は永続的・本質的なものではなく、そのつどごとに生まれては消えていくものであるとするものです。唯識の考え方などは比較的これに近いのではないかと思っています。曽我様の考え方もおそらくこれに近いのではないかと思います。
 タイプVは認識主体の存在を積極的に認めようとするものです。

 いずれの考え方が良い考え方なのかははっきりとはわかりません。ただ、釈迦がどのように考えていたかということを想像することはできます。ここから先は憶測になってしまいますが、釈迦は弟子に対して、よく気をつけ怠ることなく行え(スッタニパータ)とか、怠ることなく修行せよ(大パリニッバーナ経)とか、自らを島として自らをよりどころにせよ(大パリニッバーナ経)とか言っています。つまり「自分自身しっかりせいよ」と言っているのですが、このことから考えると、釈迦は、解脱すべき主体としての、あるいは修行の主体としての自己が存在することを、当然に認めていたのではないかと想像されます。私は釈迦の考え方は、真理を知るべき主体としての自己(認識主体としての自己)が存在するとするタイプVの考え方に近かったのではないかと思っています。

 ややこしい話になりますが、認識主体としての自己が存在するとして、その認識主体としての自己はどうすれば、「世界はすべて縁によって生成、変滅を繰り返す『現象』に過ぎず、本質などないのだ」と認識できるようになるのでしょうか。
 認識主体としての自己が現象世界の中に埋没してしまっている場合、世界全体を現象として認識することは困難です。認識主体としての自己が、意識のうえで現象世界から超然として離れ、世界全体を俯瞰し、観察する立場になれば、世界が常時動揺、変滅していることが常態であるということが見て取れるようになります。逆に言えば、世界を観察し全体像をつかめるようになれば(真理を知れば)、世界は常に動揺、変滅していてそれが当然のことであり、その世界の中にいる自分自身も当然に動揺、変滅し、それがあたりまえのことであると認識できるようになり、自分自身やそれを取り巻く環境がどのように動揺し、変滅しようと恐れる必要がないということが理解できるようになります。これが「死滅する動き、常に変滅する動きの外側に抜け出して、自分自身を含めて常に変滅し続けていく世界や生死の流れを外から覚知できる」ということであり、「すべての事象が生成変滅するものだという真理を体得することで不滅の境地になれる」ということの意味です。

 意見が長くなって申し訳ありません。長くなりついでに、最後に少し論点が外れてしまうかもしれませんが、アートマンというものを考えるに当たって自然人と法人の比較で思いついたことを、ちょっとお話したいと思います。曽我様もかつて同じ趣旨のことをおっしゃっておられたように思いますが、「なぁんだ。自分自身って実は単なる現象だったんだ。」ということについて、法人を比喩の対象として考えてみました。

 ここである会社(キャノンでもソニーでもパナソニックでも何でもいいのですが)があって、その会社の本質(アートマン?)って何だろうと考えてみると面白いです。
 会社の本質っていろいろな考え方ができるとは思いますが、まず、ひとつの考え方として、これらの会社は株式会社ですから、会社の本質は株式だという考え方があると思います。今は紙の株券が廃止されて電子化されましたから、たとえばキャノンの本質はコンピューター上の株式データであるという考え方です。
 他の考え方もあります。会社の本質は役員を含めてそこに勤務している従業員の集団であるという考え方もあると思います。
 そのほか、会社の本質は取締役会であるとか、本社ビルこそ会社の本体であるとか、商品や原材料、固定資産などに様々に変化する会社の資本こそが本質であるとか、いろいろに考えることができると思います。

 しかし、会社が物を作って、営業活動をして、利益を分配して、消費者の苦情に対応してといった、社会でのもろもろの活動内容を冷静になって考えてみると、株式データが会社の本質というのは当たらないと思いますし、従業員も毎年入れ替わっていて、30年後には会社のほとんどの従業員が交代してしまっていることから、従業員が会社の本質というのも妙な感じがします。取締役会というのも商法上の意思決定機関という意味では本質かもしれませんが、会社が社会的に営業活動をしていく場合に、ほとんどの場合、会社の意思決定は取締役会ではなく、担当者や、課長や、部長や、社長がそのレベルレベルで相談しながら行っていて、取締役会はそれを正式に確認する場というのが普通でしょうから、取締役会が本質というのもそぐわない気がします。本社家屋や、商品、原材料が会社の本質だというのも妙です。

 結局、会社というのは、社会の中のあるシステムで、それは役員や従業員の相互の関わり、株主や顧客との関わり、資金と生産設備や商品などとの関わり等等等の全体のかかわり合いの中ではじめて存在しているもので、どこをとってもその本質などというものはないのではないかと思えてきます(法人とは法的に擬制された人格だからある意味で当然のことですが。)。本質はないといっても、会社は、社会の中でそのつど自律的に何らかの意思決定をし、生産活動や営業活動を現実に行っているのです。

 ひるがえって、自然人を考えてみると、ある意味でとても法人と似ています。身体の中の細胞や物質は日々新陳代謝しており、何ヶ月かするとほとんどの身体の細胞は入れ替わってしまうそうです。会社を構成する役員や従業員が交代して何年か後には、すっかり入れ替わってしまうのに似ています。
 人間の意識が発生するメカニズムは判ってはいませんが、おそらくは脳の神経細胞を流れる電気信号と神経細胞間の情報伝達物質で構成される神経回路によって意識が形成されているのではないかと思われます。人間の認識主体ってどこにあるのかと聞かれれば、どこか特定の場所にあるのではなく、これらの神経回路の作用の中で、認識や意思が生まれているとしか答えられません。会社では、役員や部長や担当者がいろいろ意見を出し合って、最終的に会社としての行動が生まれていて、会社の認識主体はどこにあるのかといわれても、会社の仕組みの中で認識や意思が生まれているとしか言いようがありません。

 何が言いたいのかというと、会社でも、人間でも、「自律的な認識主体」というのは、なにも本質的なものを想定しなくとも、関係性の中で成立しうるのではないかと言うことです。

 私は、従来の無我論が、自己というものを「関係性の束」(縁起の中での現象)であると理解するうえで、自律的な意識というものがその範疇で捉えづらかったために、本質と言うものが存在しないと言うのと同時に、自律的な意識(認識主体)もまた存在しないと、やや短絡的に型に当てはめた考え方をとろうとする傾向があったのではないかと思っています。直観的には理解しづらいですが、改めて考えてみると、自律的な意識(認識主体)というものは、何も本質的なものを仮定せずとも「関係性の束」の中で成立すると考えてもおかしくはないので、自分自身を「現象」とかんがえることと、認識主体の存在を想定することは必ずしも矛盾しないのではないかと思っています。

 長々と訳のわからないことを書きなぐってしまいました。お返事を気長にお待ちしております。

   敬具

 

曽我から ムニムニさんへ あるがままvsクオリア 執着の発生 私とは反応 2010,7,22,

前略

 考えるところがお互い近いことが確認できましたので、細部の違いを腑分けしてみたいと思います。賛同点ばかり頷きあっていても発見・深化は少ないと思いますので…。

 まず、「あるがままの現象をありのままに受けいれる」ことが可能かどうか…。
 私は、できない、と思います、厳密な意味で、ですが…。
 ヒトは現象をありのままに見ることはけしてない。現象そのものは見ない。現象に被せられたクオリア(名色)を見る。
 例えば、ヘビ(らしきもの)が視界に入ると、「ヘビクオリア」が起動し、ぬらっとしたウロコのテクスチャが脳裏に浮かび、ヘビに対するふさわしい反応(ぎょっとして飛び退く)が起こる。我々は、現象を縁として起動されたクオリア(名色)への反応です。私の言うクオリアとは、そのつど一回的な現象をカテゴリーで捉えふさわしい反応を起動する仕組み、すなわち条件反射を可能にする仕組みです。我々は、現象をそのままに見ることはなく、過去の経験によって自らの内に準備された様々なクオリアのどれかがそのつどの縁に刺激されることによって起動される反応なのです。
 クオリアは一回的な現象をカテゴリーで捉えるので、そのつどの現象が、自分にとってのいつもの価値を備えたいつもの「存在」として「いつも化」されて対象化される。こうして、そのつど起っては消える現象を実体視して執着することが起こる。執着という実を結び得ないむなしい努力が繰り返される。
 執着は、動物進化の過程で、遅くとも魚類から始まった条件反射を、積み上げ磨き上げてきた結果の反応なのです。ただし、釈尊の説く執着の反応をなくすことは、魚類以前に戻ることではありません。成道後の釈尊も、言葉で教えを説かれました。言語はカテゴリー化がなければ成り立ちません。カテゴリー化やいつも化、対象化は残しながら、執着の反応はなくしていく。釈尊の教えは、ヒトが進化の末に獲得した仕組みにもう一段改善を加えることであり、たやすい事ではありません。

 クオリアは、経験のたびに常に改変され精緻化されています。ですから、レオナルド・ダ・ヴィンチがデッサンに励んだように、観(察)に努めることによって、粗雑なクオリア(名色)を次第に精緻なクオリアにしていくことができます。譬えるなら、16分割一分一コマのモザイク動画を100分割一秒一コマ…百万分割一秒1000コマ…のモザイク動画にしていくように解像度を上げていく。その結果、厳密には「ありのままそのまま」には到達できないけれど、自分が存在ではなくそのつどの反応であるらしいことが見えてくる。ひとつひとつの反応を観察する事で、苦を生む単純粗雑な反応から、もう少し注意深い丁寧な反応へと変っていくことができます。このために釈尊が組んで下さったカリキュラムが、慈悲や戒定慧の三学、八正道です。

 ムニムニさんが、「あるがままの現象をありのままに受けいれる」と表現されるところを、私のこだわりでもう少し厳密に言い換えれば、こういうことになります。
 「どうやら、私が執着しているところのものは、期待する価値をいつも変らず保持しているような常住の『存在』ではなく、その時その時に縁によって起っている現象であるらしい。『存在』であれば執着することで実を得ることもあるかもしれないが、『現象』ならいくら執着しても、手元に保持しておく事などできはしない。何より自分自身に執着し、自分を『大切に守り育てるべき価値ある確固たる存在』だと思い込んできたが、どうやら私は、そのつどそのつどの縁によってそのつど起こされるそのつど異なった反応であるようだ。そんなものにどれだけ執着しても、甲斐はない。私はなんと愚かな努力を重ねてきたのか。」
 「ありのままそのままに見る」ことはできないが、自分が存在ではなく、現象・反応であることは納得できる。そして執着の不毛さ無益さが実感できる。それで十分だと思います。

 次に 「認識主体たる自己」についてですが、私は、認識主体は存在しない、と思います。認識という反応が、そのつどの反応として縁によってときおり起こるだけです。
 「人生を苦と認識する」ことは、生まれてから死ぬまで一貫した不変のあり方ではなく、或る時に時々起こる現象です。普段は、「あー腹減った」とか「アチーなぁ」とか「コンビニ寄って振込みしなきゃ」とか、「沖縄にばかり皺寄せ押し付けていいのか、抑止力という考えがそもそも間違いだ」とか、さまざまな「自己」がそのつど発生しています。それらばらばらな「自己」を「自己」として「いつも化」し実体化して捉えるのもクオリアの働きです。その結果、「確固たる自己」が妄想され、我執が生まれる。

 >認識主体が存在しないとすると、人生を苦と認識することもできず・・・
 主語となるものがあらかじめあって、それが何かをする、どうにかなる、という見方は、進化の過程で勝ち得た実体視の習慣に基づくもので、ヒトの場合、言語の構造によって、その見方は一層強固になっています。「火が燃える」「風が吹く」と言いますが、火が予めあって、それが燃えるわけではない。風が先にあって、それが吹き始めるわけではない。「燃える」という現象、「吹く」という現象が起って、それを火と捉える、風と捉える。つまり、本当は、述語があって、それによって主語を妄想しているのです。述語は、縁となる現象の反映であり、主語は、縁によって起動されたクオリアのカテゴリーです。我々の色身という場所で時々は「苦の認識」も起りますが、怒ったり、はしゃいだり、悲しんだり、考えたり、謝ったり、威張ったり、そのつどばらばらのいろいろな反応が起っています。それらを「私クオリア」が一本化し、実体視させるのです。以上に述べた考えにより、認識主体にせよ、存在すると考えるのは妄想だと思います。

 釈尊が修行・努力を説かれたことにも言及しておられます。かつてA・Hさんという方から「無常=無我=縁起であれば、主体性は生まれ得ない。いかにして努力が可能になるのか」という問題提起を頂き、随分悪戦苦闘しました。長くて恐縮ですが、詳しくはA・Hさんとの意見交換をご覧下さい。簡単に端折ると、生命は、ホメオスタシスを維持しよう、生き抜こうという根本的な傾向を持っています。このもがき足掻き反応が、しだいに巧妙になっていくのが進化です。条件反射によって、動物は個体毎に経験から反応を適切化できるようになりました。さらに、「自分クオリア」によって、そのつどの反応である自分を、存在として対象化し、エピソード記憶の能力と合わせて、シミュレーションが可能になり、それに基づいて自分という反応の反応パターンを修正していくこと(努力)が可能になりました。努力もまた、縁によって起こされるそのつどの無我なる反応であることに変わりはありません。この辺のことは、クオリアやダマシオ、ベンジャミン・リベットに関する小論をご覧下さい。
 ということで、釈尊が努力を説かれ、「自己を拠り所に」と教えられたことと、無常=無我=縁起は矛盾しないと考えています。釈尊の教えが良い縁となって、我々に努力しよう、精進しようという反応が起こるのです。

 それから、世界全体を俯瞰し、観察することはできるのか。
 これも私は、人間にはできない、と思います。凡夫のみならず、仏にも不可能です。釈尊も、世界の空間的・時間的な果てについては「無記」の態度でした。すぐに正確に引用できないのが申し訳ないのですが、経典にしばしば登場する定型文に、「前にも後ろにも右にも左にも上にも下にも真ん中にもない」といったものがあります。これは、自分自身(真ん中)と自分の周囲とを観察し、確認せよ、という教えであって、世界全体を超越的な視点から俯瞰せよ、という教えではないと考えます。我々は、譬えるなら、ガンジス川のミジンコのようなもので、果てしない大河の濁った水の中を、せいぜい数十センチの視界で数百メートル流れ下って一生を終わるのです。ミジンコがガンジスの流れの全体を見通すことはできません。
 世界というような外ではなく、自分自身を、自分という反応がそのつど縁を受けてはとりとめなく脈絡なくそのつどさまざまに現象している様を見極めることが、釈尊の教えてくださった方法だと思います。

 会社の比喩はとても秀逸だと感心しました。ただ、「自律的な認識主体」の存在ではなく、逆にそんなものがなくても、関係性の中から、認識他のさまざまな反応が創発してくるということの良い説明になると思います。

 相違点ばかりあげつらって恐縮です。ご検討頂ければ幸いです。

                                   草々
ムニムニ様
     2010年7月22日                  曽我逸郎
 

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