谷 真一郎さん 『中論』再読 2006,1,14,

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曽 我 逸 郎 様
            from 谷 真一郎

 お久しぶりです。
 龍樹の『中論』を再読しました。数年前にお宅へうかがった時、散歩しながら『中論』の「不生不滅」について語り合った記憶があります。あの時よりは一段と深く読めているのではないか、と思います。
 読みながら書いたメモを綴り合わせてまとめた文章を作ってみました。推敲しながら気が付いた事ですが、以前であれば推敲の途中で表現が長く、激しくなる事が多いのに、今はむしろ穏やかで簡潔な表現に直している場合が多いのです。
 「働き所」を得られている今の曽我さんにしてみれば「こんな事読んだり考えたり書いたりする時間が欲しいよ〜」と思われるかもしれませんね。
 いきなりお送りするわけですが、時間のある時に一読いただき、差し支えなければ、谷からの投稿として貴HPに乗せていただければ幸いです。草々


『中論』の一読解

【序論:寂滅ということ】

 寂滅(ニヴリッティ)の原義は、「(何かから)退く、退却する」という意味である。
 否定、ではなく退却。破壊せず、そこから立ち退くことで、そのものと自分との関係を断つこと。
 仏教の悟りを「寂滅(ニヴリッティ)」と考えると、色々な事が見えてくる。
 我執を断ち滅ぼすのではなく、そこから退く。我執の対象となったものは相変わらず存在する。しかし、そこから自分のアイデンティティを抜く。
 「空」に関する論議でも同様の事が言える。色を始めとする五蘊も、自分の心(アートマン)も心作用も、「そのようなものは無い」という形でその実在を否定すると、「無」だけが残る。悪趣空とか断見と言って、最もタチの悪い見解である。そうではなくて、共同主観として成立しているそれらから「退く」事を、龍樹は主張しているわけなのだ。

   ***

 素朴唯物論に立たない限り、「存在の否定」は「寂滅」に置き換え可能である。「寂滅」は、対象に対する認識主体(あるいはもっと一般的に関与主体)の関係性を含む概念である。
 「〜から退く」という時、「〜」はそれ自体としては定立されている。では「〜」の成立根拠はどこにあるのか。それは、「〜」が退却以前の自分にとってだけではなく、他者たちにとっても、執着の対象として視野の中にあるからだろう。

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 中論の否定の論理は、悟りのための修道の一つである。日課として瞑想し、かつ中論を読誦して心に刻む、という生活を長くしておれば、何らかの悟りが訪れるものと思われる。その意味では、中論の否定の論理が一部詭弁を含んでいたとしても問題にはならない。ただ龍樹はそれを詭弁として自覚していたわけではないだろうから、当時のインド論理学の不完全さをあらわすものではあるが。
 否定の論理という「言葉」の助けによって、執着の対象からニヴリッティしてゆく、これが往相である。還相において言葉は、世俗諦という形で再びあらわれる。その中間には、言葉を絶した勝義諦の無時間的アウラがある。

【仏教史の中での『中論』の位置づけ】

 菩提樹下での釈迦の悟りは、それ自体としては超言語的なアウラ体験であったろう。
 釈迦がその体験をした事と、彼が言葉によって「法を述べる」(つまり「仏教」が成立する)事との間には、必然的な関係は無い。現実に、アウラ体験に達した多くのヨーガ行者たちは沈黙のうちにその生を終えている。
しかし、釈迦(成道して仏陀)の場合には「梵天勧請」という形で物語化されるようないきさつがあって、言葉で語られるものとしての「仏教」が始まった。超言語的かつ非日常的アウラと、日常において語られ保存される言葉としての「仏教」へと、「真理」は二分されることになった。

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 初期の般若経典では「無自性」「空」が連呼されている(「縁起」の語は見られない)。
 大乗仏典は瞑想の内容が言語化されて吐露されたものとされる。従って「空」とは、瞑想中のアウラの中で、「すべてが形を失った(無になった)」経験、個々の対象が「不生不滅」になった経験、の表現であろう。「世界」それ自体(あるいはハイデガー的「存在」)に直接に触れており、従って個々の対象的事物(ハイデガーの言う「存在者」)は「無い」、という体験が、「空」と呼ばれるものである。それは、「無い」とは言っても日常性における「無」の主張(いわゆる断見、虚無)とは別のものである。

   ***

 龍樹自身もおそらくアウラを体験しているのであるが、彼は事後的に、論理(言葉)の力でその「無」を言い当てて従前の「仏教」に加えようとした。帰謬法的方法であればそれは可能であると考えられた。その成果が『中論』である。
 『中論』は、時代に制約された不器用な方法ながら、「言葉が対象を言い当て得る」という日常性における常識に亀裂を入れてみせた。それは、直接には有部のダルマ実在論を批判し、「対象がダルマの集合離散によっては説明できない事」を証明しようとしている。しかし、その射程はもっと深くて、そもそも言葉を以て言い当て得るような「対象」は存在しない、という「言語秩序批判」に達しているのである。

   ***

 しかし、『中論』は西洋の論理的・演繹的著作とは異なり、さまざまの分野に関して同工異曲の語りを繰り返している。これはおそらく、修行上の師がこれらの中で弟子に適するものを選び、弟子がそれを繰り返し唱えて暗記し(つまり「薫習」させ)、瞑想の補助としたのであろう。つまり、この著作の構造は、並列的なメニューなのである。
 『中論』の、独特の強引な論法(龍樹とは異なった立場の者がこれで説得させられるとはとても思えない)からも、それを推測することができる。各章での各々のテーマに関して、「やっぱりそれは無いんだぞ」という結論が先にある。その結論を魂に叩き込むための書なのである。

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 一方、このようなアウラの世界へのアプローチとは別に、日常性の世界を説明する「仏教」として、縁起説が発展していた。
 龍樹の縁起説は、空間内に同時に並立するものの間に縁起関係(相依性)を見る、という点で画期的である、とされる。本当にそうだろうか。
 縁起説は原始仏典の中で、個々の「支」の内容として「識」とか「受」とか特定のものを考える縁起(その完成が十二支縁起)から始まったが、やがて、「此れあるが故に彼れあり……」といった一般的なものとなった。つまり、時間的継起(因果関係)のみならず空間内に並立する対象間の相依関係をも縁起として捉えたとして、それが不自然ではないような所まで来ていた。そもそも、縁起的関係を時間的継起と空間的併置とに分けるのはスコラ的であり、経験世界では両者の区別は不分明である。
 ここで立ち止まって確認しておくならば、日常性の「仏教」において「此れあるが故に彼れあり……」といった一般的なものとしての縁起説が成立すれば、それは従前の無常・無我や四聖諦の根拠づけとなるのである。
 相依性(空間内に並立する対象間の縁起)を初めて唱えたのは龍樹だと言うが、それは縁起説の従前の発展から考えて特段の飛躍とは言えない。そもそも相依性なる語が宇井伯寿による造語である。
 注目すべきは、縁起の時間性・空間性という事ではなく、龍樹が日常世界を縁起的世界と捉えた上で、アウラの「空」の世界との関係づけを試みた事である。『中論』最大の山場とされる「空・仮・中」の三諦も、このような観点から解明されなければならない。

【龍樹は何を否定したのか】

 上述したように、龍樹は自らの超言語的アウラ体験を言い当てる言説を試み、それを従前の「仏教」に加えようとした。つまり『中論』は、言語秩序の平面に書かれた、超言語的世界の写像なのである。
 仏教では超言語的な勝義諦と言説としての世俗諦を立てるが、無常・無我・縁起説といった世俗諦の価値は、必ずしも勝義諦に依存しない。しかし『中論』で展開されているものは、言説として世俗諦に属しつつ、独特の工夫によって勝義諦の写像となっている世俗諦なのである。
 そこに展開された論理が何であるのかを考えてみる。

   ***

 知覚経験にせよ情動的なものにせよ、我々が何らかの経験をした時、その経験の源泉が外界のどこかに存在することは確かである。つまり、経験の源泉として「言葉で(不十分ながら)指されようとしているところの『対象』」は、それがあるとすれば外界の中に存在する。
 龍樹は、その外界そのものを否定しているのではあるまい。
 「その『対象』を指そうとしている言葉が、『対象』に的中していること」あるいは「その言葉が的中するような『対象』が外界の中に存在すること」を否定しているのだ、と思われる。
 そして、『中論』の中では同一の論法によってあらゆる言葉がその否定に遭うわけであるから、「『対象』に的中するところの言葉は存在しない」、従って「『対象』を言葉で表現する事はできない」という事になるだろう。
 (ただし、我々は、実は言葉以前になんとなく、それとなく外界の存在を覚知している。外界の全体を「気分」「情動」として経験し、その中で個々の知覚経験が起こる。従って、言葉を「対象」に的中させる事が不可能になったとしても、「対象」は全く見失われるわけではない。)
 このように、『中論』の論理は、言語秩序によって世界を描こうとする事への批判である。「言語によっては(経験の源泉たる)対象を(ひいては世界を)言い当てることはできない」という主張である。
 では、言葉によってゆがめられていない本当の対象は、如何にして得られるのか。この答としては、おそらく、「宗教的アウラの中に於て」であろう。
 しかし、話を先に進める前に、龍樹が「自性」と言っているものについて考察せねばならない。

【「自性」svabhavaについて】

 自性(svabhava)とは、bhava(有)にsva(おそらく英self仏soi)が付いたものである。最初は単にbhavaを強調して「有それ自体」という意味であったのではないかと思われる。
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 仏教以前の凡夫の見解としては、執着の対象としての「もの」(有:bhava)はそれ自体としていつまでも続くかに思われ、実際にはそうならない(無常)ところから「苦」が生ずる。つまり、「もの」bhavaがそのまま実体的な自性svabhavaを持つかのように思って執着することから「苦」が生じるわけである。通俗仏教書に「ものには固定した実体が無い」と書かれるのはこの意味である。
 ところで、『中論』は、直接には有部のダルマ実在論への論駁の書、という性格を持っている。以下、有部のダルマ実在論を概説する。
 有部は「もの」bhavaの無常・生滅・縁起を踏まえた上で、その生滅変化を要素的存在(法:dharma)の結合離散で説明した。凡夫の意識において自性svabhavaとされていたものは、その「もの」bhavaを構成する諸要素dharmaのうちの一つ(例:火であれば「熱さ」)に過ぎず、その要素dharmaが離れた時に「もの」bhavaは滅するのである。
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 龍樹は、「もの」bhavaの実体性を否定する事(無常)は当然の事として、要素的存在dharmaについてもその実体性を否定する。これが「法無我」ということである。
 『中論』の過半を占める各章では、批判対象として有部を念頭に置いて、要素的存在dharmaの実体性を承認した場合に起きる矛盾を帰謬法的に批判している。ここでは実体的な諸要素dharmaの存在が否定され、仏教が有部以前から否定していた「もの=実体」をも含めて、あらゆる意味での自性svabhavaが否定される、という論理構成になっている。
(ただしこの場合、有部の中心テーゼとして「dharmaはsvabhavaを持つ」というものがあるにもかかわらず、『中論』では「dharmaにsvabhavaが無い」という言い方はされず、「bhavaにsvabhavaが無い」という言い方だけがされる事には注意が必要だろう。)
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 しかし、『中論』では、苦・業・煩悩等々の、人間に関する「もの」bhavaであって要素的存在とはいえない物について、その実体性を否定している部分もかなりある。そのような章は特に後半に多い。
 これらの章は有部への批判ではなく、仏教一般の立場に立って凡夫あるいは凡夫的発想を批判していることになる。特に、『中論』のエッセンスとされる第24章で、有名な「空・仮・中」の三諦が出た後のほとんどの部分は、要素的存在dharmaの問題は念頭に置かれず、「もの」を実体svabhavaとして見る事への批判に終始している。
 こうして見ると、龍樹の中にも矛盾があり、その批判は、要素的存在の実在さえも否定するラディカルな部分と、一般的な無常・無我・縁起説の再説にとどまる部分とが併存すると言わねばならない。

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 前節では若干スコラ的な議論を必要としたが、『中論』の有部批判の文脈(ラディカルな側面)においては、要素的存在のレベルも含めてあらゆるsvabhavaが否定される事で、言語で言い当てられる対象は外界に存在しない、という事が言われている。たとえば第2章では「『人』が『去る』」という言い方を批判して、この言い方が、「人が去る」という言葉が宛てられようとしたところの出来事を表現し得ていない事が示される。
 すなわち、「何々」という名辞で呼ばれるような「もの」は外界の中に存在しない、ということである。そのような「もの」で構成されている世界は言語によるプラパンチャ(戯論)の所産であり、仮設されたものである。外界の存在自体は認めるにせよ、外界の中に客観的に対象が存在していて言葉がそれに的中する、ということはありえない。
 『中論』におけるこのような「自性」の否定は、まさに言語以前の客観的存在の否定であり、自性が否定された後には言語の世界に残るものは何も無い(煩を厭わず確認すれば、かと言って外界が否定されたわけではない)。
 従って、世界が言語的秩序によって構成されているという日常性の上に立って言えば、「空(自性空)」とは端的に言って「存在しない」という事になる。つまり日常意識(言語的秩序)の地平に立つ限り「空である」は「無である」と同じ事である。実際、『中論』の本文にも青目(ピンガラ)の註にも、「〜は無し」という断定が頻出する。
 ただ「空」は、後述するように、「無」の後で仮設(因施設)としての縁起的世界像が成立してくる事までを予期した上での否定、としてのみ「無」と区別されるのである。

   ***

 しかし一方、『中論』には有部以前からの無常・無我・縁起説を確認し、その立場から「ものには自性が無い」と言っている部分もある。「自性空」をこちらの方から理解する場合は、言語秩序批判というモチーフは必要ない。
 通俗仏教書では「空」を説明するのに、有部批判としての「法無我」を言った上で、あとは「ものには固定した実体の無いこと」などと従来からの無常・無我・縁起説の再確認にとどまっている場合が多い。この場合、「もの」は無ではなく(存在を否定されず)、「縁起する」というかたちで言語秩序の上に存在している。この「縁起」という事から「もの」の無常・無我が導出される。結局のところ、「空」ないし「自性空」は「縁起」という事の言い換えにすぎない。
 『中論』の解釈としては非生産的であるが、それなりの根拠を持つ事は前述のとおりである。

【空・仮・中について】

 さて、『中論』を読み込んでいくと、「縁起」という語は以下の二義で使われていることがわかる。
@凡夫が執着して苦しんでいる世界を、思考力を使って客観的に見たもの
A悟りを得た後の還相の目に見える世界、あるいは還相の者が生きる世界
@とAは同じではない。@は凡夫にとって学習(薫習)の対象であるのに対して、Aは「悟った者に対して開示される世界」である。
 このような観点から、『中論』の論旨を集約するとされる有名な「三諦」を考察してみよう。

   ***

 「縁起するもの、これを空性と説く。
  それは仮設であり、中道である。」(『中論』24-18)
   **
 最初に挙げられる「縁起」は、仏教者が少なくとも思考力によっては捉えているところの万物である。つまり上述の@である。
 原始仏教において、個々の支に具体物をあてていた縁起説(完成形態としては十二支縁起)が一般化して
「此れあれば彼れあり、
 此れなければ彼れなし
 此れ生ずれば彼れ生ず
 此れ滅すれば彼れ滅す」
という一般論になった時、それは、ありとあるものの一般論として、すでに成立していた無常・無我の説をより深い所から根拠立てることになった。
   **  しかし、縁起説にせよ無常や無我の教説にせよ、すべて「梵天勧請」以後の「仏説」である。仏陀自身をはじめとする多くの出家者が経験した悟りのアウラとは別物であると言わねばならない。
 悟りのアウラにおいては言語によって分節された日常的世界は解体し、内界と外界の区別は消失し、時間観念もなくなり(「永遠の現在」)、従って縁起ということも無い。「不生不滅」である。
 瞑想の果てに訪れるアウラの中で、言葉と思考力によって構成されていた縁起的世界はそのように変容する。変容したその世界を、龍樹は「空」と名付けた。思考力によって縁起の世界と見ていたものは、実は空性の世界だったのである。
「縁起するもの、これを空性と説く。」の意味はこれであろう。ここまでが往相である。
   **
 ここからが還相である。
 悟りのアウラの経験を経て日常性に戻った者には、世界は以前と違って見える。あるいはもっと適切に言えば、悟りのアウラから戻った者の日常世界は、アウラ以前とは違った世界である。それは確かに日常であるから時間的空間的秩序があり、自他の区別もあり、思考や対話は言語的秩序の中で行われる。そしてもちろん、「此れあれば彼れあり」の縁起的展開をしている。しかし、彼は寂滅(本稿の最初で述べたニヴリッティ)しているのであり、言語的秩序が「仮」のものである事を知っている。あるいは、言語的秩序の「その先」を知った上で言語秩序の上に乗っている。その上で、もはや思考力に頼る事なく縁起を了解できる。縁起@は、アウラをくぐり抜ける事によって「仮」として再把握された。還相者の生きるこのような縁起的世界が縁起Aである。
   **
 しかし、還相者のこの世界(縁起A)は、凡夫にとっての(客観的には縁起@であるところの)世界と重なっている。両者はともに言語的秩序の上にあるから交流が可能であり、それ故に利他行や法施という事も可能になる。
 言語的秩序という事の側から見れば、「凡夫にとっては『苦』、かつ思考力による薫習によって縁起@」という世界と、「それが仮である事が自覚された上で展開される縁起A」世界という両方の地平がある事になる。これがおそらく「中道」という事の意味であろう。

                        2006.1.15 了


曽我から  谷 真一郎さんへ  梵我一如的傾向への警戒 2006、3、28、

拝啓

 メール拝受いたしました。いつもながら遅い返事で申し訳ございません。

 深く考えられた独自の考察だと思います。ただ、私の今の考えとは一致しない点が多いとも感じました。

 もともと、谷さんと私との間には、仏教についてのアプローチに違いがあったような気がします。谷さんが「仏教」の大きな流れの全体を掴もうとしておられたのに対し、私は、「仏教」の歴史の中から、釈尊のお考えを無常=無我=縁起と捉え、狭量にそれだけを抽出しようとしていました。私のほうは、その後、どんどんと狭いところにもぐりこんでしまい、その分だけ違いが拡大したように思います。

 返事は、当然中論を再読し、いろいろ調べた上で書くべきでしょうが、残念ながら今そのゆとりはないので、感じたことを手持ちの考えでまとめてみます。なんだか冷蔵庫のありあわせの材料だけで作る料理のようで申し訳ありません。また、中論の解釈についての議論というより、単に私の仏教理解との違いといった内容にしかなりませんが、ご容赦ください。

 ◆ まず、「寂滅(ニヴリッティ)」の原義について考察しておられます。私も調べてみなくてはいけないと思いつつ、横着をして、最近読んだ本『ゴータマ・ブッダ考』(並川孝儀、大蔵出版)を最初の「材料」にします。

 この本では、谷さんが問題にされた「寂滅」に近い概念だと思うのですが、「涅槃」(nibbAna 、nibbuta)の用例を、最古層・古層の韻文経典の分析から3種類に分類しています。
 1、作用の抑止 (静まる、覆う、滅ぼす、壊す、遮断する、など)
 2、取り除くことや分離 (追い払う、取り除く、捨て去る、分離する、など)
 3、渡ること

 また、「煩悩の滅」について、その条件や状態を示す表現・用語にやはり三種類があるとしています。
 1、煩悩の抑止・制御・遮断
 2、煩悩の分離
 3、煩悩から離れたり、超越すること

 「涅槃」にしても「煩悩の滅」にしても、2、3は、谷さんの「寂滅」の解釈に近いと思います。

 著者は、これらの中から、どれが本来であるのか、結論は明言していません。しかし、著者独自の解釈として、nibbuta については、「<覆いをとる>という説が一般的だが、逆に<しっかり覆う(覆って制御する)>という意味に理解すべきではないか」という趣旨の問題提起をしています。
 さらに、「煩悩は内にあって覆われるべきものか、外にあって我々を覆うものか、という問題は、仏教の基本的構造に大きな影響を与えるものであり、仏教思想展開の原点とも言い得るものである」といった主張をしています。

 執着・煩悩は、我々の外に存在し、外から我々に付着するのか? それとも、我々の内にあるのか?

 私自身の今の考えは、内側、もっと正確に言えば、その時その時の縁に応じて起こるそのつどの執着・煩悩がそのまま私だと考えます。

 執着・煩悩(=我々)が、執着・煩悩でありつづけることで苦を作ることは止めたいと、より高度で殊勝な「執着・煩悩」となり、発心・誓願の反応となり、精進の反応をするとなる。これが、仏教への道ではないかと思います。

 対して、「我執(の対象)から自分を退けさせる」という言い方は、言わんとするところは近いかもしれませんが、両者が実在しているような印象を読み手に与えかねないのではないでしょうか? 「私と我執がともにあって、その二つの距離を広げる」のではなくて、「私が繰り返し何度も我執として縁起している。その縁起の仕方を、我執の反応から慈悲と精進の反応に変えていく」というのが、今の私の考え方です。

 より詳しくは、小論集の<『ゴータマ・ブッダ考』を読んで。私とはそのつどの煩悩>をご一読頂ければ助かります。

◆ また、「超言語的なアウラ体験」というものを提起しておられます。

 頂いたメールから私なりに再構成してまとめてみます。

 アウラ体験は、瞑想によってもたらされる悟りの体験で、それによって言語によって分節された日常的世界は解体され、内界と外界の区別は消失し、時間観念もなくなる「永遠の現在」の経験である。ここにおいては、縁起ということもなく「不生不滅」であり、「空」である。アウラ体験は、縁起説や無常や無我の教説とは別物の、言語を超えた勝義諦である。
 アウラ体験と対照をなすのは、言語によって分節された日常的世界であり、言葉と思考力によって構成される縁起的世界である。
 勝義諦ともありますし、谷さんは、アウラ体験を日常の縁起世界より高いところに位置づけておられると推察します。確かに「仏教」の長い歴史のかなりの部分で、このような宗教的体験が追求されてきました。しかし、釈尊はこのような体験を果たして重視しておられたのか…。

 釈尊が、言語による学習や思索にあわせて、瞑想も奨励されていたことは、おそらくは間違いないことだと思います。しかし、それは、あくまで理論的な教えを自分の身において確認し納得するためだったと思います。釈尊の教え、無常=無我=縁起は、きわめて単純・明快であり、自分の身において起こっていることを、そのままありのままに説いたものです。深遠なところはまったくない。意味ありげなもったいぶりは全然ない。しかし、凡夫においては、奥深く染み付いたものの見方(変わらぬ価値を持って実体があるという見方)は抜きがたく、無常=無我=縁起をなかなかそのまま素直に見ることができない。それができるようになるための訓練として、観察する自分と観察の対象である自分(つまりノエシスとノエマ自己)を、二つながら静謐な状態に保ち、観察可能な状態を作り、無常=無我=縁起を自分のこととして確認し納得する。これが瞑想だと思います。

 その確認・納得が達成された「覚り」の経験は、有頂天とか陶然とか没我の境地とかとは無縁の、これまでの自分の誤解に気づいた「なぁんだ、そうだったのか」といったものだと思います。「なるほど確かに、無常=無我=縁起だ。まったくもってそのままだ。どうしてこれが分からなかったのか」そんな感じです。譬えて言うなら、手品の種明かしをされた時とか、推理小説の終わりにトリックと犯人が明らかになった時のような感じで、超時間的でも超言語的でもありません。

 覚り体験は、無常=無我=縁起と別物ではけしてなく、無常=無我=縁起がストンと腹に落ちることです。無常=無我=縁起と一体です。

 それから、無常=無我=縁起は、なにより自分の無常=無我=縁起です。「私は、無常にして無我なる縁起の現象であった。そのつどの縁に対するそのつどの反応であった。そのつどの煩悩であった。」この納得によって、「守るべき何ものもない」と知り、固くつかんでいた手を離す。これが釈尊の教えだと思います。

 それに対して、自分は置いておいて世界を興味の対象にして、世界は無常だ、無我だ、縁起だ、空だと考えていくと、容易に絶対無分節で時間と現象とを超越したブラフマンの発想に至り、梵我一如思想に陥るのではないかと思います。

 アウラ体験というのは、体験のさなかでは「永遠の現在」と感じられても、往相と還相の間であるのなら、「日常的・縁起的」時間においては、一時的なかりそめのものに過ぎないのではないでしょうか? アウラ体験は、一種の変性意識体験だろうと思います。たいていの宗教に見られるし、ドラッグなど脳が通常でないいろいろな状態の時にも起こり得ることであり、確かに釈尊の教えとは別物だと思います。

 変性意識的な宗教体験を過大に評価することは、梵我一如型の思想と結びつきやすく、またカルト的な傾向の土壌にもなりやすいのではないかと危惧します。

そして、「分節・区別が消失し言語化不能の永遠の現在」というのは、ブラフマンの概念に近いように感じます。谷さんのメールには、全般的に言って梵我一如的な印象を受けました。確かに「仏教」の大半は梵我一如的でありますが、はたして釈尊もそうであったのかどうか…。私は、釈尊のお立場は、梵我一如の徹底的な否定だったと思っています。

 「不生不滅」については、小川一乗「大乗仏教の根本思想」P278から抜粋します。

 龍樹の思想を正しく知りたいと思ったら…「自性をもって」、「確かな本質をもって」ということばを補ったら、正しく容易にわかる…
…不生不滅ということばを、特に中国仏教でたいへんな誤解をしてしまったのです。その誤解というのは生滅変化する根底に不生不滅の実在があるという意味に解釈してしまったということなのです。
 (龍樹の「不生不滅」は、「自性を持って」ということばを補い、「自性を持っていたなら生まれることも滅することもあり得ない」と理解すべきであるのに、「不生不滅の実在」として解釈されている、という意味です。<曽我>)
 <2004,1,26,の清水さんとの意見交換 「真如について 朝日新聞社『仏教が好き!』」をご覧ください。>
 「空」についても、本来は「空っぽの」という意味で、仏教的には「自性の欠如した」「自性に欠ける」という形容詞であったはずが、いつの間にか名詞化され、ブラフマンの新しい呼称になっている、と思っています。

 言語についても、逆の意味で過剰に評価しておられるのではないかと感じます。
 確かに、言葉は、「ものが変わらぬ価値を持って存在している」という思い込みの上に構築されているので、その思い込みを否定する無常=無我=縁起を語ることには困難さがあります。誤解を生まぬよう厳密に語ろうとすれば、きわめて慎重な契約書のように、訳のわからない複雑な文章になってしまいます。しかし、無常=無我=縁起という言葉が、無常=無我=縁起というあたりまえの事態に届いていないかというと、けしてそうではない。十分正確に言い表している。しかし、「ものが変わらぬ価値を持って存在している」という、生得的なものの見方は根深く、凡夫は、なかなかその思い込みから抜け出せないため、いくら聞いても無常=無我=縁起がぴんとこないのです。

 それは、言葉が邪魔をしているのではなく、言葉よりずっと根深いところに原因があると思います。「ものが変わらぬ価値を持って存在している」という受け止め方こそが、無常=無我=縁起がなかなか分からず、執着を繰り返す原因です。それは、生物が、多様で変化する環境の中で、自分にとって同じ価値を持つ事物をカテゴリー化して捉え、すばやく対応して、生き延びるために必要とした能力・反応パターンでした。従って、言葉よりもずっと古くから始まっており根深いのです。

 真の原因を知らず、言葉を過大評価して、言葉が犯人だと決め付けると、「言葉の分節作用を停止すればよい。そうすれば、あらゆる区別を超越した「一者」に出会う筈だ。それはすべての区別を超越する「一」であるから、私との区別もない」というように、容易に梵我一如思想にたどり着きます。しかし、この展開は、他ならぬ言葉によるところの展開です。言葉によって、言葉を超えた「一」を構想している。その「一」は、真如とか、絶対無とか、法界とか、絶対無分節とか、永遠の今とか、超越即内在とか、離言とか、さまざまな言葉で装飾され、そして、やがてついに変性意識体験でそれを「確認」することになります。しかし、繰り返しますが、他ならぬ言葉による構想です。ちょうど「兎の角」のように。

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 当初はもっと軽い感想のつもりだったのですが、書いていくうちに、くだくだしく相違点ばかりあげつらってしまいました。ご気分を害してしまったかもしれないと心配しています。梵我一如は、釈尊の教えを侵食する最大の敵だと感じておりますので、ついつい熱くなってしまいました。谷さんが書くうちに穏やかで簡潔になられたのとは正反対です。お恥ずかしい。

 またご意見お聞かせ頂ければ幸甚です。

                     敬具
谷 真一郎様
       2006、3、28、       曽我逸郎

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