スコトーマさん 先天性の疾患について 2010,8,26,

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仏教を学んでいる過程で曽我さんのHPを見つけ、楽しく拝見させてもらっています。
私も今のところ曽我さんと同じように釈迦は輪廻を肯定しなかったと考えております。
元はと言えば佐倉哲さんのHPや苫米地英人さんの本などを拝見し今のような心境に至っているわけですが、
彼らと輪廻肯定者との対話において、肯定論者が繰り返し言うのは「お経にそう書いてあるから」とか
「偉い人がそう言ったから」という釈迦が最も嫌う論調であり、どれも説得力がない様な気がします。
挙句は「まず修業して体感すれば分かる」などという人もいます。
まさにカルトの洗脳と同じです。
私見で言わせてもらえば、より大事なのは、思考する(実行する)ことではなく、思考する(実行する)順番だと思います。
順番を間違えればとんでもない結論に辿り着くこともあるでしょう。
そういう意味で、早い時期から偽教が紛れ込んでいる可能性のある経典を頭から鵜呑みにするのは危険ですし、
それを吟味、選別するのは、修業による体感などではなく、まずやはり知恵でしょう。
死ぬほど修業するのはその後で十分です。

さて、不躾ですが、疑問に思っていることがあります。
生まれながらにして目が見えない人や耳が聞こえない人がいますが、そういった
先天性の病気を持った方については「縁起」の見地からはどういう説明ができるのでしょうか。
輪廻肯定論者であれば「前世のカルマだ、自分が悪いのだ」というカースト制度を正当化するために
考えられた大昔のウパニシャッド・ヴェーダ哲学と同じことを2500年以上たった今でも相も変わらず言うのでしょうが、
輪廻を否定した上での説明はどういったものになるのでしょうか。
縁起ということは「偶然は無い」と解釈してもいいとすれば、先天性の病気を持った方々の
その原因とはどこにあるのでしょう。
親からの遺伝だとしても、2人の子供の1人には遺伝せずもう1人には遺伝してしまうこともあります。
遺伝した1人はたまたま(偶然)運が悪かったという説明は「縁起」に矛盾します。
それとも私の心のどこかに「人間は平等に生まれるべきだ」などという固定観念でもあって、
その前提が間違っているのでしょうか。
いつでも時間が空いたときにで結構ですので、簡単な説明を頂ければ幸いです。
また過去に同じような質問・回答があるとすれば提示して頂ければ嬉しいです。
宜しくお願いします。

2010年8月26日 スコトーマ

 

曽我から スコトーマさんへ 無数の現象が縁を発散する。縁起は偶然的カオス的。 2010,9,5,

拝啓

 遅い返事で申し訳ありません。

 苫米地英人さんの本は読んだ事がないのですが、輪廻転生を否定しておられるのですか。気になりますね。

 「順番が大事」と仰るのは、そのとおりだと思います。八正道の第一は正見で「正しい見解」。釈尊の教えをきちんと学ぶ事です。第二は正思惟、釈尊の教えを正しく掘り下げること。その上で、自分という反応を整え(正語、正業、正命)、正しく努力し(正精進)、自分という刻々の反応にしっかりと気をつけ(正念)、自分という反応を静謐に保つ(正定)。
 釈尊の教えを学ばないまま、修行実践に没頭すれば、執着のままに、見たい妄想、したかった神秘体験をして、興奮狂喜する事になると思います。

 さて、頂いたメールの本題は、「輪廻転生がなく、前世がないのであれば、先天的な病気の理由をどう説明するか」という課題だと受け止めました。
 しかし、正直なところ、私の感覚では、縁起“なのだから”、そういうことも起こってしまう、という受け止め方であり、初めはスコトーマさんの問題意識が共有できませんでした。
 スコトーマさんは、縁起を、「偶然は無い」ということ、だと考えておられます。この点も私とは反対で、私の受け止め方では、縁起とはとても偶然、カオス的なこと、なのです。

 ですので、一読した際は、スコトーマさんの問題意識がピンと来なかったのですが、今この数行を書いていて、スコトーマさんのお考えはこうかもしれない、と思い至りました。

 スコトーマさんは、輪廻転生や前世を否定しておられますが、縁起に関しては、おそらく自業自得的なこととして解釈しておられるのではないでしょうか。
 私は、縁起をもっとルーズな広い係わりと考えています。

 私というそのつどの反応は、そのつどそれ以降の反応パターンに何らかの痕跡を残します。つまり私の反応パターンに影響を与える。これが自業自得だと考えています。だから、いつもそのつど、自分という反応に気をつけなければいけない。また、人間は社会的動物ですから、自分のひとつひとつの反応が、コミュニティの他の人たちへ縁として発散され、様々な反応を引き起こす。賞賛や崇拝や親しみや同情や反感や軽蔑や嫌悪…等々。これらもまた、人間関係のパターンとして固定化され、自分に戻ってきます。こういったことが「自業自得」の意味だと思います。

 しかし、縁起は、私というそのつどの反応が、自業自得で自分への縁となるのみならず、周囲にも夥しい縁を発散します。無数の現象が夥しい縁を発散しあうカオス状況が、この世界だと思います。ちょっとしたこと、例えば電車の遅れとかで、誰かに会ったり会わなかったりするし、その結果いい話を聞けたり、悪い話を聞いてしまったりします。ですから、人間万事塞翁が馬、禍福は糾える縄のごとし、どういう縁がどういう結果をもたらすか、正確に予測することは難しい。実に様々な縁が、そのつどの私たちを起こしているのです。

 イラクで小児癌や先天的な障害が多発していて、その原因として劣化ウラン弾による放射能汚染が疑われています。私もそのとおりだろうと思いますが、そうだとすれば、ブッシュやチェイニーやラムズフェルドの思惑が縁となって、イラクの全く罪のない胎児に作用してしまったのです。

 私たちという反応は、常に夥しい縁を発散して、なにごとかを起こしています。それがどんな結果を生むのか予測は難しいのですが、それでも、できる限り苦を作らないように、いつもそのつど、自分という反応に気をつけていなければならないのだと思います。

 納得していただける返事ができたか、心許ありません。またご意見お聞かせください。

                                 敬具
スコトーマ様
      2010年9月5日                    曽我逸郎
 

 
スコトーマさんから  2010,9,11,

お返事をいただき有難うございます。

私の中で縁起という言葉を、「結果には必ず原因がある」=「偶然は無い」と拡大解釈し、また心のどこかで、1個人の業は1個人の中において起承転結すると無意識に解釈していたのかも知れません。

そういう意味では、私自身は輪廻を否定していると言いながらも、どこかでそういうカルマ思想に犯されていた部分があったのかも知れません。

考えてみれば、1個人において起承転結するという発想自体が自己への拘りや我執の表れなのかも知れませんね。

また疑問が湧きましたらメールをさせて頂きたいと思います。

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