旅師まさ坊さん やはり主体性はあるのでは? 2010,8,9,

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拝啓

曽我様

大変ご無沙汰しております。旅師まさ坊です。

曽我さんからいただいたお返事をたびたび読み返しながら、
個物には実体がないこと(独立不変性がないこと)の意味をつらつら考え考えしている毎日です。

最近は、ムニムニさんと曽我さんのやり取りを拝読しながら、「噛みごたえがあって、しんけんおもしりぃ問答やなあ」と思いながら
思索を楽しませていただいております。

久々に曽我さんに質問メールを送らせていただこうかと思います。

ムニムニさんの質問と重なるところでもあろうかと思いますが、自分の言葉に置き換えて質問させていただきますと、

「個々人に主体性はあるのか、ないのか」

という点です。ムニムニさんの言葉をお借りすると、「認識主体(あるいは行動主体)はあるのか、ないのか」

ということです。私の素朴な感覚でいうと、「ある」と考えざるをえません。

たとえば目の前に山田くんがいるとします。その山田くんに「山田くん、あなたの右手をグーの形にしたまえ」。とお願いすれば、
山田くんは見事に手の形を拳骨型に変形することができると思います。これに対し、ほかの人間に、同じことはできません。たとえばこの私が
「山田くんの右手をグーの形にしてやろう」と思ったとしても、その思いを形にすることはできません。

グーの形にできるのは、その手を持つ山田くん以外には成し遂げられません。釈迦でも孔子でも、それは不可能でしょう。
山田くんという唯一無二の存在によって初めて、彼の右手をグーにするという行為が可能になります。

こう考えたときに、「個々人に主体性はある(あるいは、個別独立した認識・行動主体が無数に存在する)」と考えざるを得ないのではないかと思います。

さまざまな因があり縁があって、私たちは動かされているのだろう、と私は考えます(そう考えさせられるようになりました)。
ただ、それでも個々人、あるいは個物の主体性はあるのではないか。

個々人、個物の主体性と、無常=無我=縁起はどう連関するのか。あるいは、連関しないのか。

そこのところのつながりを曽我さんにお伺いしたいです。

繰り返しになりますが、曽我さん、ムニムニさんのお話のやりとり、とても面白いです。刺激的です。
インターネットの世界になって本当によかったなあ(仕事帰りのこの時間に、テレビでなく自分の好奇心を満たしてくれる場所がある)と感じています。

今後とも曽我さんのHPを通じた意見発信、読者の皆さまとの討論を楽しみにしております。
がんばってください。

草々

旅師まさ坊

 

曽我から 旅師まさ坊さんへ 主体性はない。ベンジャミン・リベットの紹介 2010,8,13,

前略

 主体性はやはりあるのではないか、との問題提起を頂きました。

 いきなり私の考えを申し上げてしまうと、「主体性はない」と考えます。というより、主体性は釈尊の無常=無我=縁起の教えと相容れない、と思います。

 生命は、様々な状況の中で、何とか生き延びようともがき足掻くという本性を持っています。しかし、これは、生きんとする「主体的意志」に発するのではなく、与えられた環境・条件を縁にしてそれによって起される反応です。例えば、人間でも、寒いと鳥肌が立ったり、熱いものに触れると反射で自動的に手が引っ込んだりします。
 このことは、必ずしも決定論を意味するものではありません。量子論の言う不確定性原理がニューロンやシナプスで働いて、まったく同じ条件でも違う反応が生じることもあるかもしれません。不確定性原理など持ち出さなくても、環境の中では、そのつど新しい様々な変化に富んだ縁に晒されていますし、いくつもの刺激を同時に受ける脳では、千数百億といわれるニューロンのひとつひとつがいくつものシナプスで繋がって、信号が発散・収斂しています。その過程で、ほんの僅かなタイミングの違いが大きな影響を残すこともあるでしょう。
 例えば、ヒルがつつかれて逃げるとき、泳いで逃げるか、這って逃げるかは、何かの神経が電気的にプラス、マイナスで脈動している、その脈動のどのタイミングで刺激されるかによる、との記事を見た記憶があります。
 ヒルよりもはるかに複雑な人間の場合、反応の予測は不可能です。ただ、この予測不能性、あるいは非決定性は、主体性や自由を意味するものではありません。我々は、無我であり、何かを実行するかしないか、AをするかBをするか、自分で決定してスイッチを切り替える主宰者ではなく、あくまで縁によって起される反応であると考えます。
 努力したり、発心したり、精進したり、ということも、高度に見えても、突き詰めていけば、主体的にではなく、無我なる縁起の反応として起こります。

 この辺については、ベンジャミン・リベットの発見が、大きな示唆を与えてくれます。リベットは、脳外科手術を受ける患者さんの協力を得て、感覚や意図を意識するタイミングについて、常識を覆す発見をしました。
 これに刺激を受けて考えたことを、小論「ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』を読んで」に書いています。ご一読いただければ幸いです。

                                 草々
旅師まさ坊様
      2010年8月13日                    曽我逸郎
 

旅師まさ坊さんから 2010,8,13,

前略

曽我様

お忙しい中、私の質問に的確なお返事をくださり、大変ありがとうございました。
主体性や個別性についてこれまで何度か質問させていただきましたが、
今回のお返事で曽我さん(あるいは仏教)の考えていらっしゃる立場がはっきりと見えたように感じました。
これまでの小論集や意見交換で曽我さんが何度もご指摘されていたのに(主体性はない、という点)、肝心なことを私は気づいていなかったと大変恥ずかしく思っております。

主体性は、ない。
私が寄ってすがることができる(そこに安心を求めることができる)と想定する「実体」は存在しない、ということでしょうか。
いやあ、なかなか、驚きました。仏教がここまで見通しているとは・・・仏教、恐るべし!との観を強くしました。
いろいろ考えていたためにお返事が遅れてしまった次第です。

正直、主体性や個別性については自分自身の中でまだ消化不良の部分があるのですが、
私は自分の意見にこだわりを持っているわけではないので、曽我さんのご指摘や過去の論文をあらためて読み漁らせていただこうと思います。

ベンジャミン・リベットについての論文、拝読しました。
我々の行動が意識より先んじて起きる、という点について。
私は曽我さんのホームページで初めてヴィパッサナー瞑想を知り、我流で少しだけ取り組んでみているのですが、
この「行動が顕在意識に先んじる」という点はまさにその通りだなあ、と驚かされております。

ただ、たとえばドライブ中に「アクセルを踏む」という行動について振り返った場合、二通りの反応があるように感じます。
ひとつは、自分の無意識の行動を後で再確認するというもの。「自分はなんと無意識で運転したいたことか」とあきれ果ててしまいました。
ただ、その無意識性を再確認した上で、今度は「じゃあ、アクセルを踏む一つ一つの行為について、直前にその行為を意識することはできるだろうか」と
思ってヴィパッサナー(?)をやってみたところ、これもまたすべてできる(私が「今、踏む!」と気づき、その後スムーズに足が動いている)ことに気がつきました。これにも驚きました。

ひとつの行動は、何事もなければ無意識になされているが、同じことを意識してやろうとすれば(主体的?に取り組もうとすれば)できなくもない(ただし、そうすることは確かに不自然。ちょうど呼吸を意識してやってみることのように)。

何かを「やろう」と思って、タイムラグがあって、何かが実現できるのだとしたら(たとえば「今から30秒後に右手を前につきだす、と意識して、それが実現できる)、そこにはやはりある程度の(かりそめにも、そのように見える)主体性、個別性があるのではないか?しぶとく考えてしまいます。すいません(笑)

最後に、リベットについての論文の中で曽我さんが書かれておりましたが、私なりに大変共感した一節がありました。

「釈尊の教えの一番根底にあるのは、苦を厭う気持ちだと思う。
釈尊が残してくださったのは、苦をなくす、少なくとも第二の矢による苦をなくすための教えの体系である。」

本当にその通り(自分が求めるべきはそこにある)と感じ入った次第です。
この点を突き詰めて求めていくと、無常=無我=縁起、主体性や個別性の不存在、ということになるんだろうなあ・・・

今回もいろいろ勉強させていただきました。

今後の展開も楽しみにしております。ありがとうございました。

草々

旅師まさ坊

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