ネルケ無方さんと 無我、主体性、自由な選択、決定論的主体性

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曽我から、安泰寺・ネルケ無方さんへ 雪見舞い 2005,12,15,

 あちこちで12月としては記録的な大雪となっているようです。安泰寺はいかがですか?

 中川村も、12月にしては珍しく雪の舞う日が多く、積もってはおりませんが、朝方は路面が凍結しています。

 雪おろし、雪かきで怪我などなさいませんように、お気をつけてください。

ネルケ無方さま
        2005,12,15,                 曽我逸郎


ネルケ無方さんから 曽我へ 無我、主体性、自由な選択 2005,12,18,

曽我様
メールをありがとうございました。
私は実は、昨日までテレビ出演のためドイツに帰っていました。今は大阪、嫁の実家です。明日は帰山するつもりですが、安泰寺は雪に埋もれている模様。バス停から四キロはカンジキを履いて上らなければなりませんが、問題は浜坂駅からバスが出ているかどうかです。大雪の時はバスも電車も運休が続くことがありますから・・・
留守番は今、5・6人が山に居ますから、大丈夫みたいですが、仰るとおり、雪山は想像する以上に恐ろしいものです。過去三十年に安泰寺の修行者は2人が雪で死んでいます。
地球の温暖化で毎年雪が少なくなってきているという話も聞きますが、私の経験では、安泰寺では10年前が一番雪が少なく、ここ数年は逆に多くなっています。12月初め頃雪が積もりだしたのは、20数年ぶりです。そして、今年の春みたいに、4月の半ばまで雪が残ったのも20数年ぶりです。単なる温暖化ではなく、気象のバランスの狂いでしょうか?
合掌
無方

追伸:
主体性の問題ですが、人間がロボットではないというのが、われわれの直感ですし、ロボットだったら、そもそも「私」という意識がなくてもいいはずです。ところが、「私」という主体が「ある」というと、また色々な問題が生じてきます。
曽我さんの主体性に関する考えを読んで、他にも色々読んで、疑問に残るのは、「人間、またはその他の動物が(脳内で)シミュレーションをし、いくつかある選択筋から選択して行動をする、と言っても、もしこの選択が自動的でもランダムでもなければ、どこに『自由に』選択している主体があるのでしょうか?その主体が一瞬一瞬にして移り変わってゆくにしても、『そのつど』の『プチ・アートマン』にはなりはしませんでしょうか?逆に、自由に選択する主体がないというのであれば、人間の脳は単細胞よりはるかに複雑な機械だけれども、機械には代わりがなく、シミュレーション自体も自動的に行われ、選択も自動的に、あるいはランダムに、行われるということになってしまいます。そのほうはアートマンの匂いが全くなくすっきりしますが、はたして『私が機械?』」という思いです。
私自身も、答えはありませんが、「自由に選択している私」が幻であってもいいではないかと思います。朝4時に起きて、坐禅をしたという事実が「必然的にそうなった」事実だとしても「私がそう選んでやった」ことであっても、やったことそのものには代わりがありませんから。ただ、「必然的にそうなった」という時、「それなら、昼まで寝ていよう」という思いが起こりがちではないでしょうか(少なくても、私の場合)。しかし、その思いがおかしいですよね。私のすべての行動が「必然的にそうなった」というのであれば、「起きよう」「寝ていよう」と選択する余地がないはずですから。「自分で選んで行動する」と思い込んで(?)いる人に限って、「起きよう・寝ていよう」という特権があります。
私の思いは、まぁこんな程度です。


曽我から ネルケ無方さんへ 生命に本源的な決定論的主体性 2006,1,7,

拝啓

 あけましておめでとうございます。

 当地はおかげさまで日陰以外は雪のない正月ですが、安泰寺は一層雪が深く積もっているのではないかと思います。ご無理なさらぬよう気をつけてください。

 新年の祈願。自分を実体視して、それを守ろうと過剰反応を起こし、疑心暗鬼に陥って、敵を妄想し、結果かえって相手も自分も苦しめているという愚かさに気づく人が、わずかでも増えますように。

・・・・・  さて、主体性の件、返事が遅くなって申し訳ありません。

 以前に書いた小論「無我なる縁起の現象に主体性はいかにして・・・」や「クオリアとホムンクルスを仏教の視点から・・・」においては、「主体性は進化のある段階でシュミレーションによって複数の選択肢を得ることによって生まれる」というように考えておりました。しかし、今回メールを頂いて、新たな発想を得ることができました。

 生命は、本性的に生き続け育ち増えようとする。この生命のそもそもの本性を、主体性といってもいいのではないか。つまり、<選択肢を得ること>以前に、生命本来の生きんとする強い傾向・ベクトルこそが、既に主体性ではないか。原初の生命にも、主体性はある。ただし、この主体性は、原則的に決定論的な主体性です。生命は、生きながらえようと、決定論的・自動的にもがきあがく。この生命の本源的自己駆動力こそが、主体性とよばれるべきだと考えます。決定論的であっても、、、。

 決定論的・自動的であるのなら、ロボットとなにが違うのか? そう問われるかもしれません。しかし、ロボットには、こういう主体性はありません。ロボットは、プログラムにない事態にでくわすとフリーズしてしまいます。一方、生命は、ゾウリムシであっても、異常事態に陥れば、がむしゃらにもがきあがいて、なんとか生き延びようとします。このがむしゃらさこそが主体性の原動力だと思います。

 やがて感覚器官と中枢神経が発達して、外部の利害にかかわる対象をクオリアとして捕捉し、条件反射ですばやく反応することが可能になります。この段階でも、主体性は決定論的です。

 そして、長期記憶を保持しそれを参照することと、自分自身を対象化すること、ワーキングメモリが可能になり、これらを組み合わせて、シミュレーションが行われるようになる。ここでようやく主体性は選択肢を持ちます。シミュレーションの結果を再度対象として検討することが可能になり、試行錯誤の結果、実行可能な選択肢の数は、指数級数的に増える。

 この繰り返しの試行錯誤のサイクルのどこかで、あるいは参照する記憶が浮上する過程で、量子論的な非決定性が紛れ込み、主体性は非決定論的になるのかもしれません。

 しかし、このメールを書きながら、今、「非決定性は主体性に絶対に必要か」と自問しています。我々という反応に、非決定性があったとしても、それは単に偶然性が入り込むだけで、我々の「主体性」が増えるわけではありません。
 「私の行動は、決定論的に定められてなんかいない、私が自律的に決断しているのだ。」 ついつい私たちはそう考えますが、そう思いたいのは、結局のところ、「自律的私がいる」というアートマン型発想の尾を引きずっているからではないでしょうか。

 私とは、非常にたくさんの反応サイクルが積層したところで起こっている反応です。その時々に受ける外部からの縁、生理的な内部の状況、蓄積した経験など、さまざまな縁がせめぎあいつつ複雑に絡み合った中で、主体性に駆動されて、可能な多くの選択肢のなかから、その時々の条件に最も適合した反応が決定論的に発動してきます。
 その「最適」の基準は、通常は「実体視した自分を守り育てるのに有利か」という我執です。我執により決定論的に発動した行動を主体的に繰り返す。その過程で、経験を重ね、学習を積み、ある時、我執による行動がかえって苦を作っていることに決定論的に気づく。そして、その苦をなんとかなくしたいと決定論的に発心する。
 その結果、反応を決定する要因(外部からの縁、内部の生理的状況、記憶の参照、我執の反応パターン)に、宗教的努力の反応パターンも付け加わる。それらが絡み合いせめぎあって、私たちというそのつどの反応は決定論的に発動してくる。生理的欲求と我執の反応パターンが結びつき、苦を作る反応が発動することもある。宗教的努力の反応パターンが起こることもある。それらの反応を繰り返していく中で、経験・学習の蓄積、シナプスの可塑的変化があり、反応パターンの傾向は決定論的に変化していく。

 このように考えてみると、努力しようとしながら、ついつい欲望に負けて易きに流れる私自身のあり方によくあてはまります。

 「努力しようとするのが<私>で、それがしばしば(私ではない)欲望・執着に負けてしまう」と考えてしまいますが、それは、<努力する私>をノエマ自己として対象化し実体視しているだけであって、本当は、努力する反応も、我執の反応も、生理的反応も、すべてが等しく私を構成する反応です。それらがせめぎあい縁起しあう中から、私というそのつどのさまざまな反応が縁起してくるのだと思います。

 今回無方さんに刺激していただいたお陰で、非決定性を持ち込まなくても、生命に本源的な決定論的主体性だけで、主体的努力を説明することは可能ではないか、と思い至りました。そして、非決定性を欲するのは、「自律的私がいるはず」という我執の反応であると思います。

 勿論、量子的な非決定性は、私たちの反応プロセスの中で働いているのかもしれません。その可能性はかなり高いような気がします。量子的非決定性があれば、私たちの反応の可能性の幅は広がり、その結果、私たちは多様な経験が可能となり、それによって反応パターンが改編されるスピードが上がります。
 しかし、量子的非決定性は、学習スピードの向上に資するだけで、我々の主体的努力が可能になるための不可欠の条件ではありません。我々は、生命であることによって、自動的主体的に努力することが決定論的に決定づけられている。初めは、その決定論的自動的主体的努力は、自己保存、我執の反応としてそのつど発動しているが、やがてそのことによる苦に気づき、決定論的に発心し、決定論的に宗教的努力もするようになる。これら一連のことを一貫して実現しているのは、生命であることと等価である決定論的主体性の駆動力である。

 昔、なにかの本で、我々がなにかをしようと「主体的に」決断する時、その決断より一瞬前に、脳の中でそれに先行する信号が出ていることが、実験的に発見された、と読んだ記憶があります。決定論的主体性の考えは、この発見に適合するようにも思えます。

 しかし、それでは自由意志はないのか? 自由と責任の概念は崩壊するのか? こういう疑問が起こります。確かに、決定論的主体性の考えでは、自由意志も責任も、意味を失うことになりそうです。このことは、問題意識として抱えながら、もう少し検討を重ねていきたいと思います。

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 ドイツ人のネルケさんへのメールはいつも、普通の日本人に送るメールよりもっとねじくれた日本語になってしまい、申し訳ありません。ネルケさんとのやり取りでは、自分とはなにかという困難な問いを正確に考えることを求められているように感じて、不自然な文体になってしまいます。

 本年も良い刺激を与えて頂ければ幸甚です。よろしくお願い申し上げます。

                             敬具
ネルケ無方様
         2006,1,7,           曽我逸郎

追伸
 『ゴータマ・ブッダ考』という本を読んで、「涅槃」や「煩悩の滅」の元々の意味は、「しっかりと覆いをして煩悩を制御すること」であったかもしれない、という可能性を知りました。もしそうだとすると、仏といえども、煩悩は小さくとも内に抱え続けていることになります。これはつまり、無方さんが、「執着の反応を絶やすことは不可能」、「凡夫と仏は同居」とおっしゃっていることに繋がるのかもしれません。ホームページの小論「『ゴータマ・ブッダ考』を読んで」にまとめました。ご批判頂ければ幸いです。

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