ムニムニさん 続きのやりとり:「ありのまま」 認識主体は存在するか 世界全体の俯瞰 2010,8,5,

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曽我様

 ムニムニです。詳細なお返事をいただき、楽しく読ませていただきました。真剣に考えていただき感激しています。もう少し早くお返事を書きたかったのですが、生来の筆不精で、一日に数行書くのが精一杯と言うていたらくで失礼いたしました。

 曽我様のお返事を読ませていただいて、感じたことをいくつかお話させていただければと思います。中には水掛け論になってしまう部分もあるかもしれません。ご容赦ください。

1 あるがままの現象をあるがままに受け入れることが可能か?
 これは、私の説明が不十分であったかもしれません。「あるがままの現象をあるがままに受け入れる」とはどういうことか? ということについて少し考えてみたいと思います。
 曽我様は「私が執着しているところのものは、期待する価値をいつも変らず保持しているような常住の『存在』ではなく、その時その時に縁によって起こっている現象であるらしい。『存在』であれば執着することで実を得ることもあるかもしれないが、『現象』ならいくら執着しても、手元に保持しておくことなどできはしない。何より自分自身に執着し、自分を『大切に守り育てるべき価値ある確固たる存在』だと思い込んできたが、どうやら私は、そのつどそのつどの縁によってそのつど起こされるそのつど異なった反応であるようだ。そんなものにどれだけ執着しても、甲斐はない。」と述べていらっしゃいます。
 前回の手紙の中で、私自身、「現象」というものを抽象的な名詞的な使い方をして話してしまいましたが、もう少し詳しく言うと、私は、釈迦の世界の捉え方は、「存在」や「現象」といった概念的な、名詞的な、静的なものではなく、もっと動的なものだったのではなかったかと考えています。釈迦は「因果を説き給う」と言われます。因果関係という言葉を使うと、何か原因と結果のメカニズムについて解明して、それを説いてくれているような印象を受けてしまいますが(これまで多くの人が十二因縁の解釈に努力してきた内容も、その12個のことがらがどのように次々と引き起こされるのかといったメカニズムを説明しようとしてきたように思われます)、私は釈迦の着眼点は少し違っていたのではないかと思っています。
 これから申し上げることは文献史学的な根拠がある訳ではないので、半分以上私の想像になってしまいますがご参考にお聞きいただければと思います。釈迦はブッダガヤで成道したときに、十二因縁を観じ、詩を唱えています。「努力して瞑想するバラモンにもしもろもろの事柄が明らかに現れれば彼のすべての疑いは消滅する」と、そして釈迦は自らを「すべてを知る者」(一切智者)となったと言っています。釈迦はブッダガヤでいったい何を知ったのでしょうか? 私の想像はこうです。釈迦はすべての事柄は、今まさに動きつつあるもの、進行しつつあるもの、動的なもの、運動そのもので構成されているのだと気がついたのではないでしょうか。曽我様の用語を借りれば、世界は膨大な数の「動詞」の束で構成されていて、概念や状態をあらわす「名詞」的なものは人間の意識上だけで作られた仮託されたものであると気づいたのではないかと思います。釈迦が自分は「すべてを知る者」であるといったとき、そのすべてという意味は、世界の原因と結果のメカニズムのすべてを解明し尽くしたのでも、世界のすべての知識を手に入れたものでもないと思います。そのようなものを知り尽くすことは釈迦であろうと不可能です。釈迦は世界の一切は運動体(あるいは「動詞」。うまい言い方ができないのですが)の集まりであり、名詞的な概念的なものは実質として存在しないのだということに気付き、それを「すべてを知る者」と称したのではないかと思います。
 世界を動詞の束と見た場合に、世界はどのように見えるでしょうか? 前回の手紙の中で会社の譬をだしましたが、例えば、動詞の束として会社を見たときに、会社とはさまざまな運動、行為の束、つまり顧客の甲さんと従業員の乙さんが契約の話し合いをしていたり、社長の丙さんと専務の丁さんが今年の経営計画を練っていたり、株主の戊さんが株主総会で発言していたりといったもろもろの行為の集まりだと捉えることになります。こうして見たときに、会社と言うものの輪郭、どこまでが会社かということは判然としないものとなります。顧客の甲さん、株主の戊さんは会社の内側のようでもあり、外側のようでもあります。いくつかの関連性の強い行為の束を抜き出すことによって、それを会社と呼んでいるということとなります。以前、旅師まさ坊さんのメールに、仏教的に見ると個物の輪郭が崩れて存在が不確かなものに見えてくるというお話がありましたが、まさに会社という概念は仮託されたもので、実体としては存在しないし、その輪郭もはっきりしないもので、じっさいに実体としてあるのは、個々の動作・運動の束だけということになります。覚者となった釈迦の目には、個々の事物の概念的な「存在」というものは人間の意識が仮託しただけのもので、その実質は行為、運動の集合体であるという実体が見えていたのだと思います。
 このように釈迦は個々の事物の概念(名詞)の向こう側の動詞の束を見ていたのだと思いますが、「あるがままの現象をあるがままに受け入れる」とは、まさにこの、「仮託された概念を見るのではなく、その実体である動詞の束を見る」ということに他ならないものです。したがって、曽我様に問題提起していただいた最初の命題である「あるがままの現象をあるがままに受け入れることが可能か?」という問題については、可能であると考えたいと思います。少なくとも釈迦はそのような見方をしていたものと思います。

2 関連してクオリア、意識、情報処理システムのことなど
 曽我様は「人は現象をありのままに見ることは決してない。現象そのものは見ない。現象にかぶせられたクオリア(名色)を見る。」と論じていらっしゃいます。このうち、「人は現象をありのままに見ることは決してない。」という部分に関しては、「あるがままの現象をあるがままに受け入れることが可能か?」ということで前の節で議論しましたので、ここでは、関連してクオリアや意識のことについて少し議論してみたいと思います。
 曽我様はクオリアについて、一般的な感覚質というよりも、むしろ「事物をカテゴライズ化したものの共通感覚」という側面を強調されているように思われますので(間違っていたらごめんなさい)、ここでは、そのような前提で私の考えを少し述べてみます。
 人は、瞬時の判断が必要な場合に、限られた情報を、過去の経験からあらかじめ用意した抽象化・モデル化された類型にあてはめてそれに反応するという生得的な性質を持っていると思います。曽我様の表現を借りれば、縞模様の紐を見たときに、紐だと言う実質を見ずに、まずヘビクオリアが起動して、対象物をヘビカテゴリーに押し込める判断をして、それに対して反応するというわけです。しかし、考えてみると、このような概念化、カテゴリー化は何も瞬時の反射的な反応だけでなく、じっくりとものごとを考える場合にも生じていることだと思います。人は複雑なことを考える際に、多くの場合、複雑な対象物を抽象化し、カテゴリー化した上で思考の対象としています。これは、人間の脳が情報を処理をする上で扱える情報量に限界があるためだと思います。情報量が少なすぎてそれだけでは判断ができない場合、経験上あらかじめ用意されているカテゴリーへと一応概念化して押し込め、それに反応する。また、情報量が多すぎて必要な情報処理ができない場合、抽象化、概念化して情報量を圧縮して、判断、思考するという仕組みが人間の脳に組み込まれているのだと思います。
 前の節でお話したように、世界を動詞の束としてそのまま捉えると、その情報量は膨大なものとなり、また事物の輪郭も不鮮明となるので、そのままでは理解し判断することが困難となります。そこで事物を抽象化し、動詞ではなく、概念化(名詞化)し、膨大な情報量を圧縮して理解し、判断し、反応しているのではないかと思います。一方でこのような脳の仕組みが、人が通常「動詞」を見ずに「名詞」を見ることにつながっているのではないかと思います。
 世界を単に観察する場合は動詞の束としての膨大な情報をそのまま眺めていればよいのでしょうが、それをもとに反応し、思考するためには、動詞の束であるありのままの世界は情報量が大きすぎてなかなか処理し切れません。そこで概念化、カテゴリー化が必要になってくるという訳です。このような抽象化、概念化、カテゴリー化は条件反射を起こさせるための仕組みと言うよりは、効率的な情報処理を可能にするための仕組みと捉える方が当たっているのではないかと思っています。
 ところでいきなりですが、意識とは何なのでしょうか? 私は意識とは生物の情報処理の仕組みのうちのひとつではないかと考えています。生物の情報処理システムには意識に上らない処理システムもたくさんあります。体温が上がれば、寝ていても汗をかきますし、原生動物などであればおそらく意識をもたずに外界の情報を処理して反応をしているのではないかと思われます。生物の持つ多くの情報処理の仕組みの中で、意識とは自律性をもつ程度に高度化した情報処理システムなのではないかと思っています。ここで言う自律性をもつ情報処理システムという意味は、特定の入力(インプット)に対して機械的に特定の出力(アウトプット)を返すのではなく、判断の自由度をもった出力を返すことのできる情報処理システムという意味です。この驚くほど高度化された情報処理システムは、同じ入力があっても、そのつどシステムが自律的な判断を行って、異なる出力(反応)を返したり、場合によっては出力を返さないという選択をしたりします。通常は、自己の生命維持に有利な反応を返すのが普通でしょうが、システムの判断によっては、他者のために自己には不利な反応を返したりすることもあるのです。これは、単に条件反射を高度化、精緻化したものではなく、判断という自由度が導入された情報処理システムというべきであろうと考えます。
 曽我様はA・Hさんとの意見交換や「クオリアとホムンクルスを仏教(無我=縁起)の視点から考える」という論文の中で、人の反応は決定論的であるか否かについて興味深い議論をなさっていらっしゃいます。意識を条件反射の高度化したものと捉えるとどうしても決定論的になってしまうので、曽我様は内部の縁と結果のフィードバックという概念を用いて、複雑な反応を可能とし「ついに外部・内部の縁によって決められたのではない反応が可能となった」(上記論文)とされています。この表現からは曽我様が意識のあり方を自由度のあるものと捉えていらっしゃるのか、あるいはあくまでも条件反射をベースした機械的なものと考えていらっしゃるのか、申し訳ありません、いまひとつ理解できないでいるのですが、私は意識を機械的反応と捉えるのは、無我を強調するあまりに意識のもつ自律性を否定しようとするもので、無理があると思っています。
 ところで、意識を自律性をもった情報処理システムであるとした場合、自己と意識の関係はどうなるでしょうか。意識はしばしば自己と混同されますが、意識は自律性を持つとはいえ、生物の持つ数ある情報処理システムのひとつに過ぎないと考えられますので、意識は常住でもなければ、自己の主宰者でもありません。もちろん真実在の自己でもありません。五蘊のうちの意識はその意味で自己ではない(非我)と、私は考えています。曽我様はどのようにお考えでしょうか?

3 認識主体は存在するか?
 この部分はちょっと水掛け論になってしまうかもしれません。曽我様は、認識自体も縁によって引き起こされた現象に過ぎず、また、努力や精進もまた釈尊の教えが縁となって現れた反応であり、認識主体というものは存在しないと論じていらっしゃいます。
 これからお話しすることは単なる言葉の使い方の問題かもしれません。私なるもの(虚構であるとしても)を認識し、それを、たとえば曽我様のように、「私クオリア」であるという非常に高度な分析を加えて、真の自己とは何かと言うことを理解し、高度な分析内容を他人に分かり易い言葉で懇切丁寧に解説し、「無常=無我=縁起」を自分自身のこととして腑に落ちて納得し、人間としても行政のトップとしても努力し、数ある選択肢の中から迷いながらも苦渋の決断をし、仏教的にも精進し、常に研鑽に努められるということは、これはもはや単なる機械的な反応と名付けるレベルを超えています。
 人は、自分のこと、他人のこと、世界のこと、宇宙のことを認識し、考えることができます。ニュートンやアインシュタインを経て宇宙の運動法則の一部を知るまでに至りました。そして今でも宇宙とは何か、世界とは何か、人間とは何かを知ろうとしています。仮にこの認識しようとする働きを細かく分解してみて、そのひとつひとつが機械的な反応の組み合わせであったとしても(私自身は前の節でお話したように意識は自律性と自由度を持っていると考えていますが)、その総体としての働きは認識する作用であると呼ぶべきレベルになっていると言ってよいと思っています。少なくとも、曽我様と私がこのような議論ができること自体、機械的な反応ではなく、相当程度の自律性を備えた認識作用の結果であると考えたいと思いますが、いかがでしょうか?

4 世界全体を俯瞰し、観察することはできるか?
 これは、前の節で議論した認識の問題と関連する問題で、曽我様がよく譬に出されるロウソクの炎を例にとりたいと思いますが、ロウソクの炎をぱっと見ると、普通は炎を実体視して「明るいな」、「暖かいな」などという感覚を覚えます。しかし、これを曽我様のような思慮深い方が眺め、思考すれば、炎と言うのは、まず燃えると言う述語があって、その結果としての炎クオリアが起動したに過ぎないものだということを理解することができます。そして、このような構造は、単に目の前のロウソクにとどまらず、すべてのものがそのような構造を持っているのだということ、本質は現象であるが、人はそのクオリアを捉えているのだと理解を広げることができます。さらには自分自身も同様の構造を持っているのだと理解がどんどん広がっていきます。
 しかし、ここでちょっと立ち止まって考えてみていただきたいのですが、このように思考を広げてみた段階になると、考えている対象が実は世界全体に広がっているということが分かると思います。意識は自律性と自由度を持った情報処理システムだと考えられると申し上げましたが、意識(思考)の対象は、その思考の当否を別とすれば、自分の目に映るものを飛び越えて、世界や自分自身といったものを対象として思考し認識することが可能です。私は、世界全体を俯瞰し、観察することは誰にでも可能であると考えています(観察結果が正しいかどうかは別です)。
 最初の節で、釈迦は自らを「すべてを知る者」(一切智者)であると言ったと述べました。繰り返しになりますが、覚者となった釈迦の目には、概念的な名詞を取り払った動詞の束としての世界が見えていたのだと思います。このとき、釈迦は世界全体を俯瞰し、観察していたのだと考えたいと思います。
 ところで、世界全体を俯瞰し、観察するということは、世界の空間的、時間的な果てについて確認しようとするものではありません。普段は現象世界の中で事物や自己を実体視し、常住と思いなしている自己の保全のために、不安と苦しみの中でもがいている状態から、その視界を妨げている実体視のメガネを取り払って、世界全体が無常である動詞の束でできているということを実感するということがすなわち「世界全体を俯瞰し、観察する」ということに他ならないのです。
 ガンジス川の中に住むミジンコはガンジス川の姿を知ることはありえないでしょうか? 銀河系の片隅に住む我々人類は、今や銀河系全体の構造と姿を知っています(くどいようですが本当に正しいかどうかは別です)。認識や思考は自分の身の回りのものを超えて自由に飛翔することが可能です。ミジンコに、もし人と同じような意識(自律性や自由度を備えた情報処理システム。認識・思考システム)が備わっていれば、おそらく自分の住むガンジス川を認識、思考の対象として、その姿を知ろうとするはずです(その結果、分かるかどうかはミジンコの能力にかかってくると思いますが)。
 ちょっと脱線しましたが、「世界全体を俯瞰し、観察することはできるか?」という曽我様の問題提起については、可能であるとお答えしたいと思います。

付録1 釈迦とウパシーヴァとの対話
 曽我様から問題提起していただいた命題についての、私なりの回答は以上のとおりですが(果たして当たっているでしょうか?)、せっかくの機会ですので、曽我様から問題提起していただいたこととは別に、これまで、私が考えてきた論点のいくつかを述べさせていただきたいと思います。長くなって申し訳ありません。今しばらくお付き合いください。
 最初のメールでも少し触れさせていただきましたが、スッタニパータの第5章に釈迦とウパシーヴァとの対話がでてきます。印象的な詩句ですが、なぜかこれまであまり取り上げられることがなかったように思います。私は、この対話は釈迦の思想を理解する上でのヒントのひとつになるのではないかと考えています。
 この対話の中心的な部分をはしょって載せたいと思います。(中村元訳)

ウパシーヴァ「あまねく見る方よ。もしも彼(解脱した人)がそこから退き後戻りしないで多年そこにとどまるならば、彼はそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用はあとまで存在するのでしょうか?」
釈迦「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって火としては数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、存在する者としては数えられないのである。」
ウパシーヴァ「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者様。どうかそれを私に説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」
釈迦「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。彼を、ああだ、こうだと論ずるよすがが、彼には存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
 ウパシーヴァは釈迦に対して、解脱した人は、もはや存在しないのか? それとも常住で損なわれない存在となるのか? と問いかけています。釈迦の答えは存在しないという回答でもなければ、もちろん常住であるという回答でもありませんでした。もはや論議不能であると答えているのです。これはどういうことでしょうか? 私はこう考えています。解脱してしまった人にとって、「その個人という概念そのものがもはや無意味である」という意味であると。
 これまでお話させていただいたように、釈迦は概念(名詞)の向こう側にある動詞の束を見ていた。世界を動詞の束と捉えたときに、個人というものの輪郭ははっきりしなくなり、ある程度関連性のある動詞の束をとりだして個人と呼んでいるだけということになります。解脱して覚者となった人にとっては、自己というもの(これも概念ですが)が存在するか、存在しないかということ自体が無意味な命題であり、常に移り変わりつつあるさまざまな運動の束があるばかりと言うことになります。この時点で彼(覚者)にとって、自己という概念は滅んでしまって、それに対する論議はもはやできないということになるのだと思います。

付録2 「無常=無我=縁起」に関する龍樹と釈迦
 「無常=無我=縁起」は曽我様のお考えのコアになっているものだと思います。この「無常」、「無我」、「縁起」の3つの関係について、曽我様は何らかの構造を想定していらっしゃるでしょうか? この節で私が申し上げることは、学問的裏づけがあるものではなく、全般的印象と憶測を元に考えたことですので、眉につばをつけつつ聞いていただきたいと思います。
 無常と無我と縁起を論理的に結びつけ理論化、体系化したのは龍樹の仕事だったと思います。龍樹は、釈迦の思想を分析し明快な体系として理論化しました。龍樹の考え方は、まず世界の構成原理に「縁起」をおき、すべては相互の因果関係により成立している(縁起)ことから、すべてのことがらには常住たる本質は存在しない(無自性)。したがって、自己に関しては無我であり、事物の性質は無常であるとしました。龍樹以降の伝統的な無我観では、龍樹が理論づけた(縁起→無自性=無我)というのが一貫した基本的なアイデアであったと思います。自己が無我であることが確認できれば、自己に囚われる必要はなくなり解脱に至ることができるようになります。ここでは(縁起→無我→解脱)という流れがクローズアップされ、無常に関してはやや等閑視されていた傾向にあったのではないかという印象を受けます。曽我様のお考えはもう少し複雑だと思いますが、基本的にはこの龍樹以降の伝統的な無我観を踏まえて議論されているのではないかと推測いたします(間違っていたらごめんなさい)。
 ところで、釈迦の考えはどうだったのでしょうか? 私は、釈迦は龍樹が鋭く理論化したのと概ね同じようなアイデアをもっていたのだと思いますが、その力点の置き方は龍樹とは若干異なっていたのではないかと思っています。スッタニパータなどを読むと、まず「縁起なるがゆえに無自性かつ無我」という理屈は書かれていませんし、およそ生じる性質のものは滅する性質のものであるというように、「無我」よりも「無常」がより強く強調されているような印象を受けます。
 私が推測する釈迦の考えはこうです。釈迦は世界を概念(名詞)のベールの向こうにある運動(動詞)の束であると見ていた。この運動(動詞)は常に動きつつあるもので「無常」そのものです。つまり、世界は膨大な数の「無常」(運動、動詞)により構成されていると考えていた。そして、運動(無常)として捉えられた世界には概念なるものは仮託されたものであって実質としては存在しない。したがって、自己という概念で考えなしているものも存在しない(無我または非我)。釈迦の考えの基本をなすものは「無常」であって、そこからの論理的帰結として「無我」(または非我)が考えられている。「無常」でありそして「無我」(または非我)であることを理解すれば、欲望を持つことの虚しさが理解でき、解脱に至る。私は釈迦の思想はこのようなものであったと考えています。
 釈迦が世界をそのまま動的に捉えていたのに対して、龍樹は世界の根本原理のメカニズムを捉えようとしたという違いがあったのではないかというのが私の考えです。釈迦の関心が龍樹のような世界を動かす根本原理のメカニズムにはなかったということに関しては、この次の付録3でも若干触れたいと思います。

付録3 形而上学的議論に対する釈迦の態度
 曽我様は以前のメールで、「『形而上学的議論の否定が釈尊の根本姿勢である』といった主張を時折目にしますが、実は私はそうは思っておりません。」、「形而上学的議論に耽る暇はないぞ、というのが釈尊の教えでありました。」と論じていらっしゃいます。釈迦が形而上学的議論を避けたのは弟子に対する教育的配慮に基づくもので、釈迦自身の理論上の問題としてこれらの議論を避けたものではないとのお立場であると思います。
 私は実はこれとは異なる考え方をしています。釈迦は自らを一切智者であると言い、おそらく、自ら知った真理こそが、他の思想家が考えるあらゆる悟りへの道よりも圧倒的に優れたものだという絶対の自信を持っていたのではないかと思います。この自信はどこから来ているのでしょうか? 根拠のない信念や思い込みではなかったと思います。
 スッタニパータの中に次のような記載があります。
 「ある人々が『真理である、真実である』と言うところのその見解をば、他の人々が、『虚偽である、虚妄である』と言う。このように彼らは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の道の人は同一の事を語らないのであろうか?」
 「人々は種々異なった見解に分かれているが、彼は実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。」
 釈迦は、論証できないもの、経験上明らかでないもの、そのような形而上的な見解をもとに相争っている者たちへ強い批判の目を向けています。これらの形而上的な見解は、経験上明らかでなく、あるいは論証不能であるために、それをもとにした議論は不毛な水掛け論にならざるを得ません。釈迦はこのような見解、ドグマ、独断を排することを考えていたのだと思います。そして、観察することによって得られる経験上明らかな事実のみをもとに、自らの論理を構成していったのではないかと思われます。釈迦が形而上的なものを根拠とせずに、観察と経験にもとづいて自らの理論を構成したことによって、釈迦は自分の理論に、他者の理論とは違う絶対の自信を持ちえたのではないかと思われます。
 経験上明らかでない見解、形而上的な見解をもとにした議論は、客観的真理とは言えず、むしろ信仰に近いものとなります。釈迦は「信仰を捨てよ」と述べています。
 付録2で釈迦と龍樹の考え方の違いについて推測をしてみましたが、その根拠のひとつがこのことなのです。釈迦は世界を仔細に観察することによって、世界は概念ではなく運動で構成されていることを見てとりました。そしてそのことをもとに自らの理論を構成したのではないかと思われるのです。龍樹は世界の根本原理として縁起を考えていたと思われますが、世界の根本原理が縁起であると言うのは実は一種の仮説(見解)であって、それをもとに(縁起→無自性)という論理を造り出すことは実は釈迦の方法論の中にはなかったのではないかと思われるのです。龍樹が言う様なメカニズムはあるかもしれないし、ないかもしれない。よく説明されてはいるものの、釈迦が関心を持った観察と経験からのみ導き出される真理とは少し違っていたのではないかと思われます。私は釈迦は徹底した経験論者であって、それこそが、他の同時代のインドの哲学者、宗教家との大きな違いであったのではないかと想像しているのですが、いかがでしょうか。

5 おわりに
 長々とお付き合いいただいてありがとうございました。なんだか拡散した議論になってしまいました。まだ、無我と非我の関係や、釈迦の考えと実在論・唯名論の関係など、お話してみたいことはあるのですが、長くなりすぎますし、これ以上議論が拡散してもますます訳が分からなくなりますので、今回はここまでとさせていただきたいと思います。また、文中に失礼な言い方をした部分もあったかと思います。お詫び申し上げます。
 曽我様のメールにはとてもよい刺激をいただいて、お返事を書く作業もとても楽しいものでした。書き終わってみて、曽我様と正反対の結論を出した部分についても、読み直してみると、実は曽我様とほぼ同じ事を言っていて、それの呼び方、名付け方が反対なだけな部分が大半のような気がしています。
 また、ご批判、ご意見をいただければとてもうれしいです。なにしろ、こんなことを一人で考えていても、あまり張り合いがないものですから・・・

 親愛なる曽我様へ            ムニムニ

 

曽我から ムニムニさんへ 観察すべきは自分自身 2010,8,29,

前略

 遅い返事で恐縮です。かなり煮詰まった議論になってきました。

◆ 見るべきは、世界か、自分か?

 はじめに、全体的な印象で申し上げると、これはムニムニさんだけでなく、ご意見を下さる他の方々にもしばしば共通して感じる事ですが、無常=無我=縁起を外の世界にあてはめて考える方が多い、という点です。誰よりも私自身が、無常=無我=縁起をまず外界の事物において考え、それを徐々に自分自身に引き寄せていくという、伝統とは反対のアプローチをとっていました。法無我を手がかりに人無我を手繰り寄せようとしていた、と言えばいいでしょうか。
 しかし、肝要なのは、法無我より人無我です。自然など外の世界に関心を向けている記述は、パーリ経典には、私の読んだ狭い範囲にすぎませんが、大パリニッバーナ経のわずかな例外を除き見ておりません。釈尊における無我は、おそらく人無我のことであり、法無我は後世の危険な拡張だと思います。

 外の世界の無常=無我=縁起、法無我に囚われていくと、梵我一如の罠に落ちる危険が高くなるように思います。梵我一如とは、生成する世界を肯定的に捉え、その一部として世界と共に生成する自分も肯定的に捉える発想です。その例は、私のサイトの出発点である「あたりまえ…般若経」に見ることができます。梵我一如に対して、釈尊の教えにおいては、自分とは放っておくとどんどん苦を作る反応、常に気をつけるべき対象です。自分を肯定的に捉えるか、警戒して気をつけるか、この違いが、世に蔓延る「仏教」と釈尊の教えとの、そもそもの分岐点だと思います。

 人無我とは、「私とは、そのつどそのつどの縁によって、私の色身という場所においてそのつど起こされる反応であり、起こっては終息し、すぐまた別の縁を受けて、別の反応が脈絡なく生じては終わる、そういう不連続・無常な、縁による反応であって、持続的に存在し自らを采配するような主宰者は無い」ということです。
 このことは、今くどくどとした説明をしましたが、実にまったく単純なことなのです。あぁ腹減った、とか、昼飯は冷やし中華にするか、とか、あぁアチイなぁ、とか、帰りにコンビニで振込みしなきゃ…とか、そんなふうに(述語的な)「私」が次々に脈絡なく生まれては死んでいる。そういう「自分」の有様を、そのように感じられるようになろう、というのが釈尊の教えです。その結果、守るべき(主語としての)「自分」など存在しなかったのだ、と自然に納得することになる。また、意地悪をされても、それもやはり縁がその人の色身において反応パターンを励起して起こした反応であって、意地悪な人が憎むべき主宰者として存在するわけではない、と感じるから、あまり腹も立ちません。まぁ私の場合、全然修行が足りないので、煩わしかったり、めんどくさかったりすることはしょっちゅうですが…。

 人無我が納得できれば執着も鎮まり苦を作ることも減ります。しかし、凡夫においては、生命が進化の末に築き上げた「我あり」のシステムが強固で、人無我を腑に落ちて納得する事はなかなか困難です。例えて言うなら、生き物はすべて死ぬ、人は誰も必ず死ぬ、ということは、否定し得ないあたりまえの事実であるのに、他ならぬこの自分がやがて死ぬ、私が今刻々と死につつある、ということは、なかなか切実に実感することはできません。もっと正確に言うなら、私は、縁を受けては生まれ、死ぬ。またすぐ別の縁を受けて生まれ、死んでいる。一貫した持続的な自分など存在しない。なのに、その事が実感できない。どうしても、思うがままに自分を操る確固たる主宰者として自分を妄想してしまう。主語を妄想し、実体視し、述語を二次的なこととして捉える。それが我々ホモサピエンスの世界認識の構造です。その結果、自動的に「自分かわいい」「自分大事」の我執の反応が発動し、自分と人を苦しめることになります。自らが苦の反応を引き起こす縁となってしまうのです。

 人無我を自分のこととして腑に落ちて納得するために、釈尊は、戒・定・慧の三学や八正道といったカリキュラムを作ってくださいました。その教えを縁として、正しい見解を学び、なんとか自分という反応を静謐にして、そこに起こってくる反応をリアルタイム、クローズアップで集中して冷静に(幻覚に興奮したりせず)観察する、という努力が必要だと思います。

 ぎくしゃくした文章になって申し訳ありません。つまり、提起したいのは、私たちは、関心・注目を、外の世界一般へ向けるのではなく、人無我、即ち、この自分自身の刻々の反応の発生・終焉、発生・終焉…に向けるべきではないか、という事です。外に関心を向けると、梵我一如に陥る危険があり、自分を肯定し苦を生み続けることになりかねません。釈尊の教えは、そうではなく、自分という反応を徹底して観察し、それによって、守るべき「自分」は存在しない、と納得せよ、そうすれば執着の反応は自ずと沈静化し、自他を苦しめる事はなくなる、というものだと思います。

 以上が、今回のメールの主眼です。
 他にも沢山の問題提起を頂いておりますし、旅師まさ坊さんからも関連してご意見を頂きましたので、次に下の見出しについても若干考えてみます。

◆ 自律性 主体性 自由 認識主体

 もう何度も書いた進化論ネタなので、既に読んで頂いているかもしれません。その場合はご容赦ください。

 生物は、様々に変化する環境・条件に反応して、なんとか生き延びよう、増えようとする反応だと考えています。このことは同意いただけるものと思います。ゾウリムシは水温が適温を外れると自動的に繊毛の動きが活発になって、その結果移動します。うまく適温域に移れば繊毛の動きは穏やかになりますし、逆にさらに外れた温度域に入れば、もっと繊毛が激しく動いて移動を促進します。このようにもがき足掻くのが、生命の持って生まれた性です。「もがき足掻く」と言っても、意図して主体的に行っているのではなく、縁(刺激)によって起こされる自動的な反応です。

 生命の進化とは、状況の変化に対する反応がより巧妙になっていくことだと思っています。進化の度合いの低い生物は、温度や匂いや触感といった縁(刺激)に対して、生物種ごとに決まった(個体差のない)反応しかできません。そこからさらに進化して、後口動物であれば遅くとも魚類以降になると、条件反射が可能になって経験から学習できるようになり、個体毎に縁への反応が精緻化されるようになります。(スレたブラックバスは、ルアーと本物の餌とを巧妙に見分ける。)さらに進化すると、“自分クオリア”によって(自分の色身という場所で起こされる)自分という反応をカテゴリーで捉え「いつも化」し実体視することが可能になり、エピソード記憶の能力と合わせて、実体として対象化した自分をゲームの駒のように状況の中で動かしてみるシミュレーションが行われるようになります。

 「自分」を「いつも化」し対象として実体視してシミュレーションすることによって、より大きな利得の為に目先の損・苦を受けいれる反応が可能になりました。これが、努力という反応です。努力とは、短期的な利得を得る既存の反応パターンに対して、より大きな利得を目指すために、既存反応パターンとは競合する新たな反応パターンが用意され、既存の反応パターンが徐々に新たなパターンに置き換わっていくことです。努力は、生命の本源的な「生きんとする盲目的意思」(根本無明)=もがき足掻き反応が、進化が進んで先鋭化された反応であって、生存競争を勝ち抜く上で、大変強力な武器となりました。

 しかし、この反応は、批判的な見方をすれば、実体視した「自分」を守り育てようとする反応であり、しばしば利己的で計算高い執着の反応ともなります。執着の反応は中期的には大きな利得をもたらしても、長期的にはかえってさらに大きな苦をもたらすものです。このことにはなかなか気づくことができませんが、稀にシミュレーションの結果、執着がかえって大きな苦を生んでいることに気づくことがあります。これが発心と呼ばれる反応です。発心も、自ら自律的・主体的に自由意志で行うものではありません。縁によって、自動的・受動的に有無を言わせず起ってしまう反応です。こうして、我執による賢しらな反応もまたシミュレーションにかけられ、我執を超えたさらに良き反応が模索される事になります。これが、発心の後に続く精進の反応です。

 池のコイの条件反射から、凡夫の努力・執着・発心の反応、菩薩の精進の反応にいたるまで、進化した高度な反応であっても、ゾウリムシの繊毛の自動的反応と同様に、縁によって起こされる、無我なる反応であることには変りはありません。ただ、進化した反応であるほど多くの縁が絡み合いながら非常に複雑なプロセスを経て発現してくるため、僅かな差異がアウトプットに大きな違いを生じ、反応の振れ幅が広く、予測は困難です。そのため、そこになにか自由に決断する主体(アートマン、我、あるいはホムンクルス)を想定したくなってしまうのは無理からぬ自然な発想だと思います。しかし、釈尊は、自らを実験台にして様々に観察を突き詰められた結果、ついに、凡夫=ホモサピエンスの世界理解の枠組みを突破する空前絶後の発見をなさいました。すなわち、「自分とは縁によって起こされるそのつどの一貫性のない無常なる反応であって、采配を振るって指図する持続的な「我」など存在しない」(無常=無我=縁起)という発見です。

 努力、執着、発心、精進という反応には、全く個人的な経験・シミュレーションだけが係わるのではありません。人間は社会的動物であり、他の人の行動を見ることや、他の人からの助言、教えこそが、最大の縁として働きます。我々凡夫は、縁による反応であり、縁によって反応が起こされ、そのたびに反応パターンが改変されていくのですから、人に良い縁をもたらし、人が悪い縁に触れないように配慮することが、一番の慈悲だと思います。なによりも貴重な最高の縁は釈尊の教えであり、反対に、質の上でも規模の上でも最悪の縁は戦争だと思います。戦争は、多くの人の様々な執着が絡み合いよじれて太くなった挙句、起ります。そして、人々に数々の悪い縁を与え、苦を生む反応パターンを助長します。そうならないように、ひとりひとりが自分にできる範囲で釈尊の教えを説き、良き縁を広げ、世の中の執着の反応を若干でも鎮めることに貢献して、戦争勃発の可能性を低くできれば、と思います。

 すこし脱線しました。見出しのテーマについても、直接論じるのではない書き方になってしまいました。しかし、ここまで読んでいただいてご理解いただけたと思いますが、私は、自律性も主体性も自由も認識主体も、ない、と考えています。それが釈尊の教えだと考えます。努力も執着も発心も精進も、縁によって起こされる反応です。とはいえ、言葉の問題ですから、これらの高度な反応を、「自律的である、主体的である、自由な反応である」と表現しても構いません。日常生活においてはその方がスムースにコミュニケーションが図れるでしょう。主体を想定することも、日常生活では便利です。それが凡夫の自然な見方なのですから…。しかし、突き詰めて見つめるなら、それらは妄想であり、実態は、無常=無我=縁起なのです。

◆ 自己が存在しないことは、覚者のみならず、凡夫も同様

 「付録1」で釈尊とウパシーヴァの対話を取り上げておられます。自己が存在しない(無我である)のは、覚者のみならず、凡夫も同じです。覚者も凡夫も、等しくもともと自己(アートマン、我、ホムンクルス)は存在しない。覚者と凡夫の違いは、覚者は「自己は存在しない」ことに気付いており、凡夫は、存在しない自己を妄想し実体視し執着している、という点です。

◆ 縁起と龍樹、舎利弗

 仏教かどうかを見分ける基準とされる三法印は、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静であり、これに一切皆苦が加えられることもあります。いずれにせよ、縁起は入っていません。誰の本で読んだか、縁起は釈尊自身の教えではなく、智慧第一と言われる舎利弗が釈尊の教えを消化して説いたものではないか、という意見がありました。有名な「縁起法頌」も舎利弗が釈尊の弟子となるきっかけですし、縁起は舎利弗と関係が深いとの主張でした。また縁起は、パーリ語では、paticcasamuppAdaという長たらしい造語で、無常aniccA、無我anattA、苦dukkha、涅槃nibbAnaと比べると、言葉としていかにもこなれていない印象はぬぐえません。
 しかし、私としては、釈尊ではなく舎利弗の言葉だったとしても、縁起は、無常、無我と同じことを違う角度から表現しており、正しい見解で、また理解を助けてくれると思っています。智慧第一として釈尊の信頼が厚く、惜しまれて釈尊より先に亡くなった舎利弗ですし、釈尊も正しいと承認しておられたからこそ、「縁起」が弟子達の中に広まったのだろうと思います。そもそも四正諦が既に縁起の発想だと思います。

 龍樹については、中論を二、三回流し読みした程度で詳しくありませんが、確かに龍樹も縁起を重視しています。ただ、龍樹は、縁起を、本来のシンプルな時間的な捉え方から、無時間的・相互依存的なものにまで拡張しているように思います。例えば、「右は、左によって右たり得る」とか、更には、「父は子によって父たり得る」というような考えです。論理的には確かに、「子供ができる事によって、人は父になる」と考えることもできますが、私は、シンプルに「父母を縁として子供が生まれる」というように縁起を時間的に考えています。もう少し狭く言うと、「悪口を言われて、腹を立てる」とか「お得意様に会って、愛想笑いを浮かべる」というように、私という反応が縁によって起こされることを考えています。
 龍樹は、当時最有力であった説一切有部を論破しようとしており、そのために縁起という視点を独特な発想で駆使したのかもしれません。

◆ その他

 意識に関しては、小論の『ノエシス,クオリア,いつも化,意識,我執,ノエマ自己,努力,釈尊の教え』をご一読頂ければ幸いです。

                                  草々
ムニムニ様
       2010年8月29日                    曽我逸郎
 

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