きゅんきゅんさん 罪悪はどこから来たか(苦の起源) 2010,5,30,

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「消去法によって唯一最後に残っているのは、慈悲ではないだろうか。執着が消え、その制約から解き放たれた慈悲は、目的とか価値としてではなく、自然な反応として、働き出す」

 この記述、とてもすばらしいと思いました。
 それともうひとつ、

「輪廻転生・死後生と無常=無我=縁起とは、両立不能だと思う」


 う〜ん、と思ってしまいました(執着があるので。。)。

 それで、メールを送りました(暇だったので。。)。


 仏教は否定否定の連続だと、さまざまなホームページで教わりました。事実、人を殺してはならない、人は動物だから当然、動物を殺してはならない、動物は生命体だから当然、植物をはじめとする生命体を殺してはならない、生命体は物質でできているので、当然岩石を壊してはならない。

 そういった否定の連続の先にまっているのは、おや? という感覚です。たとえばリンゴ、ぶどう、みかん、つまり果実のたぐいです。旧約聖書のしょっぱなのほうにも庭になんとかの木を植えなさい、その実を食べて生活していきなさい、と書かれていたような記憶があります(まちがっていたらごめんなさい。。)。

 ところで、なぜ私がおや? と思ったのか、それはまず始めに、生きていきたい、という執着があったことです。だから必死になって(実際には普通に探しました。。)生きる術を探してみたところ、果実の存在に気がつきました(実際にはベジタリアンに準ずる食生活をしていますが。。フルタリアンはちょっと。。そこまでコアには。。なりたいけど。。)。

 ここから先は私の暴力的偏見の可能性が大なのですが、、まるで、しょんぼりしている子供の目の前に、温かな気持ちが現れたかのように見てしまいます。「私の気持ちです。どうぞ」、と。

 仏教では執着するな、といいます。確かにそうです。でも、私がかりにこの宇宙から消滅してしまったとしても、それでも信じていることが、願っていることがあります。それが、愛、です。


 愛、それすなわち即、真理。真理、それすなわち即、愛。


 つい二日ぐらいまえにそれに辿り着いたばかりです。

 私は思うのです。神は決して他者を使役しない、と。

 それは私たちも同じではないでしょうか。私たちの願いは、愛の相互作用。

 つまり、個という現象があってもいいのでは、と。。

 例えば2という数字、私も最近、まんだらや密教研究所というところのホームページで知ったばかりなのですが、2という主体があって、しかし同時に2と1との、2と3との、2と4との関係、と畳みかけるようにして無限の関係、あるいは現象?がその2という主体に内在されている、とかなんとか。

 つまり、すべての相互作用が愛でなりたっているのであれば、それを無我、というのではないでしょうか。すべての関係が愛で結ばれているのであれば、愛、という見地でものごとをみた場合、区別がつかないと思います。そして愛というものは、他者を必要とするのでは。。だから、

 すべては愛と愛との相互作用。


 でいいのではないかと思うのです。

 例えばこの惑星、地球。

 10個の意識体から成り立っており、1は空間、2は時間、3は物理法則、4は太陽、5は月、6は大気、7は風、8、9、10、は万が一のときに備えて待機、となっており、彼らはすべて愛の相互作用に満ち満ちており、もちろん幸福です。だからあなたのいうように、ごくごく自然な成りゆきで、慈悲、というものが現れてくるのではないでしょうか。

 つまり我々は、地球意識から見れば外部の意識体、いうなれば宇宙の孤児なのでは。。なんらかのきっかけで愛を見失った我々に、今一度愛を取り戻してほしい、と願っているのではないでしょうか。あえて相性のあわない者たちを一つの惑星に呼び寄せ、愛の大切さを今一度学ぶために(あえて相性のない、というところが私の偏見の可能性大、です。極大かもしれない。。)。。

 ここから先は、分かりません。なぜなら、自分というものに執着があるからです。ただ、それでも先に述べたように、愛さえ残っていただけたなら、この宇宙から消えても本望です(ちょっと無理しているかも。。)。

 その意味では、たしかに輪廻転生はなくてもいいのですが(もちろん愛は残る!!残ってくれ〜!!)。

 ただ、どうしても疑問が残ります。これほどまでに人と人とのあいだ、あるいは人の人以外の動植物さんにたいする接しかたのまずさが目の前にあるのです。愛、という無我がある一方で、醜、という我があります。いったい、この醜がどこからきているのか、満足な説明を聞いたためしがありません。だから、自分という存在がどこからきたのかも、理解できません。

 ただ、これだけはいえるでしょう。

 愛一色に染まりたい。できれば空の青い色と、月の淡い金色と。。

 そしていつか、私も愛の軍団の仲間入りを果たして、流転していくのです。

 空間へ、時間へ、物理法則へ、岩石へ、水へ、大気へ、そして風の流れへと。。

 そこはすべて愛の相互作用の世界。すべての個にすべの個との相互作用が畳み込まれている愛の世界。

 だから自然、だれかへの慈愛へとつながっていく。

 よくは分からないのですが、そういった愛の相互作用の世界がある、ということにはほぼ確信を持っています。だからある意味、私などいつ死んでも構わない、とまではいいませんが、しかし安心しています。

 したがって問題は、罪悪がどこから来たものなのか?

 それが、分からないのです。

 なぜ私たちは宇宙の孤児になったのか?

 それが、どうしても分からないのです。

「罪を犯したから」

 では説明がつきません。なぜなら、罪はどこからきたのか? という質問にかえることができるからです。私が○○なだけでしょうか?

 属する意識体が異なれば、それらのあいだには愛の相互作用が成り立たない、とすれば理解は可能です。分かりやすくいえば、おせっくすも愛といえば愛です、プラトニックも愛です、それらは単独で宇宙を形どればそれぞれ幸福なのでしょうが、無理に融合しようとした結果、現れてしまった、、という我が可能性としてあげられます。本来美しいものであるのに、同じ美しいにも相性があって、それを事前に知る術がな かった、となると説明がつくような気がするのですが。。

 どうも、長くなりました。すみません。

 返事はいりません。

 ただ、罪悪がどこからきたものなのか、もし見当がおありなら、その 限りではないです。

 2010年5月30日。

 ペンネーム きゅんきゅん。

 

曽我から きゅんきゅんさんへ 苦の起源 2010,6,2,

拝啓

 時間的・気持ち的にゆとりがないので簡単な返事で失礼します。ご寛恕を。

 「罪悪がどこからきたものなのか」とのご質問を頂きました。

 まず「罪悪」を定義して、「人や自分を苦しめる反応」としておきます。日常の怒り・憎しみ・妬み・欲、見下し等から、組織的社会的な差別・搾取、また戦争まで、様々な反応を含んでいます。

 「仏教」では、この根本原因を「無明」と捉えます。「無明」とは、「自分が無常=無我=縁起であることを理解していないこと」です。「自分が無常=無我=縁起であること」を理解していないから、自分をなにか守り育てるべき価値のある実体と捉え、執着する。その結果、人や自分を苦しめる反応となる。

 私としては、この「仏教」の教えに、私なりの方便を付け加え、現代の我々向けの説明をしてみたいと思います。生物の進化論っぽい話になりますが…。

 そもそも、生命とは何かというと、いくつかの反応が組み合わさって、環境が変化しても、そのことに反応して、その反応の組み合わせが持続・拡大していく、そういう反応の組み合わせです。生命の本質に持続・拡大という傾向がある。生命の本質である持続・拡大が、進化と共にどんどん精緻・巧妙になっていく。自分にとって有利なもの、危険なものを対象として捉えることが可能になる。条件反射が可能になる。自己を対象化し執着する反応が起こる。

 執着という反応は、他の生命に対して大きな競争力をもたらしました。しかし、その一方で、執着が大きな苦をもたらす事も明らかになってきました。執着の生む苦を削減するため、執着をコントロールしようとして、様々な道徳や宗教が生まれました。

 一神教などいくつかの宗教は、執着を自分から逸らす対象として「神」を構想しています。執着の新たな対象として「神」を立てる事によって、自分への執着をコントロールしようとします。

 それに対して、釈尊の教えは、自分が無常=無我=縁起であって、実体的存在ではなく、そもそもそれにいくら執着しようとしても執着の対象にならない反応・現象であることを教えるものです。

 この教えを納得することは、生命が長い進化の末に達成したものの見方=「ものは、変らぬ価値・意味をもって実体として存在する」を解体する事ですから、一筋縄ではいきません。それ故釈尊は、戒定慧、八正道という段階を踏んだプログラムまで作ってくださいました。

 以上をまとめてご質問に答えますと、罪悪=「人や自分を苦しめる反応」は、執着によって起こる。執着は、無明=「自分が無常=無我=縁起であることを知らない事」によって起こる。別の説明をすれば、執着は、生命に本質的な持続・拡大せんとする傾向が進化・発展して、自分をはじめとする執着の対象を変らぬ意味・価値を備えて存在する実体であると間違って捉えることから生じる。

                                   敬具
きゅんきゅん様
       2010年6月2日                    曽我逸郎
 

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