ネルケ無方さん <続き>主体性、「自由な私」の意識、道元「迷を大悟する」 2006,1,18,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

曽我逸郎様

ご返信ありがとうございました。
昨日までは日本の太平洋側に托鉢に出かけており、返事が遅くなってしまいました。
「この生命のそもそもの本性を、主体性といってもいいのではないか。」・・・新しい、面白い発想だと思います。
しかし、「生命本来の生きんとする強い傾向・ベクトルこそが、既に主体性」だとすれば、広い意味での梵我一如的な発想につながりはしないでしょうか。といいますのは、各個人が持っている「意識する私」を普段「主体」と思われがちですが、そうではなく、「生命本来の生きんとする強い傾向」が主体だと、個人持ちの「私」ではなく、その個人を支えている「生命本来の生きんとする」力、「天地いっぱいの命」、「永遠の命」につながりかねません。これを広い意味で梵我一如型といえるではないかと思いますし、私が実践している道元禅もひょっとしたらこのパターンかもしれません(ですから、私はこの発想が必ずしも間違っているとは思いませんが、今までの曽我さんの考えと食い違いが出てくるのでは・・・と思います)。

「非決定性を持ち込まなくても、生命に本源的な決定論的主体性だけで、主体的努力を説明することは可能ではないか」という思いは、失礼な言い方かもしれません、今まで私はむしろこの考えを自然学者・近代哲学者の間で主流だ思っていましたし、あるいは常識だと思いました。
「我々は、生命であることによって、自動的主体的に努力することが決定論的に決定づけられている。初めは、その決定論的自動的主体的努力は、自己保存、我執の反応としてそのつど発動しているが、やがてそのことによる苦に気づき、決定論的に発心し、決定論的に宗教的努力もするようになる。」・・・曽我さんのいわんとしてれいるが分からないせいか、生意気ですが、決定論が主流の近代学では、そんな事なんてあたりまえではないかとさえいえるではないかと思います。私から見れば、むしろ以前の曽我さんの「私たちの98%以上は自動的反応だが、1%か2%が自由な選択」という思いが興味深いのです(なぜなら、私にその発想が全く分からないからです・・・1%の自由がどこから来ているのだ?!)

言われているように「我々がなにかをしようと「主体的に」決断する時、その決断より一瞬前に、脳の中でそれに先行する信号が出ていることが、実験的に発見された」というのがありますから、ほとんどの人(もちろん一般人ではなく、理論家です・・・そして理論家も日常生活の上ではそうではないでしょう。これが実は大きな問題だと思いますが)は「自由がない」と言い切っています。自由がないというのは、主体も要らない、ホムンクルスもない、アートマンなんて当然ないのは今の科学の常識ではないでしょうか(理屈上では)。
茂木さんのように「では、なぜ私たちが世界をホムンクルスの視点からしか眺められないのか」と問い直すのはむしろその「常識化してしまったアートマンの不在」への反論だと思います。もちろん、茂木さんは決してホムンクルス・アートマンが実在しているとは言わないが、「なぜいかにもこれが実在しているように私たちが感じるのか」と問題定義しているように思います。
確かに絶版になっているが茂木さんのホームページからダウンロードできる彼の処女作では臨時体験が問題視されています。手術中に意識のない患者がオペを天井から眺めているというような体験・・・なぜ意識が例えば宇宙にばらまかれるのではなく、天井の一点から周りを眺めてしまうのか、と問うています。ここにも茂木さんは答を出していませんし、今どう考えているか分かりませんが、ホムンクルスの問題に繋がっていると思います。自由があるにしても、ないにしても、なぜ我々がいかにも自由に決断し行動しているという問題もあります。

少派ではありますが、EcclesやPenroseのように、アートマン的な自由な自我を支持している人はいます。彼らにとって「私」は「脳内現象」ではなく、私があって、自分の脳を道具のように使い、世界に働きかけます。彼らの「自我」は量子的な非決定性によって脳内に入り込んで、Switchを入れたり決したりしますが、ほとんどの人はそれを幻と断言し、「category mistake」と言います。茂木さんはアートマン的自我を支持していないでしょうが、あえて「ニュートンまでリンゴと太陽の動きを御ジャイ重力で考えるのは同じcategory mistakeでしたが、そこを突き破ったのがニュートンの偉大さ」というようなことを言いますから、主流になっている決定論を何とかして越えようとしているのは確かだと思います。

哲学者で「人間は自由でなくてはならない」は倫理の分野で多いと思います。決定されてしまうと、全ての人は啓示的責任が取らなくなってしまい、倫理が仕事にならなくなりますから。
しかし、私から見て、決定論(量子的な非決定性による偶然・カオス論理があってとしても)の一番の問題はやはり、「ではなぜ『自由な私』という意識があるのか、それがなくてもよいか(どうして「私」は哲学的ゾンビーではないか)」ということではないかと思います。無我なのに、なぜ私たちはバラバラの「私」という視点を持ち、その視点からしか世界を眺められないのか・・・そしてもし私たちが本当に全体という大きな働きの中の小さな、決定された歯車に過ぎないのであれば、どうしてなかなかそれにきづくことなく、「自我」ばかり強くしているのか、ということです。

「『ゴータマ・ブッダ考』を読んで」を読んで、まず思うのは、「しっかりと覆いをして煩悩を制御すること」というのでは、私が理解している「仏」からまだほぼ遠いということです。煩悩が煩悩としてハッキリと見えた時には、煩悩そのものは消えませんが、少なくとも煩悩としての力を失います。その煩悩を殊更に「制御」しようとするのであれば、煩悩が逆に強くなり、苦も増してくると思います。「仏は自覚を持った凡夫」だと私は思います。「自覚を持たないのが本当の凡夫」ですから、仏と凡夫のハッキリした違いは一応あると思います。
私のそうした根拠は道元禅師の「現成公案」の

「迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。」
という文などです。ここでいう「「迷を大悟する」というのは「転迷開悟」ではなく、迷いを迷いとしてハッキリと見つめ、理解し、受け止めることだと思います。その逆に「悟に大迷なる」とは「涅槃」というものを想定し、「俺も修行して、仏になって涅槃でクツロギタイ」と頑張ることだと思います。「仏は涅槃でくつろいでいる」というような文章は確かに曽我さんのホームページのどこかにあったと思いますが、それも梵我一如的志向ではないでしょうか。

そもそも梵我一如とは何か、いっぺん分析しなければなりませんが、狭い意味での梵我一如は密教にあったとしても、仏教にはあまりないと思います。秋月龍眠の「誤解だらけの仏教」という本の中には、「仏教は梵我一如ではない」という一章もありますが、理由として「釈尊は無我の我を覚ったのだから」とあります。ところが、この無我の我こそ怪しいはずです。無我の我を覚ることこそ広い意味での梵我一如でしょう。道元禅においては、無我を覚るという表現はありませんが、「生死」のなかには

「この生死は、すなはち佛の御いのちなり。」
という文章があります。曽我さんの「この生命のそもそもの本性を、主体性といってもいいのではないか。」を読んで、まずこの「仏の御いのち」が思い浮かびましたが、ある意味ではこの「いのち」も「梵」にあてはまるのでは?それに「我」が合体するという思想ではありませんが、広い意味での梵我一如的思想といえるかもしれません。しかし、ここまで来ますと、私はあまり抵抗を感じません。むしろ仏のくつろいでいる涅槃という幻(?)に抵抗を感じています。
道元禅師の「生死」のなかにはさらに梵我一如っぽい表現があります。
「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛のいへになげいれて、佛のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ佛となる。」
まさに真宗のような発想に聞こえますが、私が思うには、「佛のいへになげいれて」というのは叢林(仏の家)に自分を投げ入れる、つまり肉体的と精神的に出家することだと思います。最後の
「佛となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のためにあはれみ、ふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとうこころなく、ねがふこころなくて、心におもうことなく、うれうることなき、これを佛となづく。またほかにたづぬることなかれ。」
もそこ(叢林における実践的修行生活)を指しているのではと思います。

ドイツ語で「幸せ」について本を書こうと思っています。だいたいこういう内容です。

「幸せになろうともがくからこそ、『生きている(生かされている)』というそもそもの幸せの実感まで逃げてしまう。不満・苦ぐるめの今の自分を受け入れれば、その不満は意外、苦でないということがみえてくる。」
というような話です。仏教における涅槃と苦、仏と凡夫も似たような関係にあるのでは、と思います。決して仏も凡夫も似たようなものだと私は思っていません。金持ちなろう、いや幸せになろう、いや仏になろうと頑張っているのが凡夫。そこに気づき、その無理ながんばりを抑えるのではなく、むしろ手放しているのが仏だと。もちろん、「手放し」で立ち止まることなく「自未得度先度他」という菩薩行がそこから始まらなければウソになってしまいます。

まぁ、私の考えはだいたいこんなものです。長文になってしまいましたが、去年とあまり変わらない私の愚見です。
ご批判をよろしくお願いいたします。

合掌
無方


曽我から 無方さんへ 無我=縁起 vs 自由。発心・精進は必然の道 2006,2,12

拝啓

 良い刺激を頂いて、いろいろと考えることができました。長いメールをお送りしますが、無方さんにはおそらくご迷惑かもしれません。お許しください。

>「生命本来の生きんとする強い傾向・ベクトルこそが、既に主体性」だとすれば、広い意味での梵我一如的な発想につながりはしないでしょうか。といいますのは、各個人が持っている「意識する私」を普段「主体」と思われがちですが、そうではなく、「生命本来の生きんとする強い傾向」が主体だと、個人持ちの「私」ではなく、その個人を支えている「生命本来の生きんとする」力、「天地いっぱいの命」、「永遠の命」につながりかねません。これを広い意味で梵我一如型といえるではないかと思います
 「主体性」という言葉の選択が適切でなかったのかもしれません。「生命本来の主体性」といったのは、「天地いっぱいの命」とか「永遠の命」というような神秘的なヤンゴトナキものではなく、あらゆる生き物に見られる最期まで生き延びようともがき足掻く即物的な反応のことです。そういう反応が生命なのだと思います。我々人間の我執や努力や発心や修行といった高度(?)な反応も、この「もがき足掻く反応」が、進化につれて形を変えて発現していると考えています。
>「非決定性を持ち込まなくても、生命に本源的な決定論的主体性だけで、主体的努力を説明することは可能ではないか」という思いは、失礼な言い方かもしれません、今まで私はむしろこの考えを自然学者・近代哲学者の間で主流だ思っていましたし、あるいは常識だと思いました。・・・決定論が主流の近代学では、そんな事なんてあたりまえではないかとさえいえるではないかと思います。私から見れば、むしろ以前の曽我さんの「私たちの98%以上は自動的反応だが、1%か2%が自由な選択」という思いが興味深いのです(なぜなら、私にその発想が全く分からないからです・・・1%の自由がどこから来ているのだ?!)
 奇抜さを狙っている訳ではありませんので、結果的に常識的で陳腐な主張かもしれません。しかし、かつてA・Hさんに指摘されたとおり、そして今ネルケさんがおっしゃているとおり「釈尊の教えに従い無我=縁起を前提に突き詰めるならば、自由は成立し得ない」とようやく思い至ったのです。
 自由は、選択肢があるだけではまだ十分ではなく、そこで「思いのままに」スイッチを切り替える「主体」が必要です。ところが、釈尊は、そういう「主体」の存在を「無我」の教えによって否定されている。だから自由はありえない。たとえ量子論的非決定性が作用して人間の行動が非決定論的であったとしても、それは偶然に支配されているだけであって、自由が生まれている訳ではありません。無我=縁起であるならば、すなわちモビルスーツ(ガンダムというアニメに登場する人間型ロボット兵器です)のパイロットのごときホムンクルスあるいはアートマンがないのであれば、自由はまったくあり得ない。

 ただし、生命は、パチンコの玉のような、弾かれてぶつかって跳ねるだけの、ただの受動的反応ではありません。私達には複雑な内部の反応の仕組みがあり、縁に応じて自己駆動して、もがき足掻くのです。先のメールではこのことを「決定論的主体性」と呼びましたが、誤解を生じる言い方であれば、さしあたり「もがき足掻き反応」と言い換えてもかまいません。

 生命本来の「もがき足掻き反応」で、ゾウリムシは水温が適温域をはずれると、自動的決定論的に繊毛運動が活発化して(文字どおりもがき足掻いて)ランダムに泳ぎ回り、(運がよければ)結果的に適温域に行き着き繊毛運動は収まる。生命本来の「もがき足掻き反応」によって、突付かれたウニはその方向へ棘を向ける。

 感覚器官が発達し中枢神経が発達した動物では、「もがき足掻き反応」が進展して、受けた縁(刺激)をカテゴリーとしてクオリアで感知し、カテゴリーに応じた反応をすばやく立ち上げるようになった。経験を重ねることでカテゴリーは精緻化し、反応はどんどんふさわしいものへと順応していくようになった。

 さらに進化が進むと、外の縁だけではなく、自分というそのつどの現象もカテゴリー化して対象化し(ノエマ自己の発生)、状況に応じて記憶を参照し、対応をシミュレーションして検討することが可能になった。こうして選択肢がもてるようになったのですが、これもまた「もがき足掻き反応」の展開であり、先に書いたとおり、その中からどれが選択されるかは、決定論的であれ、非決定論的であれ、ともかく自由意志によるのではなく、ぎりぎりのところまで突き詰めれば勝手に決まってくるのだと想像します。無我=縁起である故に。

 ところで、進化によって獲得された高度な反応は、それまでの単純な反応を消去してそれに置き換わるのではない、と思われます。単純な反応の上に進化した反応が積み重なり、我々の反応の仕組みは極めて精緻な層を成している。いくつもの「もがき足掻き反応」が錯綜しせめぎあう中で、ひとつの反応が、決定論的に、あるいは非決定論的に、いずれにせよ自動的に起こってくる。

 この仮説は、私達の日常を振り返ってみると、とてもよく適合すると思います。
 例えば、朝、目覚まし時計が鳴ると、いつも私は「起きなくては」と思い、「もう少しこのまま」と思い、両方の思いがせめぎあい、そのつど「もう少しこのまま」が勝ち、5分くらいそれが繰り返されて、やっと「起きなくては」が勝つ時がやってきます。
 もし私が本当に自由で思うままに自分をコントロールしているのであれば、ためらうことなくすぐに布団から出られるはずです。

 イメージを比喩的に述べると、「私」とは「国家の意思」のようなものだと思います。「国家に明確な意思があるのか?」と疑問に感じられたかと思いますが、そのとおりで、「私」も「国家の意思」と同様に、不明確であやふやなものです。
 日本には総理大臣がいて、他にもたくさんの政治家がそれぞれの思想、立場、利害、おもわくでさまざまなことを考え、行動します。官僚もいる。マスコミもいる。年寄りも若者も、男も女も、日本人も在留外国人も、いろいろな人がいる。それぞれの人が、オリンピックや拉致や戦争や狂牛病やライブドアや、その他さまざまなそのつどの縁を受け、それぞれに反応する。それらすべてのせめぎあいのなかから、不明確であやふやだけれど大きな強い流れであるそのつどの「国家の意思」が湧き上がってくる。総理大臣とてアートマンではなく、せめぎあう要素のひとつにすぎません。(ちなみに、村も国家と同じです。)
 ただし、こう譬えると、「私」とはたくさんのホムンクルス(or アートマン)の集合体だと言っているように聞こえてしまうかもしれませんが、そういうことではありません。条件反射等によって蓄積してきたたくさんの反応パターンの内、そのつどの縁(おそらく複数)によっていくつもが発動し、せめぎあいぶつかり合い、その中からそのつどの「私」という反応が湧出してくると考えます。

>言われているように「我々がなにかをしようと「主体的に」決断する時、その決断より一瞬前に、脳の中でそれに先行する信号が出ていることが、実験的に発見された」というのがありますから、
 このことは、単に実験の伝聞に留まらず、私にとっては時々実感することです。誰かと話しているとき、ふと何かを思い出して、「あっ、そうそう・・・」と自動的に言い出して、その瞬間ホンの一瞬、自分がなにを話そうとしているのか分からず戸惑う気持ちがあって、しかし、口からはすらすらと思い出したことが出てくる、ということを何度か経験しています。
 以前にもサイトのどこかに書きましたが、流されかけたボートに飛び移って、ボートの中の棹を岸の友人に差し出した時も、飛び移った時は自分が何をしようとしているのか自覚しておらず、自然に棹に手が伸びて、やっと自分がしようとしていることが分かったという経験があります。
 これは誰でも確かめられる実験だと思いますが、自分のあらゆる行為を意識した上で行おうと固く決意しても、例えば、ドアの前で「ドアを、」と意識した時は、もうすでに自動的に手首は取っ手にかかる形にひねられています。歩き出す時に、「右足を上げ、」と意識した時には、既に左足に体重が移されている。意識する前に、自動的に準備は終わっているのです。
 あるいは、おそらく無方さんも経験されていると思いますが、座禅中に呼吸もしくは数息観に集中しようとしても、いつの間にか妄想の旅を始めている。自覚的意識の縄は勝手にほどけて、意識は無意識的にさまよい始める。座禅中だからやがて妄想だと気づきますが、日常生活においては、私という反応はほとんどすべて妄想の連続、無自覚で自動的な反応なのではないでしょうか。「私」とはそのつどの反応である、と何度も言ってきましたが、皮肉に言い換えるなら、「私」とはそのつどの妄想である、ということになります。
 『無意識の脳 自己意識の脳』(ダマシオ、講談社)のP23には、欠神自動症を起こした患者さんが、「もぬけの殻状態」のまま、カップを取りコーヒーを飲み、立ち上がって部屋を出て行こうとしたことが紹介されています。日常レベルでの「私」がない状態でさえも、我々はかなり複雑なことを自動的反応としてやってのけるようです。

 注意して観察すれば、自分とは、自分を思うままに操縦する主体などではなく、たくさんのサブシステムが重なりあったところで、いろいろな反応がせめぎあっている中から発現してくる現象であることが見えてくるように思います。

 98%、2%で言うなら、私とは100%自動的反応であり、その内2%程度がノエマ自己を構想してシミュレーションによって選択肢を比較検討する高度な自動的反応で、残り98%位は欠神自動症やそこからさほど発展していない素朴な自動的反応・習慣的反応であるように感じます。
 (そう思うと、「国家の意思」もまた、98%は自動的感情的反応で、分析しシミュレーションし戦略を立てた結果の反映は、2%かもっとずっと僅かのように思えます。)

>「では、なぜ私たちが世界をホムンクルスの視点からしか眺められないのか」
 私たちが、(「幽体離脱」した場合ですら宇宙全体に拡散してしまわず、)空間の中のひとつの位置をとるのは、私たちが、身体という連続性のある場所に依存する現象だからだと考えます。それゆえ「幽体離脱」を妄想しても、身体に由来する「一点からの視点」を抜け出せない。
 ダマシオは、「意識は、そのつどの身体状況の前意識的な感知(原自己)を本にして発生する」という趣旨を述べています。身体も現象ではありますが、それでもそのつどの意識よりは長い一定の個別性・連続性を備えており、それが「個別で連続したひとつの意識」という感覚に引き継がれているのだと思います。

 条件反射・学習というのは、利害にかかわる重要な現象をクオリアという感知の仕組みでカテゴリーとして捉え、それにふさわしい反応をいち早く起動することでしたが、この時、その対象となった現象は、実体視されます。
 条件付けられたコイは、手を打つ音を聞かされると、餌のにおいや味や歯ごたえを生々しく覚醒され、そこにはない餌を対象としてありありと感じていると思います。コイ達が大きな口の群れとなって押し寄せてくる様を思い出してください。
 それと同様に、自分をクオリアにかけてカテゴリーとして対象化する術を身につけて、さまざまな可能な反応をシミュレートするようになった時、対象化されたノエマ自己は、持続的実体(アートマン、ノエマ自己)として、そのつどのノエシスにそのつど構想されるようになったと考えます。こうして「個別で連続したひとつの私」が実体として構想されるようになりました。重要なことは、持続的実体があるのではなく、そういう構想がそのつど起こるということです。

>「ではなぜ『自由な私』という意識があるのか
 先ほど書いたように、私たちは、たくさんの反応が重層的に重なり合ったところで起こる反応です。原始的反応もあれば、シミュレーションで比較検討された反応もある。これらの反応はすべて、生命そもそもの「もがき足掻き反応」が系統進化と個体学習の過程でさまざまに展開して発生したものですが、往々にして相矛盾します。
 我が家の愛犬は、餌を置かれても「待て!」と言われると、よだれを垂らしながら我慢しますが、先ほど娘は「掻いちゃいけないと思いながら掻いちゃうんだよねぇ」と言いながら首をぼりぼりと掻いていました。原始的反応と、より高度な反応がせめぎあい、愛犬の場合は高度な反応が勝ち、娘の場合は原始的反応が勝っている訳です。
 原始的反応も、高度な反応も、どちらも自由意志に基づく反応ではなく、自動的必然的な反応でありますが、ノエマ自己を構想してよりよい反応をシミュレートする高度な反応は、原始的反応とせめぎあうことによって、(しばしば原始的反応に敗北するにもかかわらず)あたかも自分を努力してコントロールしているような錯覚を起こさせます。これが『自由な私』という意識の由来ではないかと思います。
 逆に言えば、もし「完全に自由な私」がいて、何の困難もなく思うままに自分をコントロールしていたら、そもそも「自由」という概念さえ生まれていなかったのではないかと思います。なかなか思いのままにはならないけれど、ノエマ自己を立てて理想の反応をシミュレートし、それを実現しようと努力する。この思いのままにならない努力が、逆説的に「自由」という概念を生み出したと考えます。(この努力の反応も、もがき足掻き反応が高度化した必然的な反応であるのですが、、、)

***
 私たちという反応を構成している反応は、原始的なものもあれば、我慢・努力というような高度なものもあり、しばしば互いに矛盾しあいせめぎあっていますが、すべてが自動的であり必然的あるいは偶然的であり、それら拮抗しあい助長しあう反応がせめぎあいぶつかりあってどのような反応が発現してくるのかも、自動的に必然的あるいは偶然的に(けして自由意志によるのではなく)決まってくるのではないか。そういう考えを書きました。

 そして、敢えてもう一歩踏み込んで言うと、生物が、進化を重ねて、もがき足掻く反応に磨きがかかり、執着が発達し、その結果執着に苦しむことも必然の過程であり、のみならず、やがて発心し、宗教的な努力を始めるのも、必然的な道筋ではないかと思えます。

 釈尊の出家の動機について、アンベードカル博士は、水利権争いという極めて世俗的な原因を想定しています(光文社新書『ブッダとそのダンマ』P33〜)。並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』は、息子ラーフラは実は釈尊の子ではなかったかも知れないと大胆な推察をし、それが出家の原因ではないか、としています(大蔵出版)。
 しかし、私としては、出家の理由は、釈尊が何不自由のない贅沢な暮らしをしておられ、生の意味に向き合わざるを得なかったからではないかいう気がします。いかなる快楽も埋め尽くせないむなしさ。中村元選集決定版第11巻『ゴータマ・ブッダT』によると、『五分律』や『ジャータカ序』には、宴の後目覚めた釈尊が、だらしなく眠っている踊り子や楽女たちを屍のようだ、父親の館を丘墓のようだ、と嘆じたという記述があるそうです。
 竜樹菩薩も、若き日に後宮に忍び入って悪い遊びに耽ったのが、発心につながったという伝説があるようです。「放蕩は聖者への最短の道」とあったのは、ヘッセの『ナルチスとゴルトムント』でしたか。

 ともかく、生きていくのが困難であれば、「もがき足掻き反応」は生きることに集中する。さしあたり生きていく条件が確保されても、「もがき足掻き反応」はより有利に磐石の体制で生きられるように欲望の反応を拡大し、我執の反応になる。しかし、いくら欲望を満たし我執を満たしても、満たされないむなしさは残り、それをごまかすためにさらに欲望・我執を募らせる。そして、例えば「時価総額世界一」を目指したりする。(小論「一切皆苦は快を含む。凡夫は執着依存症」参照ください。)
 少なからぬ人が、ここまでのどこか中途で時間切れとなり、一生を終えます。しかし、一部の幸運な人は、「もがき足掻き反応」がもっとよい生き方をシミュレートし始め、宗教的発心が起こる。さらに幸運な人は、稀な縁に恵まれ、無常=無我=縁起の教えに触れ、それに沿ってシミュレーションし、精進する。その中でも運がよければ、死ぬ前に無常=無我=縁起を自分のこととして納得して、無常にして無我なる縁起の現象として、苦を作らず軽安に無理なく生きるようになる。

 つまり、もし十分な時間が与えられば、必要な縁にも出会うだろうし、誰しもが発心し、精進し、覚ると思います。その過程は、必然の道ではないでしょうか。ただ残念なことに、一生は短く、ほとんどの人は覚りまで届かずに、死を迎えてしまうのですが、、
 (そういう意味では、多くの「仏教」徒が輪廻転生(=無限の時間)を要請したのは、無理からぬことでした。しかし、勿論輪廻転生ば願望にすぎず、事実ではありません。)

 無我=縁起であり、自由がありえず、しかも私たちの発心や精進が必然だとすると、厳密には自力ではありえません。ある意味で「他力」です。しかし、この他力は、阿弥陀仏のような人格的存在者の計らいによる他力ではなく、縁による他力です。そして、この他力は、努力を邪魔な計らいとして否定・拒絶するのではなく、縁によって「もがき足掻き反応」が努力・精進(=自力)に進化することで発生する他力です。

 勿論、宗教的努力が開始されたとしても、それによって執着の反応は置き換えられたわけではなく、相変わらず根強い誘引力をもっています。せめぎあいの中で、いともたやすく宗教的努力の反応は、執着の反応に負けてしまうでしょう。しかし、それが繰り返されるうちに、ちょうど私が毎朝布団をようやく這い出すことができるように、宗教的努力の反応が執着の反応に勝利するようになる。今の自分という反応が縁となって、以降の自分という反応の反応の仕方に影響を残すのです。

 「他力」によって「自力」の種がまかれ、「他力」によって「自力」が育つ。
 そう思うと、仏縁に恵まれ、戒定慧の努力を(何度も挫折しつつも、ともあれ)できるということは、なんと幸運なことかと感じます。
 同時に、まだ縁に恵まれず、執着の中でもがき苦しんでいる人々へのよき縁になりたいとも感じます。私がいくつもの縁に恵まれたように。

***
 「そんな考え方では、罪人の責任を問えないのではないか?」 そういう批判があるかと思います。そのとおり、自由意志があり得ないのですから、責任を問うことはできません。

 先日「弱い私がいた」と語った建築士がいました。まさにそのとおりで、悪い縁に導かれれば、内部の反応の仕組みにも悪い癖がつき、どんどん悪いほうに流される。しかし、いずれは違う縁に出会い、発心し、良い努力を始める。問題は、縁に恵まれる前に命が終わる場合が多いことと、その間多大な苦を周囲に撒き散らし続けることです。

 殺戮の限りを尽くしていたアングリマーラも、釈尊に出会うというまったく得がたい縁に恵まれることによって、発心し、自分という反応をシミュレーションし原始的反応を凌駕してよい癖をつける努力をするという反応を得て、ついに阿羅漢になりました。
 彼の詩にある「大洪水に流されて」というのは、悪い縁と悪い反応が次々と連鎖反応を起こしたことを振り返っているのだと思います。

 人は、縁によって悪をなし、縁によって発心・努力する。この意味で、死刑には反対です。死刑ではなく、良い縁に触れられるようにすること。監獄が、押し込められることで悪い反応の内圧を高めることになっているのなら、それも良い対策ではないでしょう。良い縁に触れられ、努力のできる状況を用意すること。他人に大きな苦を撒き散らさないようにしながら。罪に対してはそういう仕組みが必要だと思います。

***
 長々とまとまりなく未消化な内容になりましたが、自分ではほんの少し前に進むことができたような気がしています。

 良い刺激を頂いたお陰だと感謝します。ありがとうございました。

                       敬具
ネルケ無方様
       2006,2,12,         曽我逸郎

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ 次のメールへ 続きのメールへ