nagareさん 「無執着」への疑問 2006,1,9,

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拝啓

 初めまして、教職に身をおくnagare(HNで失礼します)というものです。以前から仏教には興味がありweb上のあるいくつもの仏教関係のサイトをめぐるうちに、曽我さまのHPを見つけ、最近では毎日のように拝見させていただいております。原始仏教や無我、縁起、空などの曽我さまのご考察を参考にさせていただき、長年疑問に思っていた、仏教の理解が深まり大変感謝しております。ありがとうございます。しかし、仏教は難しいと感じております。ああなるほど、とわかったと思えば、するとこれ矛盾するのでは?と思えたり、ああ、そう考えるのか?と思えば‥全く違っていたりして‥。しばらくいろいろなサイトをめぐったり、本を読んだりしていましたが、どうもすっきりしなくて困ってます。
 曽我さまにとってきっと簡単なことと思いますが、お教え願えれば幸いと存じます。よろしくお願いします。

◯無執着は文化を否定しないか?

「子ある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。
 人間の執着すうるもとのものは喜びである。
 執着するもとのもののない人は、実によろこぶことがない。」

「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。
 実に人間の憂いは執着するもとのものである。
 執着するもとのもののない人は、憂うることがない。」

(スッタニパータ 第一蛇の章 ダニヤ 33-34)

 有名な引用なので説明はしません。このブッダの言葉は真理であると思うのですが、しかしそれだから執着はいけないのであるとなると、疑問が起きてきます。
 子を喜ばない人が子を大切にできるだろうか?物に喜びを感じない人が技術を向上できるだろうか? そして、憂いがあるから、そうならない為の智慧を働かせるのでないか?執着すればこそ、現代の文化、科学・技術が生まれ、向上したのではないだろうか?と
 現代の文化をおおまかにつかむことなどできませんが、少なくとも現代日本において、さまざまに大切にされてきた文化、物作りしかり、和の文化しかり‥
それぞれに執着を以て後世に伝えられてきた文化‥それ自体を「執着はいけない」の一言でかたづけられるのでしょうか? わたしなどは[プロジェクトX] などの「もの」にこだわり続けた人たちを紹介する番組を見るだけでも感動してしまいます。我欲とは離れた形の執着がそこにあるように感じられるからかもしれません。同じ執着といっても何に執着するによって随分生き方に違いがあるように感じます。仏教ではそうした違いも認めないのでしょうか?全て執着であり、、無我でないということで一緒なんでしょうか?
 そこら辺が、わかってないいので、無我とか無執着とかの仏教を実践したらもしかすると、現代社会すら形成できないのではとか極端な考えも自分の中に出てきてしまいます。‥出家主義というのか、みんな世捨て人になったら社会はどうなるんだろうとか、考えてしまいます。昔のインドの人たちは出家者に供養をすることで、来世の福運を積むとかの輪廻思想を信じていたから、供養することが常識だったようですが。今の日本だったら、どうなんだろうとか?、、。
もし輪廻思想を信じていなかったら、ブッタは何を根拠に供養を受けていたのかな?とか、、。
 多くの先哲達が仏教の素晴らしさを伝えてきておりますのに、どうも基本的なことを自分がわかってないのではと思います。どうかご教授をお願いいたします。

敬具


曽我から nagareさんへ 梵我一如型思想による執着の拡大解釈 2006,2,3,

・・・(nagare様。頂いたメールのアドレスへ「返信」しましたが、エラーで返送されて戻ってきました。このサイト上で読んで頂けるとうれしいのですが、、)

拝啓

 メール頂戴しました。返事が遅くてすみません。今、来年度の村の予算を組んだり、他にもいろいろありまして、踏み込んで考えるゆとりがございません。簡略なメールで失礼します。

 執着については、どうも拡大解釈される傾向があるのではないかと感じています。「守り育てるべき<我>が有る」と思い込んで、そういう<我>を守り育てよう、<我>に益するものを我が物としよう、<我>に害するものを滅ぼそうとする、そういう反応が執着ではないかと思います。

 ところが、おそらくは梵我一如型思想のひとつである無為自然主義の影響だと思いますが、あらゆる努力を執着として否定するという間違った解釈がはびこっています。釈尊は「怠らずに励め」と教えられましたし、戒定慧、八正道に努めてこそ、苦を作らずに生きることが可能になるのだと思います。

 文化とか、科学技術とか、社会とかについては、たいした問題ではないと思います。問題は「苦」です。今生きている人々が苦をつくり、自分を苦しめ、互いに苦しめあっていることが終わるのであれば、その結果として、仮に次世代が生まれず人類が滅亡したとしても、別にかまわないのではないかと思います。逆に言えば、人類が滅亡しないために、人々は苦しみ、苦しめ合い続けなければならないとしたら、大変理不尽なことではないでしょうか。

 まぁ、現実には、残念ながらすべての人が苦の生産を停止することは起こり得ないでしょう。しかし、同時にまた、正しく釈尊の教えを学べば、世俗の仕事をしながらでも、着実に苦の生産を減らしていくことができると考えてます。

 ついでにもうひとこと。無我を「利己心をなくす」というような修身道徳的な意味で捉えているような文章を時々見かけますが、違うと思います。それだと、凡夫は「有我」で、「我」をなくせたら仏、というようなことになってしまいます。
 そうではなくて、凡夫も仏も、等しく無我です。しかし、凡夫は、そのことを知らず、ありもしない「我」を守り育てようとして、苦を撒き散らしている。一方、仏は、自分が無我である(=縁によって起こる無常なそのつどの現象である)ことを正しく観察し納得し、ありもしない「我」を守ろうとせず、苦を作らず、軽安である。
 こんな風に考えています。

 またご意見お聞かせください。
                        敬具
nagare様
       2006,2,3,         曽我逸郎

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