泉 清昭さん 「十二支縁起」の読み方について 2012,4,16,

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曽我逸郎 様

 お初にお便りいたします。私,長年にわたり釈尊の説いた真理に関心をもち,いろいろ検索・確認を繰り返す中で曽我様のサイトを知り,その洞察の確かさに感じ入っておりました。基本的には,私の仏教に対する考え方と大筋では一致していると思っております。
 ところで,今日お便り差し上げたのは他でもございません。「十二支縁起」の解釈の項を読ませていただいた際に,(それまでの諸説よりはるかに充実していると評価しておりますが)まだ釈然としない点がございました。そこで,最近私が自分の「ブログ」の中でとりまとめた以下の考え方を紹介し,参考にでもしていただければと願って,これを書かせていただいた次第です。

                       泉 清昭(通称「蓼食う虫」)

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今日は仏教のお話。それも仏教の開祖釈迦(ブッダ)の基本的な考え方のお話です。

「仏教に不思議なし」という言葉があるように,釈迦の教えは “神秘的”で“摩訶不思議”なことを徹底的に排除した極めて合理的な思惟に基づいています。

当時インドで支配的だったヒンズー教の教えでは,人は死後天界に往くとか輪廻転生して生まれ変わるとか,という思想がごく普通に信じられていました。しかし釈迦は,人の魂が死後天国に往くとも輪廻するとも考えなかった。そもそも不滅の魂や天界の存在などといった形而上の話は,合理的な思惟とは全く相容れないため,厳格に否定していました(現在の私たちが日頃馴染んでいる「仏教」のイメージとは大きく異なっています)。

では,そんな釈迦が到達した根本の原理とはいったい何だったのでしょうか。

伝統的な釈迦の伝記「仏伝」によれば,「縁起説」が悟りの内容であったとされています。釈迦は解脱を求めて修行に励み,結局快楽と苦行の中間の道(中道)を歩むことを選びます。そして,禅定(座禅,ヨーガ)の中で得た知見が,釈迦を永遠の安らぎ(悟り,成道)の境地へと導きます。その知見の内容こそ,苦とその原因に関する「縁起の理法」であったわけです。

「縁起」という言葉は,現在ではもっぱら「縁起がよい,悪い」という具合に「ものごとの起こる前触れ,前兆」の意味で用いられています。しかし当然のことですが,もともとはそのような意味ではありません。

「縁起」とは「縁(よ)って起こる」ということ。釈迦は,世界が「無常」(一切の事物は常に生滅・変化して常住ではないこと)であることを明らかにすることによって,あらゆる事物は固定的な実体をもたず,ある時点で原因(因)や条件(縁)が寄り集まって成立しているに過ぎない(相依性)という事実を導き出しました。後世,「釈迦は縁起を説いた」といわれる所以です(その後時代が下って,インドに出現した高僧竜樹(ナーガルジュナ)が,同趣旨のことを「空」という言葉で再現します)。

そしてこの原理を人間社会に具体的に適用し,「人間の苦しみはなんらかの原因(因)・条件(縁)によって起こり,その原因・条件がなくなれば,苦しみも消滅する」ことを説きます。つまり, この世の苦しみから逃れるためには,苦しみを生み出す原因が何であるかを追究し,その原因を滅せよというわけです。

従って,釈迦の説いた教えとは,あたかも医者が病人の病原を探りあてその病気を治療するように,極めて合理的かつ適切に人間の苦しみに対処することを目指す思想もしくは哲学(人生観,世界観)であったといえます。

この苦しみの原因・条件は後に次第に整備され,因果系列の項目が12にまとめられ(十二支縁起,十二縁起),古来,仏教の根本教義として尊重されてきました。

その12項目とは,通常,@無明(根源的な無知),A行(生活行為),B識(認識作用),C名色(心と物),D六処(感覚機能),E触(対象との接触),F受(感受),G愛(本能的な欲望),H取(執着),I有(生存),J生(誕生),K老・死(老いと死)と説明されています。

さて,以上が前置き。ここまでは,一般の「仏教書」を紐解くと,ほぼ同様のことが異口同音に述べられているはず。

問題は,この12項目の正しい意味と,因果の系列として本当に理論として成り立つのか,とう点です。

実は,どの仏教書(著名な専門書も含む)でも,何故かこの問題点を曖昧にしたままで,きちんと検証されているものがとんと見当たらない。あまりにも難解過ぎて読解できないのか,それとも理論的に成り立たないので詳述を避けているのか。どう考えてみても,あの釈迦の透徹した洞察の内容,もしくは明晰な頭脳を駆使して釈迦の教えを体系化したであろうインド初期仏教の学僧たちの論理に,不備や誤謬があったとは考えられません。いずれにしろ,中途半端にしておくのは消化不良(学者の怠慢?)と言わざるを得ません。

私は,若い頃に“釈迦の説く仏教”に興味・関心を抱いて以来,何年にもわたってこのことを模索してきましたが,不幸にして,胸のすくような明解な解説にはついぞお目にかかったことがありませんでした。

ならば仕方がない。いささかなりとも同行の諸賢のお役に立てばと願って,僭越を承知で,これまで自問自答して得た私自身の考察を述べてみることにしたいと思います。

これまでの一般的な説明の難点は,これら十二支の「行為の主体」と「時間軸」が明確にされていないということ。言い換えると「誰がいつ」という視点が欠如しているために,過去・現在・未来が混在し,原因・条件−結果の因果律がスムーズに流れないということに尽きます。

例えば,「J生(誕生)がI有(生存)を原因・条件として生ずる」といわれても,素直に頷く気分にはなれないでしょう。同じようにその「I有(生存)の原因・条件がH取(執着)にある」と聞いても単純に納得はできないでしょう。更に,「D六処(感覚機能)の原因・条件がC名色(心と物)である」となると,もう何を言っているのか途方に暮れるに違いありません。多分これは,原語であるサンスクリット語を中国語や日本語に翻訳を繰り返していく過程で生じた錯誤(各々の用語の真意を一連の“流れ”の中で総合的に捉えず,その語の意味を単独で直訳した過ち)ではなかったかと考えられます。

私の考察のポイントは,この12項目を,「前世代」(親の世代)と「現世代」(子の世代)を繋ぎ,かつ各々の「過去」「現在」「未来」にわたって連綿と展開される壮大な因果の系列と見做すことに特色があります。というより,このように考えないことにはその因果律が破綻してしまい,普遍的な真理として成り立たないと思うからです。

以下,私の理解する考え方で,十二支の因果系列を説明してみたいと思います。

まず,「現世代」について。その中の「現在」を起点として,順次話を進めることにします。

K老・死は,「現在」の視点から,文字通り【将来】に予想される「老いと死」を意味します。これが釈迦の言うところの人間の「苦」です。

その原因・条件はJ生です。これを誕生と解釈すると論理的ではありません。まさに今 「生きている」という意味に捉えるべきです。生きているからこそ老・死が生ずるという,極めて当たり前の因果関係を述べているだけです。

次にJ生(生きている)の原因・条件はI有です。これは「生きるための営み」と考えるのが自然です。つまり,食べる・排泄する・眠るといった生物的な営みのことで,そうすることによって人間は生きていることができます。

次のI有(生きるための営み)の原因・条件は,H取です。これを「執着・生存の欲求」と理解します。食べたい・排泄したい・眠りたいといった欲求のことです。このような欲求が生きるための営みを行わしめるのです。

次のH取(執着・生存の欲求)の原因・条件は,G愛です。「渇愛」という意味です。この渇愛が生存の営みを繰り返す動機であり,「苦の間接的な原因」として十二支の中でも重要な位置を占めます。

次のG愛(渇愛)の原因・条件は,F受です。「対象・刺激に対する反応」と捉えればよろしいでしょう。人は対象・刺激に反応するから渇愛が生じるのです。

次のF受(対象・刺激に対する反応)の原因・条件は,E触です。「対象との触れ合い」,つまり,対象の色・声・香・味・触・法を感じることといえるでしょう。対象と出合い,触れ合って,それに反応するという過程は,私たちが日常よく経験するところです。

以上JからFまでのステップは,対象と触れ合いつつ生存の営みを繰り返すという因果系列で,まさに【現在】の事象といえます。

ところが,E触(対象との触れ合い)の原因・条件はD六処ですが,これは眼・耳・鼻・舌・身・意の6つの器官のことを言いますから,その人がそれまでの生育過程で得た「感覚器官の成熟度」を意味すると理解すべきです。いわば過去の全ての人生体験によってもたらされた感覚機能のレベルと言ってもよいでしょう。ですから,これはあくまで【過去】のことであり,現在の行為のための「前提条件」と位置付けられます。

そこで,D六処(感覚器官の成熟度)の原因・条件ですが,上記の文脈から考えれば,C名色はもともとが精神と肉体の意味であることから,ここでは精神・肉体の統合つまり「人格の形成」と解すればすっきりします。人格の形成に対応して感覚器官が成熟していくというわけです。

次のC名色(人格の形成)の原因・条件は,B識です。これは智恵や思慮・分別のことですから,「心の発達」と読み替えれば繋がるでしょう。心の発達が人格を形成すると考えるのは無理のないところです。

次のB識(心の発達)の原因・条件は,A行です。これは当然それまでの「行為の蓄積(業)」,ということになるでしょう。行為の蓄積から心が発達するという見方も,極めて妥当な理解です。

最後にいよいよA行(行為の蓄積・業)の原因・条件は何かという課題に至ります。それが@無明(無知)と称されるものであり,「根源的な煩悩」のことであって,苦の「根本的原因」と見做されることには議論の余地のないところでしょう。

ここまでが,最初に述べた「現世代」の因果の系列です。私はここでいわゆる十二支縁起が完結するものではないという考え方に立ちます。因果の系列は,ここから更に「親世代」へと遡ることができるからです。以下に続けます。

では,現世代の@無明(根源的な煩悩)は何を原因・条件として,惹き起こされたのでしょうか。答えはそれはそのような存在として「生まれた」から。つまり,親世代から受け継いだJ生がその因であると考えたらどうでしょうか(ここでは「生」を「生きている」ではなく「生まれる」の意味に解釈します)。

そうすると次のJ生(生まれる)の原因・条件は,I有(生きるための営み)ということになりますが,ここでは食べる・排泄する・眠るなどと考えるより,異性との交接と解する方が話が早いでしょう。

同様に,I有(生きるための営み)の原因・条件であるH取(執着・生存の欲求)とは,食べたい・排泄したい・眠りたいといった基本的欲求というより,むしろ性欲と考えるべきでしょう。

そして,このH取(執着・生存の欲求→性欲)の原因・条件がG愛(渇愛→情愛)であり,引き続き,現世代の因果の系列の中で観察したのと同じ流れが,F受(対象・刺激に対する反応),E触(対象との触れ合い)‥‥と,延々と繰り返されることとなり,親世代のそのまた親世代へとどこまでも遡って止むことがありません。

このような考え方に立つことにより,12項目の全部が「循環する完全な因果律」として完成し,過去世代に永遠に遡及することが可能となり,更には壮大な人間(人類)の歴史を形成することになります。このことが,あの釈迦が洞察した「縁起」の本質であり,普遍の真理ではありますまいか。

 

曽我から 泉 清昭さんへ 十二支縁起に対する問題意識 2012,4,27,

前略

 十二支縁起についてお便りを頂戴しました。有難うございます。
 私のサイトの文章も見ていただいたとの事。どの部分か分かりませんので、重複或いは矛盾があるかもしれませんが、拝読して思ったことを書いてみます。ご無礼な部分はご寛恕ください。

 まず「生」についてですが、これは残念ながら「生きること」ではありません。泉さんも前半で紹介しておられるように「生まれること」です。漢字の仏教用語だけで解釈すると誤解が生じることがよくあります。「生」は、パーリ語、あるいはサンスクリットでは ”jAti“ で、英訳は"birth"とか"production"、「生きること」といった持続的なニュアンスよりも、新たな誕生を意味します。

 竜樹が批判した説一切有部は、部派仏教の中でも有力なグループでしたが、「三世両重の因果」というものを説いています。これは、十二支縁起を過去世・現世・来世に振り分け、輪廻転生を前提として解釈するものです。「生」と「老死」は来世での誕生・老死とされます。

 勿論、説一切有部がこう説いたからといって、これが釈尊のお考えだった訳ではありません。よく言われるように、十二支縁起は、様々な有支縁起説が発展し整理・統合された最終形、つまり釈尊から時代を経て成立したものであったと、私も考えています。ですから、十二支縁起を絶対として、それに合致するように苦心惨憺して無理な解釈を工面する必要は感じません。十二支縁起のこの位置に「生」が挟み込まれているのは、輪廻転生説が「仏教」に侵入蔓延した影響だろうと思います。
 釈尊出家の動機を伝える説話、四門出遊では、釈尊は、老・病・死の苦しみを順番に見て、最後に出家者に出会います。この話に「生」生まれることの苦しみは含まれていません。おそらくこれが苦の列挙の古い形で、生・老・病・死というように生を追加して4種類を挙げるのは、後の時代に輪廻転生説を意識して整えられた形だろうと思います。

 十二支縁起説には、他にも問題を感じる部分があります。「識」の位置が早すぎるのです。あらかじめ「識」があって、それが対象を感受し、執着する、という形であり、これでは釈尊が否定された「我」アートマンの代役を「識」にさせていることになります。釈尊に厳しく叱責されたサーティ比丘の識の理解「それ(識)は…感受するものであり…」と同じです。
 サーティ比丘の話は、パーリ仏典中部第38大愛尽経にあります。この経では、「眼ともろもろの色によって識が生起すれば、それは眼識と呼ばれます。耳と…」とあり、感覚器官とその対象を識の前に置いています。つまり、感覚器官とその対象を縁として識が生じる。これは私の考える正しい識の位置です。
 ただその一方で、この経典には、私から見るととってつけたような不自然な形で、パターン化された通常の(識が前過ぎる)十二支縁起説も挿入されており、ひとつの経典の中に矛盾があるわけで、いろいろな意味で興味深い経典です。パーリ仏典は、片山一良訳・大蔵出版など日本語訳が出ていますので、図書館などでお読み下さい。意見交換のページ、chloeさん2009,10,21(excha335.html)でも論じています。ここでは、十二支を並べ替えるという無謀な試みもしでかしています。

 もう少し余計なことも書きますと、無常、縁起を「あらゆる事物」についてのことと考えておられるように拝読しました。確かにあらゆる事物は無常=無我=縁起ではありますが、無常=無我=縁起を事物一般に関することとして捉えている限り釈尊の教えの眼目は掴めない、と思います。「この俺、この私が無常=無我=縁起とはどういうことか」と自分のこととして自問を突き詰めていくことが必要です。なぜなら苦は、私達凡夫が自分達で生み出しており、それは私達が自分に執着しているからです。苦の原因は、病原体のような他者ではなく、我々自身の執着という反応が苦を生んでいる。だから、私が無常=無我=縁起であることを腑に落ちて納得して、いくら執着しても意味がなかったのだ!愚かなことに血道をあげていた!と痛感することで、執着の反応パターンが改められる。それが釈尊の教えです。

 執着の反応が生じるプロセスを、釈尊は細かく分析されました。先ほど十二支縁起を批判的に論じましたが、伝えられた十二支には釈尊の分析の跡もしっかり残っているのではないかと思います。例えば、先に紹介したchloeさんとの意見交換でも言及している名色です。そのつどの一回的現象を、利害に関わるいつものカテゴリーとして捉え、それに相応しい反応を自動的に起動する仕組み(条件反射の仕組み)として、名色=クオリアを考えています。このあたりについては、小論の《名色(ナーマ・ルーパ)をクオリアの視点から考えてみる》(namarupa.html)も参照頂ければ幸いです。

 噛み合わない議論になってしまったかもしれません。ご無礼の段ともども、お許し下さい。
 またご意見お聞かせ下さい。
                                 草々
泉 清昭様
        2012年4月27日                曽我逸郎
 

 

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