chloeさん 「十二支縁起(における識)は我論?」受動意識論からの批判 2009,10,21,

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曽我逸郎様

 はじめてメールを送らせていただきます。
 いきなりずいぶんな物言いで恐縮ですが、私は仏教をはじめ、どの宗教の信者でもありません。
 曽我さんもサイトで触れておられる、前野隆司先生の『脳はなぜ「心」を作ったのか』を読んで、自称・受動意識論者になり、受動意識論をもっとうまく理解するために、突如としてゴータマの思想に興味を持った次第です。
 そこで、秋月龍a師の『誤解された仏教』、中村元氏の訳された『ブッダのことば スッタニパータ』、宮元啓一氏の『ブッダが考えたこと』の三冊を読みました。
 つまり、この三冊が、いまのところ、私が読んだ仏教に関する本のすべてです。
 あとは曽我さんのサイトで勉強させていただいております。
 曾我さんは“仏教を説明する方便、あるいは「仏教」を検証するテスター”として科学的知見を用いるお立場で、言わば私とは逆方向のアプローチを採っておられると思いますが、不遜を承知で言えば、ゴータマの思想と科学的知見が重なり合う地点で私の考えと共通するところが多く、たいへん参考になります。

 さて、その上で一点、曽我さんのおっしゃることで腑に落ちないことがあるのです。
 それは、曽我さんの十二因縁(十二支縁起)についての次のようなお考えです。

“私は、縁起(=無常=無我)という考えは極めて斬新かつ深い洞察だと思いますが、十二支縁起という定式化され限定された説は、あまり重視していません。もっと言うと、十二支縁起における識の位置は早すぎる、「あらかじめ識があって、それが感受する」という我論的傾向が既に現れている、と考えています”
 私にとって十二因縁は、「ゴータマこそ最初の受動意識論者だったのではないか」という私の予断を予断以上のものにしてくれるかもしれないものであり、仮にそれが後代に作られたものだとしてもゴータマの思想の核心をひじょうに的確に定式化したものだと考えておりますので、それが我論的傾向を帯びているというご意見には、にわかに同意しがたいものがあります。
 どうも曽我さんは「識」を「我」が何かを認識することだと捉えておられるような気がします。
 けれども、「無明」について、
“さらに突き詰めて考えると、生命であることそれ自体が自分という反応を維持し拡大しようとする反応であり、我々の苦、執着、無明は元々そこに由来している。であるなら、生命であることそれ自体が、根本無明であり、原我執であるということもできる”
 と、認めておられる方が、その直後に置かれた「行→識」を「我」のはたらきと見なしてしまうことは理解に苦しみます。
 十二因縁(無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死)を「六入」から遡って考えますと、たんに刺激に対して反応するだけの何かが感覚器官であるためには、その刺激がカテゴリー化された「名色」である必要があります。そして、たんなる刺激が「名色」であるためには、刺激‐反応が何度か繰り返されてカテゴリー化される必要があります。この最後の部分が「行→識」ではないでしょうか。
 曽我さんは「クオリア」の定義ををひじょうに拡張する論のなかで、この経緯を見事に記述されておられます。
“おなじみの池のコイの場合で言えば、手を打つ音の後、餌を食べることを何度か経験すると、手を打つ音だけで餌を取ろうとする反応が引き起こされる。
 注意して頂きたいのは、この時、コイは、手を打つ音のカテゴリーに反応しているのであって、そのつどの一回的音を聞いて反応しているのではない。手を打つ音は様々に異なり、一回性のままありのままに聞いていたのでは、共通した反応は起こり得ない”
 これが十二因縁の「識」の意味だと考えるほうが素直だと思うのです。
 それとも、「識」をこのように解釈することは仏教的にはまったく間違っているということなのでしょうか。
 お教えいただければ幸いです。

 なお、宮元氏の『ブッダが考えたこと』の感想文ともゴータマについての私の考え(たかだか数冊の本を読んで感じたことを「仮説」と呼ぶことさえおこがましく、ほかに適切な言葉を思いつかないので「物語」としてあります)ともつかない文章を、ブログ記事『ブッダが考えたこと』(その1)(http://blog.goo.ne.jp/s_chloe/e/57288e2a6489593b6b361f92240a8285)から六日間にわたってアップしてあります。ご面倒ですが、私の考えの詳細はそちらをご覧いただければと思います。

 最後に、ブログ記事にせよこのメールにせよ、仏教の正しいあり方を追求するという姿勢がまったく欠落しております。不快に感じられましたら、あらかじめお詫びいたします。少なくとも仏教を揶揄する気持ちはまったくありません。また、曽我さんが釈尊と呼ぶ方をゴータマと書きましたが、これも釈尊やブッダという呼び方は宗教的尊称のように思われ、信者でもないものが用いるのはかえって失礼ではないかと考えたからです。私がまぎれもない天才だと思い、深く尊敬もしている歴史上の人物をたとえばダーウィンとかアインシュタインと表記するのと同じ意味合いでゴータマと書いています。

 それでは、失礼いたします。

chloe

 

曽我から chloeさんへ 「十二支縁起を並べ替えてみる」 2009,12,6,

拝啓

 大変遅い返事で申し訳ありません。

 受動意識説が正しく展開していけば釈尊の教えににじり寄っていけるのではないか、と私も期待しています。

 さて、今回は、識をキイワードにクオリアの観点から十二支縁起説を検討してみる、という問題提起を頂きました。

 最初に、識とはどういうことを言わんとしているのか、確認をしておく必要があります。『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)で見てみます。

* P133 <五蘊(色・受・想・行・識)における識の説明>
 (5)識(vijJAna, viJJANa)  vi‐(分かち)、jJA-(知る)、-ana(こと、もの)ということであって、「分かち知ること」とは分別・判断・認識の作用を指し、「分かち知るもの」とは分別・判断・認識する主体としての心を指す。このうち、認識作用が本来の意味であろうが、認識主体としての心の意味も原始経典に使用されている。十二縁起における識は認識主体としての意味が強い。識は眼識乃至意識の六識として説かれ、これは十八界の中に六識界として収められている。(中略)
 心・意・識 原始経典では識の異名として心(citta)と意(manas, mano)をあげているが、この心・意・識の三者は名称は異なっても同じものを指すとされている。(後略)

* P148 <十八界の説明>
 (前略)それは前項で説いた六根・六境の十二処に、眼識乃至意識の六識を加えたものである。原始経典において、「眼と色とによって眼識が生ず」乃至「意と法とによって意識が生ず」とされるように、根と境とによって識が生ずるという、感覚や知覚による認識発生のための要素が十八となるのである。(後略)

* P187  <十二支の解釈における識の説明>
 (3)識(vijJAna, viJJANa) 前に五蘊や十八界における識を説明したように、識とは六識であり、それは「認識作用」または「認識主観」を指す。ここでは認識主観としての六識である。阿含経の中には、「識によって名色がある」の識を、(a)入胎の識、(b)在胎の識、(c)出胎後の識の三種として説いたものがある。この中の(a)入胎の識(結生識)だけを十二縁起の識と解すれば、三世両重の因果説のような胎生学的な見方となる。しかし、原始仏教では入胎・在胎・出胎後のあらゆる場合の識が意味されたことが知られる。

 以上のとおりですが、識は、かなり高度なものとして想定されていることが分かります。それを十二支縁起説が3番目という早い位置に置くのは、やはり「先に識あり」、「先に分別・判断・認識作用あり」、「先に認識主体あり」という考えであり、釈尊の無常=無我=縁起にも、受動意識仮説にも対立するものではないかと思います。その反映として、入胎の識・三世両重因果というようなトンデモな解釈を生み出すことにつながったのではないでしょうか。

 この問題については、興味深い経典があります。HPでは既に何度か触れていますがマッジマ・ニカーヤ第38『大愛尽経』です。(以下、片山一良訳・大蔵出版を参照します。)

 初めに、サーティという比丘が「識は流転し、輪廻し、同一不変である」という悪しき見解を持ち、他の比丘や釈尊から「縁がなければ識の生起はない」として叱責されます。−@
 次に、「眼ともろもろの色によって識が生起すれば、それは眼識と呼ばれます。耳ともろもろの声によって・・・耳識と呼ばれます。鼻ともろもろの香とによって・・・。舌と・・・。身と・・・。意ともろもろの法とによって識が生起すれば、それは意識と呼ばれます。」とあります。つまり六根・六境によって識は生起する。識は、眼や耳などの感覚器官と色や声などそこへの刺激とによって起こされる。識は、順番としてそれらの後です。−A
 引き続いて大愛尽経は、十二支縁起を説きます。ご承知のとおり、ここでは識は、六処や触より早い3番目という位置に置かれています。−B
 (その後、修行者の心がけ・処し方が説かれています。)
 Bの十二支縁起の部分は、識を感覚器官・縁(刺激)より前に置く点において、@の「縁によって識が生起する」、A「眼と色によって眼識が生起する・・・」という主張と矛盾してしています。ひとつの経典の中に矛盾があるわけです。表現も、サーティ比丘とのvividな具体的やりとりに比べれば明らかに類型化した平板なものとなっています。大愛尽経を通読すると、全体に一体感は乏しく、いくつかのブロックが寄せ集められたような印象を受けます。十二支縁起の部分は、おそらく釈尊の直説ではなく、後世の挿入でありましょう。(文献学的な根拠を述べる力はありません。)

 十二支縁起は、北伝・南伝を問わず広く伝えられているので、かなり早い時期に成立していると思いますが、すでにその時以前から、「先に識あり」という、凡夫の自然な生得的世俗的思い込みが「仏教」に混入していたのだろうと推察します。釈尊に直接教えを受けていた弟子の中にさえ、サーティのように「先に識あり」という有我論的思い込みから抜け出せないものはいたのですから、釈尊の死後早い時期に世俗的常識が「仏教」に紛れ込んだのも仕方のないことだったのでしょう。

 一旦まとめると、受動意識説は、釈尊の教えと方向において同じであると評価しますが、十二支縁起説は、識を感覚器官やそこへの刺激よりも前に置いている点において、釈尊の無常=無我=縁起の教えにも、受動意識説にも反する。こう考えます。

 chloeさんは、識を「クオリアが形成されるプロセスにおける何か」として捉え、そう考えれば十二支縁起説は受動意識説と一致するとお考えのようです。十二支縁起のプロセスの中にそういうクオリア形成作用のステップを想定することは、ご慧眼だと思います。

 ただ、識は、「仏教」の流れの中では、上記のとおりもう少し高度、後次なものとして考えられてきたと思います。それゆえ、十二支縁起説が三世両重因果として解釈されるような事態を生じてきたのでしょう。

 クオリアとそれによる反応の仕組みが生成するプロセスは、三つのタイムスケールで考えることができます。ひとつは系統発生のプロセス。生物がどのように進化して、クオリアを生成し反応を適正化するに至ったか(A)。もうひとつは、個体発生のプロセス。一人の凡夫(普通の人)が、受精卵から、産み落とされ、様々な経験に晒され、クオリアが形成され、学習し反応を精緻化していくプロセス(B)。三つ目は、そのつどそのつどの縁によって、そのつどそのつど様々なクオリアが起動され、さまざまな反応が起こされる刹那滅のプロセスです(C)。

 釈尊の中心課題は、おそらく(C)であったでしょう。なぜなら、苦を作る執着の反応を改めることこそが釈尊の課題であり、そのためには、今とこれからのそのつどの反応こそが問題になるからです。よい縁によってよい反応を起こし、クオリアを苦を生む反応を起こさないものに修正していくのが釈尊の教えです。(B)の成長過程の研究は、補足的な分析材料を与えてくれるでしょうが、中心課題ではありません。(A)の進化論的視点が釈尊にあったかは不明です。

 そこで、ちょっと不遜な着想を得ました。上に述べたとおり、私は、十二支縁起は釈尊のお考えに適うものではない、と考えますが、では十二支縁起を下敷きにして、それを私の思うところの釈尊の教え、そのつどの反応の生起を説明するものに並べ替えられないか。
 小論《名色(ナーマ・ルーパ)をクオリアの視点から考えてみる》に書いたとおり、既に、名色とはクオリアである、との仮説を得ています。クオリアを方便とする無常=無我=縁起の仮説で、十二支縁起を並べ替える試みです。
 「仏教」の歴史に盾突くことであり、まじめな方々は眉をひそめることでしょう。しかし、たくさんの方に見てもらえれば何かヒントになるご指摘をいただけるかも知れず、試行錯誤の模索のちょっとした思考実験の試みとおおらかに大目に見て頂いて、ご意見・ご批判を頂戴できれば幸甚です。

1)無明
無常=無我=縁起を知らないこと。それゆえ、生得的なものの見方、世俗的ものの見方のまま、現象を一定の(プラスまたはマイナスの)価値を持つものとして感知し automaticに反応している状態。拡張して解釈すれば、生命共通の生き続けようとする根本欲求。

2)行
プラスの価値を持つとした現象を獲得しようとしたり、マイナスの価値を持つとした現象を拒絶・破壊しようとしたりしてきたこれまでの反応の経歴すべて。

3)名色
同種の現象への反応を何度か繰り返すことによって形成される、現象をカテゴリー化して捉え、「ふさわしい」反応がすばやく起動されるようにするクオリア。

4)六処
感覚器官。

5)触
感覚器官と対象となる現象とが接触すること。

6)受
感覚器官と対象となる現象との接触から、縁を受けること。

7)愛
現象が感覚器官を通じることによってもたらした縁が、名色(クオリア)を起動し、その結果生じる情動。不安・恐怖・嫌悪・満足・興奮などなど。

8)取
起動された名色(クオリア)によって引き起こされる、プラスの価値のカテゴリーに属する現象を獲得しようとしたり、マイナス価値のカテゴリーの現象を拒絶・破壊しようとしたりする執着の反応。

9)識
取を縁として起動される二次的クオリアが引き起こす「現象に気づいていることに気づくこと」。現象を対象として意識上で認識すること。
 (小論『ノエシス,クオリア,いつも化,意識,我執,ノエマ自己,努力,釈尊の教え』を参照下さい。)

10)有
現象を対象として自覚的に認識することによって、現象が「変らぬ価値を備えた永続的存在」として捉えられること。現象の「いつも化」。現象の実体視。

11)生
自分というそのつどの現象が、「変らぬ価値を備えた永続的実体」として捉えられ、「我」が実体視されること。「我」の妄想。我執が発生すること。

12)老死
我執の対象であり「変らぬ価値を備えた永続的存在」であるはずの「我」が、刻々と老い刻々と死につつあることに直面する苦。
 7)から12)は、起こると直ちに2)の「行」に痕跡を残し、3)「名色」のカテゴリー化、或いはそれが引き起こす反応パターンを変化させます。

 最後の三つについては、自分でもややこじつけっぽいと感じています。三世両重のような悠長かつトンデモな解釈を避けて、(C)のそのつどのプロセス(刹那滅のプロセス)として考えようとすれば、上のような解釈しか思い浮かびませんでした。
 付け加えると、そのつどのプロセスといっても、毎回1)から12)まですべてが完遂されるわけではありません。例えば、自動車運転中ラジオの音楽に無意識にリズムを取るとか、会議中無意識にペン回しをする、というような場合は、8)取までで終わっていると思います。

 読み返すと、複雑なプロセスの内のある部分は詳細で、別の部分ははしょったものになりました。また広く深い釈尊の教えから漏れ落ちてしまっている要素も多数です。伝えられてきた十二支縁起の支を並べ替えただけでは、そういう結果にならざるを得ないのでしょう。そもそも私は、十二支縁起説は釈尊の直説ではなく、釈尊から時を置いて、当時一般的だった思い込みが混入して成立したものと考えています。

 chloeさんは、ブログで五蘊にも言及しておられ、色・受・想・行・識を単なる列挙としてではなく、言わば「五支縁起」とも呼ぶべき順序を読み取っておられます。その点は、私もまったく同感です。
 私の解釈では、五蘊は世界の分析ではなく、「私」の分析です。色は「外界に実在する対象」ではなく、私の色身、すなわち肉体だと思います。名色(クオリア)の仕組みも感覚器官も、色身に一本化されている。「色」身が縁を「受」け、「想」と「行」という自動的反応がおこり、それが「気づかれて」対象認識、現象の実体視である「識」が生じる。こう考えれば、上記の十二支縁起私説と合致するし、識が縁起の最後に置かれているのは、正鵠を射ていると思います。伝統的な十二支縁起説より、五蘊の方が、「縁がなければ識の生起はない」という釈尊のお考えを正しく反映しているのではないかと思います。

 考える新しい視点のよききっかけを与えて頂いたこと、感謝します。

 今後ともお気づきの点、お聞かせ下さい。
                            敬具
chloe様
     2009年12月6日            曽我逸郎
 

 

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