ちょりんこんさん 無我についての考え 2012,3,26,

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はじめまして。
ハンドルネームは「ちょりんこん」です。

曽我様のHPを少しづつですが読みながらいろいろと考えております。

無我・無常・縁起について自分で考えたこと(たぶんトンチンカンだと思いますが)についてご指導をしていただきたいと考え、今回メールを差し上げました。

この世のどこにも我や常に存在し続けるものはない(無我・無常・縁起)という仏教の根本についてですが、これは仮有を前提とした上でのこと、つまり不滅の自我や世界が現実に在ると考えることへのアンチテーゼであって、常見に対する断見の提示ではないでしょうか。

実際、釈尊は形而上的な事柄に対する質問ついては『無記』とし、現実の世の中の事柄(仮諦・仮有)を観察して『縁起』を説明されているようです。そうであるならこの世において「我は有るということではなく、無いということでもない」というのが中道としての表現になるのではないでしょうか。

以上、誠に手前勝手な質問メールで仏教用語についても誤った使い方をしているかと思いますが、お暇な時間があればお教えくださればありがたく存じます。

生きる糧となる貴重なHPを運営しただきまして感謝しております。

 

曽我から ちょりんこんさんへ 無常=無我=縁起は明晰な教え。それを自分において確認する 2012,3,30,

前略

 有難うございます。メールを頂戴するのは、ホントに久しぶりで、とてもうれしく思っております。

 では早速。

 まず、無常=無我=縁起について、これを世の中の諸々の事象に関することだと考えるのは、間違ってはいませんが、焦点を絞りきれていないと感じます。抽象的に一般論で考えるのではなく、この自分のこととして、ちょりんこんさんの場合なら、「このちょりんこんが、無常=無我=縁起とは、一体どういうことか」という形での自問自答の追及が必要であろうと思います。縁によって起される様を観察するのは、ちょりんこんさんにおいて、です。ちょりんこんさんにおいて、そのつどそのつど縁をうけて、さまざまな反応が起される。それがちょりんこんさんの自分としてカテゴリーで捉えられ、実体視される。その様子を観察するのだと思います。

 無常=無我=縁起が、不滅の真我・アートマンに対するアンチテーゼであるというご指摘には同意します。ただ、ちょりんこんさんも触れておられますが、不滅の自我・不滅の世界といった形而上の問題範疇の中での議論というより、我々凡夫の日々日常の普通の自然な「私がいる」という思い込みに対するアンチテーゼという色合いが濃いのではないかと感じます。

 常見・断見については、釈尊亡き後、釈尊の教えと当時のインドの常識であった輪廻転生の考えとを如何に折衷するかという課題が生じ、その模索の中で生まれた用語であって、過剰に捕らわれるのはかえって危険ではないかと感じます。常見・断見は、特定の考え方を背景にした概念・用語だと思います。

 「我は有るということではなく、無いということでもない」という言い方は、意味ありげだけれども何を言っているか分からない、煙に巻いてありがたがらせる言い回しではないかと思います。あるいは、思考停止を自分に納得させ、そこに安住することを正当化する言い回しなのかもしれません。
 無常=無我=縁起には、まったく不明瞭な点はありません。こういう意味です。
 <この色身において、そのつどそのつどの様々な縁によってそのつどそのつどの脈絡・一貫性のない(=無常)反応が起される(=縁起)。それら反応をカテゴリーで捉え実体視して「私」が妄想されるが、あらかじめ存在して采配を振るい差配する「私」がいるのではない(=無我)。>

 全体読み返して、若干補足をしますと、縁に対する反応には、人毎縁毎に一定のパターンがあり、それがその人らしさとして現われています。この反応パターンは、過去の経験・反応(=業)が積み重なって形成されてきたものであり、今後の経験・反応によって、反応パターンは、徐々に、時には一挙に、変化します。

 無常=無我=縁起が、一般論としてではなく、自分のこととして腹に落ちて納得できたとき、力いっぱい握り締めて守ってきた拳の中には何もなかったのだ、と気付き、それまでの執着の愚かしさ、執着によって苦を作ってきた愚かしさが痛感されます。そこに到る懇切丁寧な指導・カリキュラムが釈尊の教えだと思っています。

 またご意見お聞かせ下さい。
                                草々
ちょりんこん様
      2012年3月30日                曽我逸郎
 

 
ちょりんこんさんから  2012,4,4,

曽我 様
ご多忙な中、誠に丁寧なご返答ありがとうございます。

確かに私の「我は有るということではなく、無いということでもない」という言い方は抽象的なだけで『意味ありげだけれども何を言っているか分からない、煙に巻いてありがたがらせる言い回しではないかと思います』というご指摘はそのとおりだなと思いました。

日常生活のなかで具体的に『心の動き』を考えるようにしたいと思います。

ご迷惑かと思いますがこれからもよろしくお願いします。
ちょりんこん

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