ニックネームさん 並川孝儀著『ゴータマ・ブッダ考』 2006,1,13,

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並川孝儀著『ゴータマ・ブッダ考』を(パラ見ですが)読みました。
興味深い論が多く、特にラーフラの出生についての指摘には驚きました。
ラーフラという名が釈尊の出家と関係があるという主張は彼以前にも多くありましたが(すでにベックの『Buddhism』でも言っていますね)一族の問題にまで発展させたのは彼が初めてでしょう。
大乗の仏教徒の僕としては、もちろん釈尊は地域、時間、社会的条件に束縛されない普遍的な教えを説かれたと考えています。アートマン論についても言及はされなかったということはありそうですが、人が修行、あるいは涅槃といった超越的なものに至る道を進むためには必ず「自分とは何か、世界とは何か」という主体的な問題が最初にくるように思われます。それをすべてバラモン思想に押し付けることはなかなか難しいでしょう。
さて、目次を見て興味を引いたのは第三章の「原始仏教に見られる輪廻思想」でした。
最古層と古層の韻文経典から、輪廻に関する表現を取り出して、その流れをもとに釈尊の輪廻観を解釈するというものです。著者の結論は否定的でしたが、僕は少なくとも世間的には、釈尊は輪廻思想のようなもの、あの世論を説いたと思っています。しかし僕の中ではまず前提となる条件があって、それは
1仏教興起時代には、業・輪廻思想共に後代のような確定的な基準はなく、漠然と考えられていた。(少なくとも輪廻と業には強い結びつきは無かった)
2釈尊の思想の第一は「現実の重視」である。
というものです。それを前提に並川氏の論文を考えると、僕としてはこの論文にある輪廻に関する表現の流れからは、釈尊の死後僧伽の整備と共に段階的な修行が整備されはじめて、その隙間に輪廻思想が入り込んだように思われるのです。
それでは「釈尊は輪廻を説いた」という主張と矛盾すると思われるでしょうが、輪廻思想を現在一般に考えられている業と結びついた過去・未来・現在の流れとしてではなく、この現実の中で精進し、良き人生を歩むための根拠と考えればもっともな思想であると思うのです。
少なくとも釈尊の思想は僕が見る限り、過去よりも未来に、未来よりも現在に、現在よりも現実に向けられています。現実を重視し、良き未来の実現ために、在家などに輪廻や業の考えと共通する教えを説いたとしても、僕は間違いであるとは思いません。釈尊の悟りが因果の理法、縁起であるならなおさらでしょう。
しかし同時に釈尊の死後に世間一般の輪廻・業の思想が流入してきた、流入させざるを得なかったということもまた事実でしょう。ですから僕としては、証拠などは出せるような意見ではありませんが、初期経典の中には少なくとも2種類の輪廻、業思想が含まれていると考えます。そのように考えれば輪廻思想の肯定、否定の論争も一応の決着が付くかもしれません。

<追記>
本に涅槃についての論考がありました。大変に興味深かったです。しかし一つ疑問に思ったのは、語形の解釈(語根など)に梵語を用いていることでした。これは学問的に語を理解するためには大変に有用なものですが、テキストに使用している初期のパーリの仏典は梵語以前の表現を多く含みます。(水野弘元著『パーリ語文法』参照)パーリ語の原型が一体どの地域の言葉であったかは未だに確定されてはいませんが、マガダ語説はその中でも有力なものです。故に著者がマガダ語に精通していたら問題は全く無いのですが、もしパーリ語と梵語の知識だけで以って初期仏典を言語的に判断しているとしたら多少の疑問が残ります。


曽我から ニックネームさんへ  2006、立春  輪廻

拝啓

 ご無沙汰をいたしました。返事が遅くて申し訳ありません。

>「自分とは何か、世界とは何か」という主体的な問題が最初にくるように思われます。
 そのとおりだと思います。国を捨て、家族を捨てて出家なされた釈尊は、自分とは何か、なぜ自分はこのようであるのか、という問いに苦しみ悩んでおられたと想像します。(ただ、世界については、さほどの興味をお持ちではなかったかもしれません。)
 そして、自分を観察し、分析し、そしてついに「私は存在ではない、私はそのつど縁によって起こっている」ということを発見されました。

 輪廻については、Pannyadhikaさんという方は、生まれ変わりではなく、一瞬一瞬生じては滅する自分という現象の連続のことだ、と主張しておられました。(意見交換のページ参照。ただし、Pannyadhikaさんは、一方で生まれ変わり、転生も肯定しておられましたが、、)

 タイのブッダダーサ比丘はこのように言っておられます。(小論集参照ください。)

 再生は行為(業)をするたびに起こり、その再生は、行為(業)の瞬間に自動的に起こる。世間で一般に考えられているように死後にやってくる再生(生まれ変わり)を待つ必要はない。人が考え行動する時、心は、欲望と執着の力によって自動的に変化し、縁起の法則に従ってすぐさま生まれることになる。再生するために肉体の死を待つ必要はない。この真理は、仏教の真の教えとして、(すなわち)生まれ変わるべき我(attA)は無いと説く本来の初期仏教の核心の原理として、認識されねばならない。死後の再生という考えがどのようにして仏教に忍び込んだのか、説明することはむずかしいし、我々はそんなことに拘らう必要はない。("Kamma in Buddhism"より)
 私も、「今の自分という反応は、未来の自分という反応の反応の仕方への最大の縁である。今の自分が未来の自分に大きな影響を与える」と考えます。今の自分の反応をできる限り整えることで、未来の自分がなるべく苦を作らないようにする。それが戒だと思います。犬や馬を訓練するように自分を調教しなさい。そのように釈尊は説かれたと思います。

 ただ、まぁおそらく、釈尊も、当時の常識である輪廻転生を無邪気に前提としている人に対しては、輪廻転生を前提にして何かを説かれたことはあっただろうと想像します。しかし、輪廻転生を説く為に輪廻転生を説かれたことはなかった筈です。輪廻転生は、無常=無我=縁起に矛盾しますから。

 またご意見お聞かせください。
                              敬具
ニックネーム様
           2006年 立春          曽我逸郎

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