prbdxさん 「般若心経で言うところの実体とは何?」 2005,11,25,

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すべての現象、ものには実体がないうときの意味する「実体」とはなんでしょうか? 魂でしょうか? アートマンなのでしょうか?  何を定義しているのでしょうか? そもそも般若心経は釈迦仏教なのでしょうか?  歴史的には紀元後の成立なのでしょう。 柳沢さんの本「生きて死ぬ知恵」には疑問を感じます。「空」は釈迦(仏陀)の教えなのでしょうか? ヒンズー哲学に堕してしまったのではないか、なんとなく仏教の「空」はヒンズーの「マーヤー」説の概念に近いというか、言葉の言い換えにすぎないように感じます。曽我さんはどうかんじられますか?


曽我から prbdxさんへ 般若心経は自然な見方に導かれた梵我一如 2005,12,3,

拝啓

 実体についてご質問をいただきました。般若心経は、「実体」という言葉を使っていないと思いますので、的を射た返事になるか分かりませんが、私の考えを書いてみます。

 仏教で「実体」にあたるものは、やはりアートマンであろうと思います。アートマンとは、「恒常で、独立自存し、主体性自律性を有し、あれこれを主宰しているものとして想定されたもの」だと考えます。要は、無常や縁起とは正反対の概念であり、釈尊は、「無我であり、そんなものは存在しない」と否定されました。

 我々が自分やものに執着するのは、上の定義ほど厳密ではなくとも、なにかそのようなものを無意識のうちに想定しているからだと思います。無常にして無我なるそのつどの縁起の現象を、変わらぬ価値を持って独立自存し続ける存在として誤って捉えることは、動物が進化の過程で身につけた自然な自動的反応です。この反応は、苛酷な環境を生き抜くことには有利に働きましたが、同時に苦も生み出しました。自然な自動的反応を無反省に繰り返して苦を作り続けるのではなく、努力を重ねて、注意して、はからいを極めて観察することによって、自然で自動的な荒っぽい不注意な捉え方の間違いに気づき、執着のあさはかさを知ること、これが仏教だと思います。

 般若心経が釈尊の教えかと問われれば、4,5百年の時代を経ており、釈尊の教えではないと考えます。
 時間的な隔たりだけではなく、思想的にもそう考えます。般若心経は、仏教の重要な概念を片っ端から「無ー無ー無ー」と否定しておきながら、最後には「無ゲー礙(覆われておらず妨げのない)である心」に期待しています。「覆われておらず妨げのない心」とは、解放されたアートマン以外の何ものでもなく、故に、般若心経は、仏教であるどころか、仏教に敵対するところの梵我一如型思想を説くものだと考えます。

 空については、大乗の創作というわけではなく、かなり古い経典にも散見されるようです。元々は、上に書いたようにアートマンがないこと、無我であることと同内容な、「空っぽである」という意味だったと考えます。それが次第に名詞化され、対象化され、ものとして実体視されて、梵我一如の梵(ブラフマン)の呼び替えになってしまいました。
 般若心経の「空」は、すべての個物と一体(=即)であり、対立を超えており、超越的かつ内在的であると説かれており、やはり、ブラフマンの呼び替えになっていると思います。

 般若心経が意図的に梵我一如を説いたとは思いませんが、梵我一如型の思考は、自動的に陥りやすい自然な発想で、よほど注意をしないと執着によって容易にそこへ導かれてしまうのです。般若心経は、「仏教」の中に混入した梵我一如型思想のひとつであり、「仏教」をますます梵我一如化することに大きな役割を果たしたと思います。

 柳沢さんの本「生きて死ぬ知恵」というのも、ヒンズーの「マーヤー」説も存じ上げないので、両者については何もコメントできません。申し訳ありません。

 またご意見お聞かせください。
                           敬具
prbdx様
        2005,12,3,          曽我逸郎


prbdxさんから 経典自体の信頼性にも疑義が 2005,12,10,

「般若心経でいうところの実体とは何をいうのでしょうか?」に回答いただきありがとうございました。明解な回答でずっとくすぶり続けていた疑問を一つ解くことができました。

「仏教で「実体」にあたるものは、やはりアートマンであろうと思います。アートマンとは、「恒常で、独立自存し、主体性自律性を有し、あれこれを主宰しているものとして想定されたもの」だと考えます。要は、無常や縁起とは正反対の概念であり、釈尊は、「無我であり、そんなものは存在しない」と否定されました。」
と曽我さんの説明にあったように、仏教の立場としては、基本的に「無我説」に立つといっていいでしょう。最近の学者は「無我」というよりも「非我」というような表現をする方も増えてきているようにも思いますが。中村元博士門下の宮元啓一氏は「最初期の仏教では無我ではなく、非我説が説かれていたとみるべきである」さらに「無我説は釈尊には似つかわしくない」とまで言い切っています。『仏教誕生』173p-174p (スッパニパータに依拠しているための発言か?)

松本史朗氏の「スッタニパータはアートマンを説く反仏教」が正しいとすると、「無我説」が正しい。そうすると輪廻説が成立しない。反対にスッパニパータに依拠すると、、「無我説」が成立しない。どっちが正しいのか? 釈尊の真意はどっちなのか? これほど思想にゆらぎがあるのは、そもそも経典自体の信頼性にも疑義が生じるのですが、いかがですか?


曽我から prbdxさんへ 無我vs非我、執着に導かれた考えの混入 2005,12,12,

前略

 私はやはり、釈尊は、「非我」ではなく「無我」を説かれたと考えます。

 「非我」とする考えは、「あなたたちが我だと考えているものは、AもBもCも、本当の我ではない。真の我は、もっと別にあるのだ」、そのように釈尊は説かれたと考えているのでしょう。
 しかし、この考えでは、結局のところ「真の我がある、それを追及せよ」ということになり、レトリックを一捻りしただけで、それまでのインド土着の考えから代わり映えのしないものになってしまいます。釈尊の教えが、そのようなありふれた退屈なものである筈はありません。

 我は無い、存在していない。しかし、縁によってそのつど現象している。その現象は、しばしば我が有ると思う反応となり、有る筈の我を守り育てようとする反応となり(業)、その結果、苦しむ反応となる(果)。

 このように言うと、普通の言葉に、殊更に「現象」とか「反応」といった単語を割り込ませただけで、それこそ単なるレトリックだと感じる人もいるかもしれません。しかし、主語があり述語がある普通の我々の言語で無常=無我=縁起を厳密に語ることには、限界があります。「離言」とは、「言葉の届かぬ、言葉の相対性を超越した絶対的な何かがある」ということではけしてなく、「まず先に何かがあって、それが働く」と考える執着に導かれた自然な見方(=我論)、それが主語・述語がある普通の言葉の根底の構造なのですが、そういった「我あり」という執着に導かれた言語によって無常=無我=縁起を直接に語ることは不可能である、そういう意味に理解したほうがいいのではないかと思います。

 なにか主語となるものが先にあって、それがなにかをするのではありません。「(何かが)起こる」という述語が(縁により)まず起こって、それによってその主体が仮構されるのです。今ここでメールが打たれているのも、私がいてキイボードを叩いているのではなく、キイボードを叩くという反応が起こって、叩く私が仮構されている。キイボードを叩いている時、キイボードを叩くことが私なのです。仮構する私が仮構しているのではなく、仮構する反応によって、仮構する主体が仮構されているのです。「火が燃える」と言うけれども、火が先にあってそれが燃えるのではなく、燃焼という現象が起こって、そのことによって「火」という主語が仮構されるのです。

 経典の信頼性については、おっしゃるとおり、多くの矛盾が内包されており、釈尊のお言葉だけがそのまま保存されているとは思えません。無常=無我=縁起と輪廻転生とは、矛盾の最たるものでしょう。ただし、必ずしも意図的に捻じ曲げられたとは思いません。釈尊ご自身が、執着に凝り固まった人になにかを説くとき、その執着を前提に話をされたこともあったでしょう(対機説法)。また、人は執着に導かれたものの見方に陥りやすく、それに沿って釈尊の教えを誤解した弟子が、良かれと思って親切心からその誤解を分かりやすく伝えたこともあったと思います。

 釈尊から直接教えを聞いていた弟子の中でさえ、間違った見解に凝り固まって、仲間から諌められ、釈尊からも叱られた者がいました。サーティという比丘は、「<識は流転し、輪廻し、同一不変である>そのように世尊は説かれた」と主張して、皆から、「世尊を誹謗してはならない。世尊は<縁がなければ、識の生起はない>と述べておられる」と諭されます。(片山一良訳 パーリ仏典中部 大蔵出版 第38大愛尽経から要約)
 釈尊から直接教えを聞いていてもこういうことがあったのですから、釈尊亡き後においては、執着に導かれた誤解が、はじめは徐々に、やがて勢いを増して「仏教」に混ざりこんだと想像します。

 しかし、これは無理もないことです。成道後間もない釈尊は、「私のさとった縁起という真理は深遠であり、執着のこだわりを楽しんでいる人には見がたい」と考えておられるのですから(中村元選集[決定版]春秋社、第11巻P444)
 (ついでながら、同書P432には、「<おれがいるのだ>という慢心を制することは、じつに最上の楽しみである。」という言葉も紹介されています。これは明らかに、非我ではなく無我だと思います。中村元の訳を信頼する限りは。)

 偉そうに言っておりますが、客観的に見れば、私の理解もまた正しいのかどうか不明です。自分の理解を継続して批判的に検証していく。この努力によってのみ、釈尊の教えに少しずつ近づいていけるのだと思います。prbdxさん(すみません、勝手に名前をつけました)にも、その協力をいただければ幸甚です。

 今後ともよろしくお願いします。
                          草々
prbdx様
      2005,12,12,          曽我逸郎

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