皆空さん 「佐々井秀嶺師 東京での講演 @護国寺」 2009,6,20,

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ご無沙汰しております。
かなり以前に佐々井秀嶺師のことについてメールを差し上げた者です。
覚えておられますでしょうか。

その佐々井師が日本に里帰りされておられるということを新聞のニュースで知りました。
日本のあちこちで講演されているとのことでどんなことを話されているのか、機会があれば是非とも聞きたかったと思っております。

曽我さまはお会いになられましたか?

新聞の写真ではでっぷりと太って?おられるように見えるのですが・・・・・・
以前に読んだ本のイメージから想い起こすとちょっと違うなぁー、という印象を持ってしまいました。

まあそんことはどうでも良い事で、佐々井師の名を新聞で見たものですから、久し振りにメールをした次第です。

ペンネーム 皆空
2009/6/20

 

曽我から 皆空さんへ  2009,6,26,

前略

 佐々井秀嶺師の講演は、護国寺で拝聴いたしました。小論に書きかけていましたが、メールを頂いたので、返信の形でご報告致します。

 いつかインドに訪ねたいと思いながらも、いつになるやら分からないし、『男一代菩薩道』に掲載されていた写真では、ずいぶんむくんでおられるように見えて、心配していました。ひょっとすると会えないままになってしまうかもしれない、とさえ思っていました。まさか日本でお顔を見ることができるとは想像していませんでした。

 中川村には延寿院という真言宗のお寺があって、そこの伊佐ご住職は、佐々井師と兄弟弟子に当たり、『破天』にも登場しますし、時々はインドへ改宗式の手伝いに行ったりもしておられます。このご住職から、師が日本に来ておられるらしい、と聞いて驚き、その後、八戒さんという方から、総持寺と護国寺で講演会があると教えていただいて、スケジュールをこじ開け、高速バスで東京・護国寺にまいりました。

 小一時間程前に着いたら、本堂に並べられた椅子は、既に7割がた埋まっていました。すぐにそれも一杯になり、堂内前方には椅子なしで座る人たちが何度も詰め合って余地もなくなり、外側の回廊にも立ち見の人垣が幾重にも並びました。

 はじめにスライドでインドでの活動が紹介された後、佐々井師が登場されました。『破天』掲載の写真のような精悍さは失われていましたが、心配していたよりずっと元気で、大きな太い声でパーリ語のお経を唱えられました。テーラワーダのお坊様方のような、穏やかに長く声を引っ張るのではなくて、一語一語力強くぶつけるような唱え方でした。

 講演の内容は、概ね半生をざっくりと振り返る、といったもので、大半は本などで知っていることでしたが、印象に残った点もたくさんありました。

 >アンベドカルの仏教の目的は、生きて自由になること。輪廻転生はない。浄土往生もない。ミサイル、大砲をどう止めさせるか。闘う仏教だ。正義ある戦いだ。国を守るため、4億の民のため闘う。インド政権の前に立ちはだかる。
 走り書きでメモしたので、この言葉は、講演と、その後の質疑で出された「アンベードカルの仏教は、『小乗』的ではないか?」という質問への答えとをごっちゃにしているかもしれません。私の理解では、「小乗も大乗もない。アンベードカルは釈尊の教えを徹底的に研究して、ひとつの理解・境地に到達された。アンベードカルは正しく釈尊の教えを受け継いでいる。来世ではなく現世において、今現実に苦しんでいる人々のひとつひとつの具体的な苦の撲滅を目指すのがアンベードカルの仏教だ」という趣旨に聞こえました。

 「日本で『小乗』を学んでいる」と自称された方から、「瞑想はしないのか?」というやや棘のある質問が出されました。それに対する答えは、

 >インドには、瞑想をする偉い人もいるが、その人たちは皆、ある程度条件の整った恵まれた人たちばかりだ。インドでもゴエンカとかが印可を与えているが、そこに仏教徒はいない。上層階級ばかりだ。(ゴエンカは?)ストゥーパを建てているが、それはバラモン達の寄付によっている。
 アンベドカルの写真はたくさんあるが、どれも様々に働いている姿ばかりで、目をつぶって瞑想している写真はない。インドでは、アウトカーストは、殺される、強姦される、家を焼かれる。その犠牲者が道端に転がされている。それにどう抗議するか。どう闘うか。どう助けるか。裁判とかマスコミに運動するとか、やることはいっぱいある。
 「瞑想にうつつを抜かす暇はない。瞑想できるのは恵まれた立場にいるからであり、それはすなわち搾取する側にいるということだ。」そんなニュアンスを感じました。
 瞑想ばかりをもてはやす人たちへの強烈な非難で、愉快に感じました。また、佐々井師にとっては、瞑想と言えばまずゴエンカ氏が思い浮かんだようで、テーラワーダではないという点も、オヤと思いました。インドでは、アンベードカルの仏教とゴエンカ氏の瞑想とヒンズー教はあるけれど、テーラワーダはほとんどないのでしょうか?

 内的修行か、あるいは社会救済実践か。これは、昔からの議論です。差別の最底辺で戦い、仲間を助け出そうと懸命に働いたアンベードカルには、佐々井師のおっしゃるとおり、瞑想に取り組む余裕はなかったかもしれません。でも、これは私の想像に過ぎず、出典とか証拠は提出できませんが、アンベードカルも定における自己の集中的観察の必要性は認識していたのではないかと思います。写真はなくとも、多忙な仕事の隙間に自己観察もしていたのではないか、という気がします。
 これは私の考えですが、釈尊の教えを納得するためには、戒も定も慧も必要だと思います。しかし、人間(凡夫)は縁起の現象。置かれた状況が悪くて悪い縁にまみれれば、荒れ狂う反応となってしまい、戒定慧に取り組むこともできません。社会を穏やかなものに保つことも重要です。そして、誰もがなにがしかの気持ちのゆとりを持てる社会でなければなりません。そういう社会にするためには、社会に一定のルール、戒が必要です。凡夫には、戒定慧が必要で、それを可能にするために、社会には戒がいる。それは、戦争はしてはいけないということ、最低限のセイフティ・ネットが確保されていることと、そして、ひとりひとりが尊重されること、だと思います。
 (そのひとつの具体的方策のひとつとして、最近ベーシック・インカムという制度を知り、可能性を感じています。また、今回の世界同時不況は、物欲を煽り立てられるあり方から、人々が目覚めつつあることの現われかも知れないと感じ、次の時代に少し期待もしています。)

 世の中に背を向けて瞑想に没頭するだけではダメで、同時に、誰でもが自分に向き合えうことのできる、平穏でゆとりの持てる社会を実現し、それを保つ努力もしていかなければいけないのだ、と思います。

 また、佐々井師は、日本の現状の問題点として、子供達の教育に二度言及されました。教育について「どうこうすべき」と言うのは危険な香りがしないでもありませんが、おそらく師の言いたかったことは、建前や保身や杓子定規な「べき論」や政治的な思惑など一切合財の余計なことを取り払って、子供とまわりの大人とが正面から向き合いぶつかり合うような、そういう状況にしていかねばならない、ということではないかと想像しました。ただし、二度の言及はあったけれど、それぞれ短かったので佐々井師の意図を取り違えているかもしれません。

 佐々井師にお会いして、聖者・聖人というようには感じませんでした。自ら赤裸々に語られる不器用で失敗だらけの半生がそういう印象を与えるのかもしれません。失礼な言い方を許してもらえれば、非常に個性的な「おやじさん」といった印象です。何が個性的かというと、極めて実直で、縁として与えられた役割からけして逃げず、その誠実さと努力がまたさらに数奇な縁を呼び込み、それも真正直に受け止めていく。体力的にも精神的にも、それに耐える強さがある故に、インドであれほどのことを成し遂げておられるのだと思います。

 聖者ぶったところはさらさらなく、本音で話し、ディスカッションを楽しみ、大勢の人が来てくれたことに感謝をされて、会は終了しました。

 以上、ご報告です。
                                草々
皆空様
     2009年6月26日                 曽我逸郎
 

皆空さんから 2通目  2009,6,28,

曽我逸郎さま

ご丁寧なる報告を頂き有難うございます。

> 聖者ぶったところはさらさらなく
> 個性的な「おやじさん」
いいですね。お会いして聴いてみたかったです。

ところで

> 最近ベーシック・インカムという制度を知り
ベーシック・インカム?
私は初めて聞く言葉ですが、何の事ですか。
時間の都合がついた時で結構ですのでご教示下さるようお願いします。

2009/6/28 皆空

 

曽我から 皆空さんへ  2009,6,29,

前略

 ベーシック・インカムについては、中川村のホームページに掲載しています。

 Googleで検索すると、一時は、最初のページに出てきたのですが、なぜか突然、ヒットしなくなっているので、URLを書いておきます。ご覧になってください。
 http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/intro/v_chief/026_20080604b.html

                                草々
皆空さま
      2009,6,29,                  曽我逸郎
 

 

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