***さん 私も世界-内-現象であり実体ではない。 2010,7,

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(頂いたメールは、非公開です。)

 

曽我から ***さんへ 私も世界-内-現象であり実体ではない。 2010,8,5,

前略

 以前に頂いているメールへの返信も書かないまま、再び頂戴してしまいました。申し訳ありません。

 (一部略)

 ただ、少しだけ補足したいのは、「世界を現象とのみ知る」とおっしゃる世界には、自分も含まれている、という点です。執着の対象として実体視される「もの」は無数にありますが、自分自身もまたそのひとつです。
 そして、自分は、執着される「もの」であり、かつ執着する「もの」でもある。「執着する」という「主体的な」側面がある点が、「自分」の非常にユニークな点です。自分以外の執着の対象には、このような「主体的」性質はありません。

 「主体性」という「自分」のユニークさを、デカルトは「我思う故に我あり」と捉えました。この考えは、世俗常識的な有我論の典型だと思います。これとは正反対であるのが、釈尊の無我の教えです。世界は無常=無我=縁起である、なかでも、特に「私」が無常=無我=縁起であること、<執着し、観察し、考える、一見「主体的」な「私」が、実は無常=無我=縁起の現象である>と知ることが肝要です。

 「私」という主体が、主体的に考える、執着する、腹をすかす、のではありません。この色身(肉体)という場所において、「考える」という反応や、「執着する」という反応、「腹がすく」という反応、その他諸々のそのつどの反応が縁によって脈絡なく起ってくる。本当は、述語(反応)だけが起っているのであるが、そこからそこに主語(我)が妄想・実体視され、我執という反応が立ち起ってくるのです。

 諸々の執着の対象のなかでも、私という対象、我という我執の対象が、実は存在せず、実体視による妄想に過ぎないことを、腑に落ちて納得することが、覚りだと思います。その結果、苦を作らぬ涅槃の状況なるのだと考えます。

 またご意見お聞かせ頂ければ幸甚です。
                            草々
***様
    2010年8月5日                曽我逸郎
 

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