ムニムニさん 続きのやりとり:法無我と梵我一如、主体性 2010,9,11,

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曽我様 こんにちは。 ムニムニです。
丁寧なメールありがとうございます。
また、旅師まさ坊様との対話、とても興味深く読ませていただきました。この対話に触発されて、私もベンジャミン・リベットの「マインド・タイム」を図書館で借りて読んでみました。旅師まさ坊様と曽我様の対話に割り込んで参戦するようで恐縮ですが、後ほど、主体性の有無についての私なりの考えとリベットの実験についての感想を述べさせていただきたいと思います。

で、その前に、曽我様から「見るべきは、世界か、自分か?」という問題提起をいただきました。このような問題提起をいただくと自分の考えをふり返って考える糸口になるのでとても勉強になります。最初にこの課題について、若干議論したいと思います。

1 見るべきは、世界か、自分か?
曽我様は「釈尊における無我はおそらく人無我のことであり、法無我は後世の危険な拡張だと思います。」と論じていらっしゃいます。
釈迦は、人が苦に満ちた世から解脱し、死と老衰を克服して、ニッバーナを得ることを目指していたのですから、その主要な関心は法無我ではなく人無我にあることは明らかだろうと思います。(もっとも、正確に言うと、私自身は「釈迦は無我よりも無常を重視しており、また釈迦は無我ではなく非我を主張していた」と考えていますが、話がややこしくなるので、ここではとりあえず自己が無我であること(人無我)と世界が無自性であること(法無我)に論点をしぼってお話ししたいと思います。なお、この課題に関わる無我と無常の関係については後で少し触れたいと思います。)
釈迦の主要な関心事が人無我にあると言うのは、まさにそのとおりだと思うのですが、法無我は後世の拡張であって釈迦の考えには法無我の考え方はなかったかと言うと、そうではないと思っています。
釈迦が自分自身を綿密に観察して、自身の五蘊はアートマンではないと見てとったときに、それは自分自身のみに関わることであると理解していたのでしょうか。それとも、それは世間全般に関わることだと見ていたのでしょうか。おそらく釈迦は無我を自分自身の固有の問題としてではなく、広く世界を観察することによって、無我を世間全般にまで一般化して認識していたのだと思うのです。つまり、「僕自身のアートマンはなくて、僕自身は無我だと確認できたけれど、君のことは知らないよ。僕のアートマンはないけれど、君のアートマンはひょっとしたらあるかもね。」とか、「僕の身の回りの人たちはみんな無我だけど、どこか遠い国の人たちは無我じゃないかも知れないね。そんなことは知ったこっちゃないよ。」とか考えていたのではなくて、自分自身のみならず、世界全体を観察することによって、世界全般が無我・無自性であることを確信していたのだと思います。釈迦が自分の理論を確立し、教えを説き始めたときに、自分自身についての観察のみならず、世界全体が無我・無自性であること観察して(悉皆的にひとつ残らず観察したのではなく、そう確信できる程度に観察したのだと思いますが)、無我を説いたのだろうと思うのです。
スッタニパータに次のような詩句があります。
「世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。」(939)
「人々は『わがものである』と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである。」(805)
釈迦は、世界のどこも無常かつ無我であるということを、明らかに認識していたものと思われます。

ところで、付け足しになりますが、自分自身が無我であるということは、自分自身だけを見ていたのではなかなか気付くことができません。自分自身のことは、外界との比較対照を行うことによって、その本質に気付くことができる場合が多いのではないかと想像されます。たとえば、ロウソクの炎を見て、そこには常住たる本質はなく現象しているだけなのだと気付く、そこで我が身を振り返って、自分自身もそうだったのかと気付く。このように外界と自分自身とを行きつ戻りつしながら自己についての思索を深めていくことはごく普通のことではないかと思っています。おそらく釈迦もそのように思索を深めて行ったのではないかと思います。曽我様は自らを「まず外界の事物において考え、それを徐々に自分自身に引き寄せていくという、伝統とは反対のアプローチをとってしまいました。」とご謙遜になっていらっしゃいますが、外界の事物を手がかりに本筋である自己について深みのある理解に到達されていらっしゃるのですから、これは伝統とは反対のアプローチではなく、むしろ思索の王道を歩まれてこの高みにまで登られたのだと思います。その点私などはひとつの見方にとらわれて、なかなか広く視野をもてないでいるのですが・・・。

2 梵我一如に関連して無我と無常について
曽我様が法無我を危険な拡張とおっしゃられているのは、梵我一如思想との関係でおっしゃられているということは理解できました。曽我様の最も新しい論文である「空についてのメモ」に、「空」が名詞化して「真如」と同一の概念となり、空が梵の代用を果たして梵我一如思想に転じてしまう様子が分かりやすく論じられています。曽我様がおっしゃられるように、「無我」も「無我という真理概念」と化して(無我=梵)という形になって梵我一如化し、釈迦の教えからずれていってしまう可能性はあると思います。
前回のメールでもふれましたが、私は、釈迦は経験対象にできない形而上的な概念を自らの理論に取り込むことを強く拒絶していたと考えています。ブラフマンという概念は、この形而上的概念の代表選手のような概念です。したがって梵我一如思想は、釈迦にとって肯定するとか否定するとか以前の問題として、そもそも考察の対象外であったと思われます。
また、これも前回のメールで繰り返し述べさせていただきましたが、私は、釈迦は本来実体としては存在しない「概念」というベールの向こう側にある動詞の束(今回の曽我様のメールの用語で言えば「述語」)を捉えていたと考えています。この動詞(述語)の束は「無常」そのものであり、釈迦は、世界はどこを見ても無常で構成されていると考えていた。ものの「概念」は仮構されたもので本質的に存在していないがゆえに「無我」でもあるわけですが、釈迦の教えの重心はあくまで「無常」をベースとして、「この世のものはただ変滅するものであり執着するなかれ」と説かれていたのだと思っています。「無常」は動的なものであり「梵」とすり替わる危険性はあまりないと思われますが、後世になって「無我」がより強調されるようになると、「無我」は動的な概念ではなく状態を表す概念ですから、「無我」と「梵」とがすり替えられる論理もでてきたのではないかと思います。ただ、この辺の歴史的な経緯は多分に想像ですので違っているかもしれません。ご意見をお聞かせいただければと思います。

3 旅師まさ坊様と曽我様の対話によせて(主体性はあるのか?)
旅師まさ坊様と曽我様の間の主体性についての議論、面白く拝見させていただきました。議論を読ませていただいて、自分なりに少し考えてみたところもありましたので、押し掛け参戦で恐縮ですが、少し私の考えを述べてみたいと思います。
最初に、曽我様の「主体性はない」という考え方がどういうものかということをおさらいしておきたいと思います。曽我様の主張が理解できていないと以後の議論はお話にならないので、合っていることを願っているのですが・・・、
「自己とは無我なる現象であり、縁によって起こされる反応である。そこには主体性というものは存在せず、努力したり、発心したり、精進したりといった高度に見える行為も、主体的に行われているのではなく反応として生じているにすぎない。ただし、このことは行為が決定論的に決まっていることを意味しているのではない。カオス的挙動によりその反応は予想不可能である。予測不可能ではあるが、その反応は意図されたものではない。意図せずに起きている現象に過ぎない。」
ここで、後段但し書きの部分は、同一の条件で同一の入力をした場合でもその反応は一意には決まらず、その都度異なる反応があるが、その反応は意図されたものではなく、機械的、自動的に決定されているという意味です。このような表現で、(おそらく)合っていると思うのですが・・・(?)、とりあえずこういった理解で話を進めたいと思います。

この主張の奇妙な点は、努力、精進といった、本来主体的になされるはずの行為が、意図せずに縁に対する反応として自動的になされてしまうという点です(意識の方は後追いで自分の意思により行為を行ったと錯覚をしているが、実際には意思が働く以前に行為は決定されている)。
そうすると、「釈迦が何らかの縁を受けて、自分の意思ではなく、自動的に教えを説き、その教えを聞いたある人は、それを縁として、自分の意図とは無関係に自動的に精進してしまう。」あるいは、「何らかの縁を受けた某国の指導者は、自分の意図とは無関係に隣国に戦争を仕掛け、また、別の指導者は意図しないまま、自動的な反応として核ミサイルの発射ボタンを押す。」あるいは「ある人は、隣家の人をいきなり殴り倒したが、それは何らかの縁を受けて自動的に反応したもので、自らの意思ではなかった。そもそも自分の意思など存在しない。」など、とても奇妙なことになってしまいます。
曽我様は、「釈尊は、戒・定・慧の三学や八正道といったカリキュラムを作ってくださいました。その教えを縁として、正しい見解を学び、なんとか自分という反応を静謐にして、そこに起こってくる反応をリアルタイム、クローズアップで集中して冷静に(幻覚に興奮したりせず)観察する、という努力が必要だと思います。」と述べていらっしゃいます。まさにそのとおりだと思います。しかし、努力が主体的なものではないとしたら、自分の意思で努力できないものであったとしたら(意図的に努力するのではなく、反応として努力してしまうのであったら)、釈迦の教えへの反応として自動的に努力してしまうということはあっても、自ら意図して、自分という反応を静謐にする努力、冷静に観察する努力を行うことはできません。「努力が必要です。」と言われても、縁のある人は自動的に努力してしまうでしょうし、縁のない人は努力のしようもないということになります。それに、そもそも努力という言葉は主体的に行うから努力というのであって、自動的に努力してしまうものは「努力」と呼ぶことはできないと考えられます。
また、先ほど隣の人を殴り倒すなどという物騒な例を出してしまいましたが、犯罪ということを考えると、自分の意思で主体的に犯罪を犯すのでなければ犯罪者への責任を問うことはできません。外部のあるいは内部の縁によるものであっても、自由意思や自由な選択が働かないところには責任は発生しないということになります。
これらの結果はあまりに奇妙すぎて理解することは困難です。釈迦は本当にこのようなことを説いていたのでしょうか? もし、釈迦が「主体性はない」と主張していたのだとすれば、もう少し、何らかの説明をしていてもよいはずです。私は、「無我」ならば「主体性もないはず」と考えるのは少し短絡的であると思っています。「無我」と「主体性」は両立するし、釈迦もそう考えていたと思うのですが、いかがでしょうか。

4 リベットの実験は何を意味しているのか?
私もリベットの「マインド・タイム」を読んでみました。実験の手続きの記載など面倒な部分も多くて十分理解できているかどうか分かりませんが、画期的な実験であると思いました。曽我様のサイトを見ていなければ、脳神経科学の本など読まなかったであろうと思うと、よい縁を与えていただいたと思っています。
リベットの本の内容は、2008年の曽我様の論文「ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』を読んで」に的確に要約されていますので繰り返しません。ここでは、リベットの実験の解釈として、自由意思の存在についてどのようなことが考えられるのか少し考えてみたいと思います(確定的な結論を出そうとするものではありません)。
ひとつの解釈は、先の論文で曽我様が論じていらっしゃるように、「自由意思は存在しない」と解釈するものです。リベットの実験の結果、アウェアネス(意識的な気付き)がある前に脳の活動が始まっていることが分かっているのですから、自由意思が働く前に、行為が行われることは既に決定されていて、自由意思が働く余地はないと解釈するものです。この解釈については、曽我様の前記論文で詳しく説明されていますので、ここではこれ以上ふれません。
ふたつめの解釈は、リベット自身が主張する解釈です。自由意思が働く前に行為は起動しており、自由意思は行為を起動することはできないが、起動しかかった行為を自由意思で拒否することができるとするものです。この場合、行為を拒否又は承認するという形で自由意思が働く余地が出てきます。この拒否または承認を通じて、個人は意識的に自己の行為をコントロールでき、そのために自己の行為への責任も成立するということになります。逆に言えば、脳損傷患者でそのような意識的コントロール機能が欠損している者については、自己の行為は無意識のうちに行われたものに過ぎず、その責任は問われないということになります。リベットは強迫反応性障害の例を出しています。何度も手を洗わずにはいられないといったような病気です。この病気の患者を訓練して、行為せずにはいられない衝動を意識的に拒否するよう努力することで症状を克服した例があるというのです。この解釈によれば、某国の指導者が戦争を仕掛けたくなる衝動に駆られたとしても、それを意思の力で抑えることができることになります。「悪しき縁をよき縁に変えていくという努力」をすることも可能となる解釈であろうと思います。
もうひとつ、みっつめの解釈を提示しておきたいと思います。これは武田一博さんという方の論文に書かれていたものに、私なりの勝手な解説を少し加えたものです。リベットは、意図の発動と脳内の準備電位の発生の順序を調べた実験のほかに、もうひとつ感覚についての重要な実験を行っています。「刺激を感覚として気づくためには、0.5秒以上持続する反復的な刺激が脳の感覚皮質に与えられる必要がある。従って、感覚意識の発生は刺激の開始から0.5秒遅延せざるを得ない。」というものです。この結果を受けてリベットは次のように述べています。ピアニストがピアノを弾く場合に無意識のうちに指が動いていて、いちいち今どの指がどのキーを叩いているというアウェアネス(意識)は発生していない。同様に野球のバッターがピッチャーの投げるボールを打つときにも無意識のうちにバットを振っている。動作をいちいち意識上で確認していては、ピアノを弾くにも、バットを振るにもその動作は、無意識の動作の5倍は遅い、ぎこちないものとなり、まともに演奏や競技ができなくなってしまうというのです。実はこのようなことは我々が日常生活で頻繁に遭遇することで、例えば、歩くことひとつをとっても、実際上無意識に交互に足が出ていて、普通、我々はいちいちその行動を意識することはありません。曽我様も旅師まさ坊様も言及していらっしゃいますが、ここで思い浮かぶのはヴィパッサナー瞑想です。ヴィパッサナー瞑想は自らの行動を意識上でラベリングしようとするものですから、言い換えれば、無意識の行為にアウェアネスを付け加えようとしているものに他ならないものです。社交ダンスを習い始めると、最初は右足を出して次に左足を出してと、まさにヴィパッサナー状態ですが、習熟するにつれて無意識にスムーズに足が動くようになってきます。これらのピアノを弾く、バットを振る、歩行するといった動作は通常無意識に実行されている行為と言えますが、みっつめの解釈は、この無意識の行為と自由意思との関係をもう一度疑ってみようとするものです。ひとつめの解釈とふたつめの解釈では、暗黙のうちに、アウェアネスを伴うもの(意識)=自由意思、アウェアネスを伴わないもの(無意識)=非自由意思というふうに整理して理解していました。しかし、ピアノを弾く、バットを振る、歩くという一連の行為は無意識的に行われているにしても、それは、その行為を行う人の意思を反映しない反射的な行為なのでしょうか? 一連の行為は無意識であるとしても、ピアノを弾こう、バットでボールを打とう、歩こう、ということはその人の意思を反映した行為なのではないでしょうか? アウェアネス(意識的気付き)のみが自由を行使できるのではなく、無意識的過程においても一定の自由を持ちえると考えることはできないでしょうか? 意識と無意識のあいだに絶対的な区別があるのではなく、意識と無意識の差異は、高速で情報処理をするか、全体的文脈の中で高度に複雑な関係として時間をかけて情報処理するかという差異に過ぎず、自由意思の有無を示しているのではないという考え方もありうるのではないかというのがみっつめの解釈です。
リベットの実験についての解釈を3つあげました。他にももっといろいろな解釈があるかもしれません。残念ながら、このどれが正解なのか、いずれも正解ではないのか、私はこれ以上の材料も知見も持ち合わせていません。ただ、あえて申し上げれば、リベットの実験結果は、自由意思が存在しないという可能性があるということを示したものではあっても、自由意思が存在しないことを立証したものではないということを申し上げておきたいと思います。これについては、今後の研究に期待したいと思います。

5 その他の論点について
曽我様には、細かくメールを読んでいただき、上記以外の論点についても丁寧なコメントを頂戴いたしました。ありがとうございます。それらについて、簡単に私の考え方を述べてみたいと思います。
まず、釈迦とウパシーヴァの対話について、自己が存在しないことは覚者のみならず凡夫も同じ、ただ凡夫はそれに気づかずに執着しているとのご意見をいただきました。おっしゃられるとおりだと思います。
また、縁起については、釈迦ではなくシャーリープッタが説いたものと教えていただきました。これは私の知らなかったことなので勉強になりました。龍樹と違い、シャーリープッタは釈迦と同時代の人で、同じ教団の同志ですし、龍樹のような著作も残していないので、その主張がどのようなものであったのか、釈迦と主張に違いがあったのか、よくわからない(そもそも釈迦の主張でさえその真実はよく分かっていない)のではないかと思っていました。でも、確定的ではなくても、このような説があるということは参考になりますし、勉強にもなります。これについては、また詳しく教えていただければと思います。

6 おわりに
今回も、長々と読んでいただきありがとうございました。今回は、旅師まさ坊様と曽我様の対話に触発されて書いた部分が多くなってしまいました。曽我様には、ぜひ、またご批判とご意見を頂戴できればと思います。励みになります。また、可能であれば、旅師まさ坊様にもご意見を聞かせていただければ嬉しいと思っています。

 

曽我から ムニムニさんへ 「本源を想定する発想」を警戒し「人無我」を 2011,1,15,

拝啓

 メール頂戴しながら、失礼をしてしまいました。返事を書かねば、と思いつつ、他用にかまけてそのままになり4ヶ月も経ってしまいました。お許しください。

1) 見るべきは、世界か、自分か?

 釈尊は、当然ながら、法無我、つまり世界の事物の無常=無我=縁起についても、透徹して見ておられたに違いないと思います。なぜなら、自分が無常=無我=縁起であることを見ることよりも、世間の諸々が無常=無我=縁起であることを見ることの方が、はるかにたやすいからです。自身の無常=無我=縁起に気づかれた釈尊に、諸々の事物の無常=無我=縁起が見えていなかったはずは あり得ません。そんなことは当然あたりまえのことだったと思います。
 確かに釈尊は、私たちの身の回りの事物の無常を説き、それらに執着しても詮方ない、それらに執着することで苦を作る、と説かれています。しかしながら、今に伝えられる釈尊の教えに、世界全般の無常=無我=縁起を殊更に説き、それを「見よ」と教えるものはないと思います。私は浅学ですから、たくさんの見落としがあるでしょう。しかし、少なくとも私の知る限り、世界全般を一般的に捉え、それらが無常=無我=縁起であることを殊更に説き、それを観察せよ、納得せよ、という教えはない。そんなことは言わずとも当たり前ですし、現実の「仏教」の歴史展開から逆に推察すれば、自分の無我を見ることをおろそかにしたまま世界の無常=無我=縁起に過剰に気をとられると、諸々の事物の全体、すなわち変化する全体世界を考え、その本源をなにか絶対的なものとしてイメージするというパターンに陥る危険がある。そうなると、自分についても、 「本源」の展開として全肯定するに至り、極端な場合には「煩悩即涅槃」などと口走り、相も変らず苦を作り続けることになってしまう。このことは、私がこれまでたくさんの方々と意見交換をしてきたなかで、何度も感じさせられたことです。おそらく釈尊も、凡夫のこの方向に走りがちな傾向を心配しておられたのではないか、と想像します。事物の無常=無我=縁起は、あたりまえのことです。改めて言うまでもない。見るべきは、自身が無常=無我=縁起であることであって、これこそが、単純でありながら、腑に落ちて納得することの極めて難しいことなのです。

 私達は、無常なる縁起の現象であり、執着の反応パターンのまま、そのつどそのつど縁によって起こされています。その結果、そのたびに苦を創り、自分と周囲の人を苦しめています。その反応パターンを改編していくためには、 自分を、絶対的本源の展開として肯定するのではなく、そのつどの縁に執着のパターンで起こされる反応として捉え、自分という反応に「いつも気をつけて」警戒する、そういう反応パターンの癖をつけよ。これが釈尊の教え(戒)であると考えます。ですから釈尊は、もっぱら自分というそのつどの反応に注意する事を教えられました。

 釈尊が自分以外の人について「知ったこっちゃない」などと考えておられたはずはありません。成道の暁に、一旦は「この発見は世の人には理解しがたい、説いても無駄な苦労だ、このまま入滅しよう」と考えられたものの、やはり考えを改め、以後亡くなるまで熱心にひたすら教えを説き続けられました。それは、当然、他の凡夫たちも、無常=無我=縁起であるにもかかわらず「我あり」と思い込み、自分大事と思い込んで繰り返し執着の反応として現象し、自分と周囲の人々とを苦しめている、その様をしっかりと認識されたからに違いありません。

 まとめると、釈尊が、法無我、つまり事物の無常=無我=縁起を見ておられたのは当然のことである。しかし、肝心な事は、自分の無常=無我=縁起、<自分とはそのつどそのつど縁によって起こされる反応であって、自分大事と執着する甲斐のあるような持続的実体的存在ではない>と腑に落ちて納得し、執着の反応とならないようになること。それによって苦を作らなくなること。
 法無我(世界の事物の無常=無我=縁起)を変に重大視すると、生々流転する世界に本源を想定する思想に落ち込み、自身もその本源の展開の一端として肯定することになりかねないから危険である。
 私とは、執着の反応であり、そのつど自他に苦を作っているのだから、そうでないように、そのつどの自分という反応にいつも気をつけていなければならない。
 そして、自分という反応を整えて、しっかりと観察し、<自分とは、そのつどの縁によって色身という場所においてそのつど起こされる持続性のない反応であり、執着し守り育てるべき実体的な存在ではないこと(人無我)>を心底納得する事で、執着の反応パターンは沈静化する。
 凡夫が、無常=無我=縁起であるにもかかわらず、自分を実体視して執着し、いたずらに苦を作っている有様を、釈尊は赤裸々に見て心を痛めておられた。だからこそ、慈悲の心を動かされ、人々に「自身が無常=無我=縁起である事をしっかりと見よ」と懸命に教えられた。

2) 無常と無我について

 実は、最近或る方から、「曽我の言う梵我一如は、本来の正しい梵我一如ではない」とのご批判を頂きました。確かに、私は「仏教」の中の或る間違った傾向を捉えて梵我一如と呼んできましたが、それは本家家元の梵我一如に対して失礼であったかもしれないと反省をしています。
 なので、このメールは梵我一如という言葉を使わずに、「本源を想定する発想」と書くことにしますが、仰るとおり、釈尊には本源を想定するような要素はまったくありません。であるのに(繰り返しになりますが)、釈尊の教えを世界の無常=無我=縁起を説く教えだと解釈すると、「本源を想定する発想」に陥りかねないのです。

 「この世のものはただ変滅するものであり執着するなかれ」と釈尊が説かれたのは、そのとおりです。但し、肝要な点は、変滅するものであり執着してはならないのは、なにより自分自身だということです。周囲の事物に執着しないだけでなく、この私が、一瞬一瞬変滅しており、執着しても詮方のない、無常にして無我なる縁起の現象であると腑に落ちて納得する、執着の愚かさに気づくことが、釈尊の教えの核心です。

 無常、無我という言葉についても触れておられます。真如や空は、いつの間にか本来の意味(述語的ニュアンスを残した動名詞的意味。「そのようであること」、「空っぽであること」)を逸脱し、変転する世界の本源にある超越的な「真の実在」を意味する言葉に変わっていったと思います。それによって「本源を想定する発想」を「仏教」の中に根付かせる結果をもたらした。
 それに比較すると、無常や無我は(そして縁起も)、動名詞というか、述語的な尻尾を濃厚に残しており、神秘的絶対的超越的本源として受け取られる危険性はまだ少ないと感じています。

3) 努力 精進 主体性 自動的反応

 この件は、正直なかなか説明が難しいと感じています。言葉の普通の意味をずらした矛盾的表現しかできないので。

 しばしば挙げる例ですが、ゾウリムシは、水温が高すぎるか低すぎるかすると、繊毛の動きが活発化して闇雲に移動し、適温域に入るとそれが納まってそこに留まります。これは、大抵の人は自動的反応と感じるでしょう。でも、生き残ろうともがき足掻いているとも言えるし、「生命に根源的な生きんとする盲目的意志」だと表現する事もできる。このように言うと、少し主体的なものにも聞こえます。
 池のほとりで手を叩くと、コイが必死になって大きく口を開けながら押し合いへしあいして迫ってきます。生々しい生命の意欲を感じずにはおられませんが、これも条件反射、自動的反応だといえます。
 餌を置かれた犬が、よだれを垂らしながら我慢して「よし」の合図を待つ。餌を食べたい自然な欲求を押し留めるのは、懸命の努力にも見えますし、しつけられた条件反射であって、やっぱり自動的反応だと捉えることもできる。
 人間の場合なら、寒いと鳥肌が立ち暑いと汗をかくというのは、自動的な反応です。
 テレビで鍋を食べてるシーンを見て、「ひさしぶりに蟹すきでも食いに行くか」と考えるのは、主体性なのか自動的反応なのか。
 身なりのいい人が店に入ってきた時、洋服屋さんが愛想良く笑うのは、主体性? 自動的反応?
 パチンコで負けた人が、次は勝つぞ、と必勝法を研究するのは、努力?

 何が言いたいかというと、自動的反応と見るか主体的努力と考えるかは、見方次第であって、線を引いて峻別できるものではないということです。

 そして、唐突なことを言いますが、生命の進化というのは、状況への対応の仕方が、単純な反応の仕組みの上に、だんだんと高度で洗練された精緻な反応の仕組みが積みあがっていくことだと考えています。普段私達が主体的な努力として感じるものは、状況対応の反応の内の高度に進化した反応だと考えます。進化の度合いが高い反応ほど、主体的だと感じる度合いは高まる。
 ゾウリムシの繊毛運動のような反応が進化していき、やがて条件反射が実現されます。これは個別の一回的経験をクオリアによってカテゴリーとして捉え、ふさわしい反応を起すものです。条件反射の仕組みによって、動物個体は、経験によって反応を精緻化していくようになりました。
 さらに、人類か、その少し手前の段階で、クオリアをそのつどの自分の反応にも当てはめ、自分をカテゴリーで捉えることが始まりました。これは、自己を対象として捉えることであり、これによって自己の実体視、さらには我執という反応が立ち起こるようになりました。しかし、また一方で、「自分」のあり得る対応を様々にシミュレートするという反応も可能になったのです。

 私達というそのつどの反応は、縁を受けるたびに、生物種として定められたり、条件反射や経験によって後天的に身につけたりした様々な反応のパターンに従って、自動的に起こると考えます。そうでなければ、無常=無我=縁起ではなくなってしまうからです。厳密な問いとして、もし私達が自由意志で自分の反応を決められるなら、我々は自己統御できる主宰者=アートマンだということになってしまいます。釈尊に従い、無常=無我=縁起を採るなら、厳密な意味では、自由意志や主体性を認めるわけにはいかない。
 しかし、一方で釈尊は、精進・努力を説いておられる。無常=無我=縁起な反応である私達に、なぜ精進・努力が可能なのか?・・・・・これは私にとって非常な難問でした。

 悪戦苦闘の末、ようやく辿りついた解決は、こう言うとずっこけてしまわれるかもしれませんが、精進・努力も自動的反応として起こる、というものです。

 そのつどの反応は、既に形成されている反応パターンによって起こります。つまり、あくまで自動的反応です。反応した結果にメリットがあれば、その反応パターンは強まる。反応が良い結果をもたらさなければ、自己対象化によるシミュレーションが起こり、新たな反応パターンが模索される。シミュレーションでは、聞いたことや読んだことも含めて、過去の様々な経験が参照されます。それ以降、同じカテゴリーの縁に出会えば、古い反応パターンと新しい反応パターンの間でせめぎあいが起こる。これが努力であり、一見主体的に見えても、一連の反応は、厳密には自動的反応の連鎖だと考えています。

 努力にも様々な努力があります。金儲けの努力もあれば、復讐の努力もある。宗教的な精進の努力もある。それぞれの努力は、その方向の反応パターンを強化します。

 また、発心について考えてみると、発心とはそれまでの自分のあり方を心底悔い、宗教的解決を求めることであって、「さあ、発心しよう」といくら念じても、できるものではありません。つまり、発心は主体的には行えない。それは、寒くもないときに鳥肌をたてようとしてもできないのと同じです。
 では、どういうときに発心が起こるのか。これまでの人生観や世界観・価値観が根本的に間違っていたのではないかという危機に瀕したとき、過去に釈尊の教えを聞いていて、それが縁としてうまく作用すれば発心が起こるのです。

 ですから、釈尊が教えを説き、精進・努力を説かれたことは、無常=無我=縁起と矛盾することではありません。釈尊の教えが、種として衆生に内包され、いつか偶然外部の縁が整い機が熟した時に、よい縁としてその人によい効果を発揮する。発心が起こる。精進という良い努力の反応パターンが強化される。そういうことだと思います。

 ですから、我々においても、釈尊の教えを学び、それを人に話すことは、自分にとっても聞いてくれた人にとっても、大変意義のあることです。いつか縁が整い機が熟したときに、発心や精進という反応を引き出すのですから。

 次に、主体性を否定すれば、犯罪に責任を問えない、と仰るのは、そのとおりだと思います。なので、私は死刑に反対です。また、犯罪に罰をもって対するのにも反対です。犯罪は悪い縁によって悪い反応パターンに陥った結果です。それに罰をもって対応すれば、さらに悪い縁を与えることになる。刑務所がかえって再犯率を高めている、という側面もあるのではないでしょうか。犯罪を犯した人には、逆に良い縁によって良い反応パターンを身につけてもらうのが良策だと考えます。今、たまたま『平和ってなんだろう「軍隊をすてた国」コスタリカから考える』(足立力也著、岩波ジュニア新書)を読んでいますが、コスタリカの刑務所はこれに近い考えのようです。
 この件については、大量殺人鬼アングリマーラに釈尊がどのように接されたかも参考になるかもしれません。HPで何度かアングリマーラには触れておりますので、扉ページのグーグル・サイト内検索でご覧になって下さい。

 無我と主体性について、両者は両立するし、釈尊もそう考えておられた、と仰るのは、斬新で興味深いご指摘です。頂いたメールだけでは言われるところを推察できないので、詳しく教えていただければ幸甚です。

 リベットの実験に関連して、無意識下の自由という可能性を論じておられます。これは、意識や自由をどう定義するかで、様々に議論が可能でしょう。私は、意識については、「気付いていることに気付いていること」という捉え方をしております。(小論『ノエシス,クオリア,いつも化,意識,我執,ノエマ自己,努力,釈尊の教え』を参照下さい。)ただ、私は釈尊の教えを考えたいと思っており、そこから離れて一般的に意識と自由を論じるゆとりは今はありません。

 十分でない部分はご寛恕下さい。
 ご意見頂き、有難うございました。返事が非常識に遅くなってしまったこと、重ねてお詫び申し上げます。

                                 草々
ムニムニ様
       2011年1月15日                   曽我逸郎
 

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