山本文匡さん 「禅は体験的理解」 2005,11,18,

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曽我さんこんにちは、山本と申します。
「仏教 経典の成立」でググっていたところたまたま貴殿の《スッタニパータはアートマンを説く反仏教!》
がヒットして、面白そうなので読み進むうちに最後まで読ませていただきました。
松本史郎や袴谷憲昭は『如来蔵思想批判』『本覚思想批判』をそれぞれ昔読んだことがあります。
実は私は臨済宗妙心寺派に属する僧侶ですので、最近の駒大仏教学者の禅仏教批判には、何とか反論したいと思っているのですが、それこそ勉強不足の為に反証することもままならず、以来忸怩たる思いでいます。
で、私たち禅僧が苦し紛れに言うことが、曽我さんも書いていらっしゃるように「禅は体験的理解である」ということです。
ただこの辺の消息は客観的文章にし難いので、古来より不立文字と言われてきましたが、やはり論争に用いるのは難しいようですね。

それと曽我さんは、禅を「集中的自己観察」とおっしゃっていますね。なるほど、判らなくもないのですが、私個人は「客観的自己観察」だと思っています。

ついつい、色々と申し上げ、失礼いたしました。
また他の文章も多々あるようですので、後ほど拝見させて頂こうと思っております。失礼します。
-- 山本文匡


曽我から 山本文匡さんへ 主客未分,不立文字,無分別知 vs 定における対象観察 2005,12,3,

拝啓

 メールを頂戴いたしました。ありがとうございます。

 偉そうに書いておりますが、私は禅については学生時代にさぼりさぼり何年か通っただけで、きちんと勉強したわけではありません。妙心寺派ではありませんが、京都の結構有名な臨済宗のお寺で雲水さんたちに混ざって参禅もさせていただいておりました。最初の無門関第一則も完全に通ることはできませんでしたが、、、。
 その時に習ったのか自分で勝手に思い込んでいたのか今では分かりませんが、「座禅とは、数息観から入って何も考えない無念無想の状態になり、それをなるべく長く持続すること」と思っていました。その結果どういう効果が期待できるのかも分からないまま、神秘主義的な想像をしておりました。
 主客未分、不立文字、無分別知・・・・これらをキイワードにして、その頃考えていたのはこういうことです。

 「普段我々はいつも何かを対象にして見たり聞いたり考えたりしている。当然、主客が分裂している。世界を考えても、考えている自分は世界の外にいる。その世界は自分を含まない世界だ。全体ではない。また、自分を考えても、それは考えている自分とは別の対象化された自分だ。今・ここで考えている自分は永久に捕らえられない。対象化がある限り、世界の全体も、本当の自分も、けして知ることはできない。これらの困難の原因は、対象化にある。対象化を停止すれば、主客の区別はなくなる。世界の中に対象を切り出さないのだから、言葉はもはや成立しない(不立文字)。対象化が停止すれば、なにものも対象として分別しない智、自分も含めた真に世界の全体を一挙に知る智(無分別知)が発動するのではないか。」

 つまり、自分の無常=無我=縁起を骨身に沁みて痛感すること(=仏教)ではなく、自分を含む世界の全体を一挙に知ろうとしていたわけです。まさに梵我一如型の発想であり、それは私のホームページの出発点である「あたりまえ・・・般若経」でご覧になって頂けます。

 その後、たくさんの方々からご意見や刺激を頂き、いくらか本も読み、思い至ったことは、対象化(=意識の指向性)が停止した状態になっても、世界の全体を一挙に知る智が突出することなどはなく、単に外の対象を感知せず、内の妄想もなく、インプット(=縁)のなくなった状態であり、「私」は起こらず(=縁起せず)、ただ私が発生しなくなっているにすぎないのではないか、ということです。その間は、まあ確かに言ってみれば、我は無くなっている(≒無我である)のだけれど、それは、熟睡状態や全身麻酔の昏睡状態と同じで、その間だけのこと、何も後に残らない。ダマシオが「もぬけの殻状態」と呼んでいる欠神発作も同じでしょう(講談社『無意識の脳 自己意識の脳』P23)。そういう状態になったことさえ自分では分からない。ブッダダーサ比丘の言う「深すぎて役に立たない定」だと思います。365日毎晩眠っても少しも覚ることができない(目覚めることはできても)ように、何度どれだけ意識の指向性を停止しても、無常=無我=縁起を知り執着を吹き消すことはできないと思います。
 そうではなくて、欲に走ったり、腹を立てたり、はしゃいだり、そういう日常の私が無我なる縁起の現象にすぎないと腹の底から納得すること。それがなければ、執着の反応の愚かさを痛感し、それを停止し、苦を作り続けることをやめることはできないでありましょう。
 その方法は、対象化の停止とか意識の指向性停止ではなく、反対に自分を徹底して対象化しリアルタイムで凝視・観察し、対象化した自分(ノエマ自己)ににじり寄って行き、ノエマ自己とノエシスの距離を限りなくゼロに近づけること。これは勿論普通の科学的な観察ではなく、定における自己観察、止と観の一体化でなければならないと思っています。この方法では、理屈の上ではノエマ自己とノエシスはいまだ分裂しており、厳密には「そのつど働いている本当の自分」を知ることはできないのですが、「本当の自分を知ること」が仏教の眼目ではなく、(「本当の自分」などないのですから、)「自分が無常にして無我なる縁起の現象であったと知ること」こそが仏教の核心であり、それはこの方法で達成できるのではないかと考えています。

 はなはだ禅的でないことを禅的でない書き方で書きました。しかし、中国とそこからさらに東に伝わった「仏教」を別にすれば、「仏教」は南伝でもチベットでも、非常に分析的であり、カテゴリー化して対象化する傾向が強いと感じます。時代とともにカテゴリーが細分化し分析的傾向が強まったり、またその反動もあったと想像しますが、元々の釈尊もおそらくは分別的・分析的であり、対象化を否定してはおられなかったと思います。

 最初に書きましたとおり、私の禅解釈ははなはだ勝手な思い込みにすぎません。以上は、そういう思い込みからの推論です。分かっていない所がはなはだ多いだろうと自覚しています。その部分を教えてくださり、分からせて頂ければ大変ありがたいです。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。
                                 敬具
山本文匡様

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