榧さん 「文献より体験」 2005,11,14,
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曽我逸郎様
始めまして。よろしくお願いします。
私は禅に興味を持っているものです。
「自己紹介と このホームページの意図」を拝読いたしました。
そのなかで『釈尊の教えが得難い時代を末法というなら、まさに末法の今、正法を学ぼうとする時に頼りになるのは、有名なお坊さんの説法でも、禅やヨーガによる「(いきなりの)宗教的体験」でもなく、文献学的研究成果だけではないかと思います。』
という言及がありました。
私はこの事にとても違和感を感じました。
例えば、「般若心経」は宗教を文献などで学ばれた方が書かれたのではなく、宗教体験をされた方がその体験を本に書かれたのではないでしょうか。「唯識」の「阿頼耶識」なども体験されて初めて「阿頼耶識」が我々に備わっている、と理解が及ぶではないかと思います。
釈迦の言われた「自灯明 法灯明」が宗教であると思います。 榧
曽我から 榧さんへ 体験より正見 2005,11,20,
拝啓
メール拝受いたしました。返事遅くなり申し訳ございません。
文献よりも体験を重視すべきではないか、とのご意見を頂戴いたしました。
しかしながら、私は、言葉による学習を軽んじ宗教体験を過大に捉える姿勢が、釈尊の教えを執着に適う反仏教に変質させてしまった、と考えています。
八正道の第一は正見です。正見とは、「正しく(ありのままに真如を)見る」というような意味では、けしてありません。パーリ語では「見」は ”diTThi” で、その意味は ”view, belief, dogma, theory, speculation, esp. false theory, groundless or unfounded opinion”(The Pali Text Society's Pali-English dictionary による。リンクのページ参照ください。)、すなわち常見、断見、邪見などの「見」と同じ「見解」であり、つまり、正見とは「正しい見解」です。まずそれを得ることが第一になされねばなりません。
パーリ中部 第43大有明経にはこうあります。(片山一良訳 大蔵出版より)
「それでは、友よ、正見が起こるためには、どれだけの縁がありましょうか」大意はこうだと思います。
「友よ、正見が起こるためには二の縁があります。すなわち、他からの声、および正しい思惟です。友よ、正見が起こるためにはこれら二の縁があります」
「それでは、友よ、正見はどれだけの部分に支えられて、心の解脱の果とも心の解脱の果報ともなり、慧による解脱の果とも慧による解脱の果報ともなるのでしょうか」
「友よ、正見は、五の部分に支えられて、心の解脱の果とも心の解脱の果報ともなり、慧による解脱の果とも慧による解脱の果報ともなります。友よ、ここに、正見は戒に支えられています。また聞に支えられています。また、議論に支えられています。また、止に支えられています。また、観に支えられています。友よ、正見は、これら五の部分に支えられて、心の解脱の果とも心の解脱の果報ともなり、慧による解脱の果とも慧による解脱の果報ともなります」
それでは、言葉による学習、思惟をおろそかにして、体験主義に走ると、どうして仏教は変質してしまうのでしょうか?
特殊な呼吸法を続けたり、特別な状態に自分を置けば、人は、比較的容易く見たいものを見、体験したいことを体験することができます。そのようにして、渇望する宗教体験を自ら作り上げ、体験するのです。そのようにして、凡梵があり自分(アートマン)があるという梵我一如化された「仏教」が作り出され、それは容易に広がっていきます。なぜなら、それは執着に適う教えであり歓迎されるからです。(梵我一如と釈尊の教えの比較、梵我一如化された「仏教」については、2004年6月24日の和バアさんとの意見交換をご参照ください。)
榧さんがあげておられる般若心経や阿頼耶識は、そのような「仏教」ではないかと感じています。
例えば般若心経の「心無ゲー礙」は、「なにものにも覆われず妨げられない心」を考えており、それは釈尊の無我=縁起に反する考えです。和バアさんとの意見交換でつくった図で言えば、まさに饅頭の餡子、釈尊が否定されたアートマンだと思います。(般若心経については、2003年9月の山崎清巳さんとのやりとりをご覧下さい。「続きのメール」も。)
阿頼耶識についても、初めは、縁起によるそのつどの現象である自分になぜある種の一貫性があるのか、どのようにして業が果を生むのか、時間的連続性を実現する仕組みを説明するものだったと想像しますし、そういった仕組みは実際に働いていると思います。しかし、阿頼耶識という何かを想定して時間的連続性を説明すると、それは実体視されやすく、釈尊が否定されたアートマンを名前を変えて「仏教」に導きいれることになったと考えます。
言葉を軽視して、体験を過剰に重視すると、執着にかなうことを追体験して、執着をより強固にする結果になりかねない、と思います。
自灯明、法灯明とは、言葉に頼らず体験に拠れ、という意味ではなく、権威によらずに自分自身で批判的に学び考察を深め自分自身で確認せよ、という意味だと思います。有名な経典であれ、著名な仏教学派であれ、盲信するな、ということです。
自分自身で確認するためには、大有明経に従って言えば、戒と止と観という実践が必要ですが、言葉で学び考えることも絶対に必要だと考えています。
またご意見お聞かせください。
敬具
榧様
2005,11,20, 曽我逸郎