ねこみみさん 「はからいを捨てることにより良きものが現れてくる」について 2009,12,11,

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曽我逸郎さま

はじめまして。東京に住む51歳、ねこみみ/須藤幸一と申します。
最近ベーシック・インカムに興味を持ち、BIメールニュースから曽我さんのサイトにたどり着きました。
仏教についての、心理学、精神医学、物理学、また生物進化など、さまざまな領域からの思索に、なるほどと共感を覚えたり、あるいは自分には無かった視点に気づかされたりと、とても良い縁をいただいたように感じております。
またこのような探求を続けながら、同時に多くの方達と真摯にやりとりをされている、その在り方にも頭が下がります。
まずはそのことを一言お伝えしたく、メールを送らせていただきました。

さて、曽我さんの書かれていることには概ね共感しておりますが、一点、「さかしらなはからいを捨てることにより良きものが現れてくる」ということについて、私の思うところを述べさせてください。
確かにそこから梵我一如的傾向に陥るおそれがあるというのは分かりますが、少し違った文脈においては、また少し別の見方もできるのではないかと思いまして。
本質的には、曽我さんの考えとそれほど違いはないのかもしれませんが…。

文脈と書きましたが、例えば芸術的な活動、それも特に心身が深くかかわる、生で演じるられるようなプロセスについて考えたいと思います。具体的には、音楽や舞踊などでしょうか。また武道やスポーツなど、他にも多くの場面において当てはまることかもしれませんが。
ここで、「はからい」というものを、あらかじめ自分が思い描いた形やイメージに基づいて、周りに表現しようとすること、としてみます。その「はからい」が、自分が思うようにその場をコントロールしようとする一方的な押しつけになってしまうと、演じている側への反動として過度の緊張や努力感、あるいは焦りなども生じてくるでしょう。そして、観ている側にもそれは伝わり、どれほど高度な技を見せられたとしても、何か不自然で嘘っぽいと感じられるのではないでしょうか。

しかしそのような「はからい」を捨てると、非常に良い状態が生じることがあります。そのとき、演じている者には緊張や努力感はなく、むしろ自由自在と感じられることでしょう。また、「これは私が演じているのではない」という想いが湧いてくることもあるようです。あるいはよく「〜の神が降りてきた」などという言い方もされますが、これは、自分を通して、自分では思いもつかなかったようなこと、望んでいた以上の良きことが現れてくる、ということでしょうか。
これが単なる言い回しとしてならよいのですが、では何が、いったい誰がそれを演じているのか? というような問いを立ててしまうと、確かに梵我一如的傾向に陥ってしまいますね。でも、人間の側が持つ実感として、これはかなりリアルなのだと思います。
そして、こういった場面に一度でも立ち会いたい、というのは、演じ者にも観る者にも共通する願いではないかと思うのです。

では「はからい」を廃した場が、そのままで「良きもの」として機能するのかと言うと、そうではないと思います。しかし、互いに縁起しあう無常な現象の場には、少なくともひとつの「最適解」とでもいうような道筋が可能性としてあると思うのです。それは放っておいても自ずと現れてくるわけではなく、演じる者に、さらには観ている者にも「観察力の上昇」とでもいうような状態が生ずることによって、一瞬一瞬探られながら実現されていくのではないかと。「はからい」による場の緊張や不和は、心身の感度を落とします。
もっとも、この「観察力の上昇」には、それまでに積み重ねられてきた訓練・稽古・修行といったことも大きくかかわっているのでしょうが。

ちょっと飛躍的な比喩かもしれませんが、物質が、ミクロなレベルでは量子的な確率分布の中をまるで手探りしているかのように、しかしマクロ的には最も楽な最短の軌跡を描くように、粗雑な意識による「はからい」を離れた微細な観察力が、最適解としての良き芸術体験という軌跡を探り当てているのではないか、もしかするとそれが「慧」ということではないか…などと。

このように、「はからいを捨てることにより良きものが現れてくる」現場や、そこにいたるまでの課程を探っていくと、こういう言い方も簡単に斬って捨てるわけにはいかないのでは、と考えたくなるのですが、いかがでしょうか。

☆☆☆ 須藤幸一/ねこみみ ☆☆☆
Main URL: http://nekomimi.ptu.jp/
 Weblog: http://neko333.way-nifty.com/uraniwa/

 

曽我から ねこみみさんへ 「はからいが失せて神がかり的パフォーマンスが始まる」 2009,12,27,

前略

 メール頂戴しながら、返事が遅くてすみません。

 私は、ねこみみさんのような舞踊・舞踏は言うまでもなく、音楽も武道も自分ではやりません。しかし、書いておられるようなことは、なんとなくイメージできます。  鍛錬を重ねた人に、ある時、おそらくは集中の高まった時に、はからいが失せて、自分でも驚くような神がかり的なパフォーマンスが始まる。

 ただ、これは想像に過ぎませんが、そんな場合も、はからいを捨てようとして捨てるのではないだろう、と想像します。捨てようとすることもまた、はからいですから。  ねこみみさんが「積み重ねられてきた訓練・稽古・修行といったことも大きくかかわっている」と書いておられるとおり、神がかり的パフォーマンスは、逆に、徹底的にはからって、どうすれば自分の思い描くイメージが実現できるかとあれこれ試行錯誤して、工夫に工夫を重ねて、鍛錬を繰り返して、それを身体が覚えて、無駄な動きがなくなった段階に達した人において、集中度が高まって、はからいが自然に消えた時に始まるのではないでしょうか。

 私自身の乏しい座禅の経験からしても、はからいをなくそう、考えてはいけない、といくら"考え、はからっても"堂々巡りばかりで、定が深まることはありませんでした。反対に、数息観の努力をはからってはからって繰り返すうちに、だんだんとじっくり座れるようになり、時々はからいが消えるのだと思います。
 (ついでながら、そういう神がかり的な状態においても、ねこみみさんが「〜感じられる」「想いが湧いてくる」と書いておられるように、けして自覚のない没我の状態ではなく、その状況を自ら驚嘆しながら観察できる意識はあるのではないか、と思っています。)

 「はからいをなくすのだ!」と力んで不可能な努力に励んだ人達が、行き詰った挙句に築き上げた結果が、梵我一如的な妄想、他人のみならず本人にも訳の分からない、意味深に響くだけの非合理な主張、体系ともいえない体系だと思います。

 ですから、日本の一部の「仏教」が教えるように、「はからいを捨てよ」と教えるのではなく、反対に「一所懸命はからえ」と教えるのが正しい指導ではないでしょうか。

 はからって、はからって、反省を重ねて、自分によい癖をつけていく。その先に、ある時思いがけないことが成し遂げられる。それは、「私」が成し遂げるわけではない。無我なのですから。「私」ではなく、正しい反応パターンを身につけた色身において起こる。(色身によい反応パターンをつけさせようと努力することも縁起の反応であることについては、他で前に書いたので深掘りしません。)

 ここでひとつ疑問が生じます。練習を重ねた末に、はからいが消えて、神がかり的パフォーマンスが起こる。或いは、一挙に定が深まる。無我なる反応の縁起の努力によって、つまり主体性によらずに、これらが実現されるのであれば、梵がそれを望んでいると言えるのでしょうか。

 少なくとも、世界において、そうした神がかり的パフォーマンスや、定の深まりや、執着の愚かさの気づきが起こることは間違いありません。だけど、自然においてそれらが価値を持っているのでしょうか。宇宙に価値的なヒエラルキーがもともとあるのでしょうか。人間がいなくても、宇宙には、「すばらしい」〜「つまらない」の序列があるのでしょうか。
 いや、世界においては、縁によって、ただあらゆる実現可能性が実現しているだけであって、そこに価値の高低はないと思います。「すぐれた」も、「くだらない」もなく、たださまざまな現象が縁のままに縁起する。すべては差別なくばら撒かれている、といってもいいでしょう。

 自然の中に価値の高低はないが、釈尊の教えにおいては、目指すべきことの基準ははっきりしています。自他を苦しめないこと。そのために、いつも自分という反応に気をつけよ、と教えます。自分という反応を観察して、執着しても詮方ないものに執着して苦を作っていることに気づけ、と教えます。執着する対象は、自分自身も含めて、無常にして無我なるそのつどの縁起の現象であることを見よ、と教えます。

 ここまでの推論は、間違っていないと思うのですが、自信がなくなるのはここからです。

 では、芸術において、すぐれたものがすぐれたものであり得るのはなぜか。芸術的に優れたものは、優れているという点において、一定の普遍性、納得性があると感じます。それはどこに由来するのか。神がかり的パフォーマンスは、なぜみんながすごいと思えるのか。宇宙にその基準が初めからあるのではないとすると、凡夫、すなわちホモサピエンスの生物としての生態に基づくのでしょうか・・・?

 すみません。私の守備範囲を超えた問題です。よく分かりません。私の読んだ経典は一部ですが、その中にヒントとなるような話は思い当たりません。残念ながら、あまりお役に立てそうもないです。

 ひとつだけ付け加えると、慧というのは、無常にして無我なるそのつどの縁起の現象を、いつも化して変らぬ価値を備えた実体として捉え、執着してきた、そのことの愚かさに真底気づくこと、だと思います。

 尻切れトンボですみません。踊りの最中などになにか面白い気づきを得られたら、またお裾分けを頂けるとうれしいです。

                              草々
ねこみみ様
    2009年12月27日                曽我逸郎
 

 

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