ハルさん 曽我の考えでは「悟りたければ自殺すればよい」となるのでは 2010,7,15,

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>輪廻転生を主題とするメールは、今後は掲載することも控えたいと思います。

この一文を見たうえで書いているので(その条件に引っかかると判断なさるなら)、掲載なしでも構いません。

前提として、前回も描かせていただきましたが私は仏教を信仰しているとは言えません。
ので、若干違う立場からの疑問なのですが

輪廻を否定なさるなら「悟りたかったら自殺すればよい」
(そもそも死は避けられず、脳の反応がクオリアを産むと信じるなら死ねば確実に消滅するのだから
確実に無常無我に至れるわけで修行も無常無我への理解への努力も必要ない)

という理論に対し曽我様はどのような考えを持つのでしょうか?
もちろん、ヒューマニズムETCでいくらでもこんな極論は否定できるでしょう。
実際私も信じてはおりません。

が、ちょっと興味があるのは曽我様の中での整合性です。
「人間にはアートマンがなくあくまでクオリアは物理現象に由来し」「一切は苦しみで」「輪廻はない」
という立場だと否定しようがない気がします。

また逆の極論として
「死ねば確実に悟り=無常無我に至れるのだから現世ではやりたい放題やればいい」
も否定できなくなる気がします。それこそ「戦争で邪魔者を消して何が悪い?」
すら否定できないと思います。

ハル

 

曽我から ハルさんへ 2010,7,17,

拝啓

 ハルさんは、根本のところで誤解をなさっています。
 釈尊の教えは、「頑張って無常=無我=縁起になれ」というものではありません。ハルさんは、元々初めから、当然今も、無常=無我=縁起なのです。

 ハルさんが、プラスまたはマイナスの執着を繰り返しておられる対象は、ご自身をはじめとして、すべて元々無常=無我=縁起です。にも拘らず、そのことを知らず(無明)、執着の対象が変わらぬ価値をもって存在し続けると思い込み、本当はけっして自分の「もの」にはできないところの(あるいは、けっしてその発生を永久に止めることはできないところの)、どれだけ執着しても無駄であるそれらのそのつどの現象に、執着を繰り返す。それによって、繰り返し繰り返し苦を作り、自分と人とを苦しめている。これが、我々凡夫のあり方です。
 自分をよく観察して、「なんだなるほど無常=無我=縁起だったのだ!」と気づき、「執着などという無駄な足掻きを繰り返していた、なんと愚かだったことか」と目が覚める。その結果、みずから苦を作ることがなくなる。穏やかで痞え(つかえ)のない軽安な状況になる。他人に攻撃されても、それは、その人が無常=無我=縁起を見ることができておらず執着の反応となっているからだと分かるので、気の毒に感じても、腹は立たない。

 無常=無我=縁起であることを感じとれないまま執着の反応を繰り返し、互いに苦しめ合いみずからを苦しめている人々を見るのは、悲しい事です。なんとか無常=無我=縁起を納得してもらい、苦の生産を止め、穏やかで軽安に憩ってもらいたいと願う。この反応が慈悲です。人々が苦しんでいることに怒り、頭でっかちに力ずくでその苦を除去しようとするのは、さらに新たな苦を作る執着の反応であり、正しい慈悲ではありません。「慈悲」には、そういう危険もあります。

 少し書きすぎてしまいました。頂いたメールに戻ります。

 ここまでの要点を再度述べると、「無常無我に至る」ことが釈尊の教えではなく、元々無常=無我=縁起であったことを納得して、執着の愚かさを痛感し、苦の生産が止まる。これが釈尊の教えだと考えています。

 「やりたい放題」は、執着の反応を無条件に肯定することですから、短い生を苦まみれにすることです。他の人たちにも苦を撒き散らします。
 また「自殺すればよい」は、まったく我執の反応です。自殺は、一見すると自分を否定することのように思えますが、大抵は我執の反応です。おそらく釈尊は、「自殺すれば解決する」というような「早とちり」を予見・心配して、死後について明言することを避けておられたのではないでしょうか。

 もうひとつ重要な点は、ハルさんの見方には、他の人達がまったく入っていません。自分だけです。これも我執の表出ではないか、と思います。「やりたい放題やれば得」、「さっさと自殺して無常無我に至って、それで悟れたら得」。ハルさんのご意見からは、そんなニュアンスを感じます。釈尊は、繰り返し慈悲を説かれました。人の苦の滅を願うことは、自分という反応を整えることでもあります。

 無常=無我=縁起は、とてもシンプル単純だけれど、現象を変らぬ価値を備えた存在として捉える癖が染み付いている私たちには、自分のこととして腑に落ちて納得することが非常に困難な教えです。そして、それ以前の問題として、苦の大半が、どこか余所から降りかかってくるのではなく、得をしようとしてかえって私たち自身が苦を生み出して、互いに苦しめあい自分を苦しめている、そのことに気づくのが難しい。損か得か、の呪縛からふと解き放されて、他ならぬ自分が苦を作っているのではないか、という気づきが起こる。それが僥倖ともいうべき貴重な出発点=発心です。

 もとよりハルさんは、「自殺すれば悟れる」「やりたい放題やればよい」と主張しておられる訳ではありません。そんな考えは間違いだと分かっておられる。思考実験として、「曽我の主張を論理展開すればそういう結論に至らざるを得ないのではないか」と考えておられるにすぎません。それは承知しています。ただ、その思考実験の前提となる考え方に、まだ執着が残っているのではないか、と感じます。その結果、ハルさん自身も承認できない結論に逢着しておられるのではないでしょうか。

 またご意見お聞かせください。
                           敬具
ハル様
    2010年7月17日           曽我逸郎
 

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