アルプスさん 曽我は宗教哲学・物理学・心理学のミックス? 如来と菩薩の違いは? 2009,3,7,

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初めてお便りします。   アルプスと申します。
他力と言う言葉に関心がありこのサイトに出会いました。私は、サラリーマンで皆様方のような仏教知識はありませんが、興味深く読ませて頂きました。 宗教哲学なのか物理学なのか心理学なのか・・・つまり それらをミックスさせたお話なんですね。 他力の意味は知っていましたが、本願力については最近知りました。言葉とは難しいものですね。

 無常=無我=縁起 参考にさせて頂きます。 私は他力と自力は一対の教えに思えるのですが。
曽我様へ質問なのですが如来と菩薩の違いは何ですか。   すみません低レベルな質問で。
失礼な文面 お許しください。
      アドレスは公開しないで下さい。

 

曽我から アルプスさんへ  2009,3,14,

拝啓

 メール頂戴し、ありがとうございます。

 >宗教哲学なのか物理学なのか心理学なのか・・・つまり それらをミックスさせたお話なんですね。
 結果的にそうなっているかもしれませんが、言い訳をさせていただくと、こういう考えでおります。

 釈尊は、自分が苦しみ人が苦しんでいる原因は、執着である、と認識され、さらに観察・分析を深められて、我々は無常=無我=縁起であり、(それを対象として)執着することのできない現象・反応であるのに、そのことを知らず(無明)、守り育てるべき自分があると思い込み、できない執着をしようと足掻いている。ここに苦の原因がある。自分が無常にして無我なる縁起の反応であることをよく見て自分のこととして納得せよ。そうすれば執着の愚かさが痛感され、執着の反応パターンは起動しなくなり、苦しみ苦しめることはなくなる。そのように教えられた、と考えています。

 この「私が無常=無我=縁起であること」こそは、他の誰もが気づき得なかった釈尊独自のユニークな発見です。「私が無常=無我=縁起であること」は、我執に深くとらわれた凡夫にはなかなか気づくことができませんが、大変シンプルな事実であり真理です。これは、単に仏教上の真理ではなく、無条件な真理だと考えます。

 一方、科学は、解明できた範囲を徐々に拡大し深めていく学問だと思います。常に解明できていない外の範囲を前提しているけれども、内側で発見された事実は、真理として尊重せねばならない。
 「私が無常=無我=縁起であること」が無条件な真実であれは、科学によっても反駁され得ないはずです。つまり、科学は、テスターとして使えます。科学にさえ否定されるような「真理」は、とても真理とは言えない。

 「私が無常=無我=縁起であること」を、私の乏しい能力の範囲で脳科学などにかけてテストしてみたところ、矛盾しないばかりか、ダマシオやリベットが言っていることは、「私が無常=無我=縁起であること」の別の表現として捉えることも可能で、言うなれば「私が無常=無我=縁起であること」を説明する方便としてさえ使えると感じています。
 (ただ、ダマシオやリベットは、無常=無我=縁起が言うところを概念・理屈としては理解していても、本当に自分のこととして腑に落ちて納得してはいないでしょうが。)

 (一点、注意しなければならないのは、釈尊は、無常=無我=縁起といっても、宇宙や世界の無常=無我=縁起については語っておられない、という点です。
 無常=無我=縁起は、「わたし」だけではなく、宇宙や世界にも当てはまるメタな真理であるのかもしれません。おそらくはそうだと思います。量子論や宇宙論などの最新の物理学は、その方向にどんどん接近している、とも感じます。
 しかし、無常=無我=縁起をそういう外に拡大する方向で解釈することは危険です。自分が宇宙によって生成されたものであることを、我々凡夫の執着心は肯定的に受け取り、容易く梵我一如型の発想に陥り、執着の反応である自分をそのまま肯定し、煩悩即菩提とか言い始めるからです。
 というわけで、宇宙論や量子論を方便として使うことは、危険だと思っています。)

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 お尋ねの「如来と菩薩」に関しては、無常=無我=縁起であることを自分のこととして納得できた人が如来・仏だと思います。
 菩薩については、伝統的に二つの意味があります。ひとつは、仏になろう、つまり人も自分も苦しめないようになろうと精進努力する人のことです。つまり、発心を起こしたら誰でも菩薩ということになります。
 もうひとつは、実は仏の域に達しているのだけれど、凡夫衆生を救うため、敢えて凡夫に混じって衆生救済の活動に励む人です。
 二番目の菩薩は、仏が神格化され凡夫からは無縁の高みに持ち上げられてしまったがために、要請されるようになった新しい概念でしょう。観音菩薩が典型です。
 本来の仏は、凡夫衆生から隔絶したありかたではなく、慈悲によって衆生を救わんと務め励みます。釈尊がそうであったように。

 またご意見お聞かせください。
                     敬具
アルプス様
      2009,3,14,         曽我逸郎
 

 

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