山崎清巳さん 般若心経について(続き) 独語訳も 2003,9,10,

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曽我逸郎様
まず、般若心経を気に入ってます。というより可愛らしいマントラだと言ってもいいのではないでしょうか。
般若心経のドイツ語訳をもって、何人かのドイツ語系の人たちと話してみました。漢訳の般若心経ではドイツ人達と般若心経について話すのは無理ですから、サンスクリットをドイツ語に訳してがんばってみました。涅槃(ニルバーナ)やお経(スートラ)や呪文(マントラ)などの言葉を知っている人もいます。また、般若心経自体、ドイツ語や英語に直すのはあまり違和感がないようですが、日本語に直すと、日本語では論理をごちゃごちゃとこねると、うっとうしくなるようで、あんなふうな訳になりました。ドイツ語訳の方が日本語訳より原文のニュアンスは多く残っていると思います。しかし、論理をごちゃごちゃとこねない日本語には日本語の良さがあり、どこかを押すと、そこが引っ込んで他のところが出る。また他のところを押すと、同じようになる。そうするうちに、開き直って曽我さんではありませんが、自分の般若心経を作り出す。僕はまだ自分の般若心経ではなく、最も責任を回避した形で、僕の得意な方法ではありますが、原文に沿った形で日本語に直す。それでやめてしまいます。般若心経を論理学的に見ると、あれはナンセンスです。色が空で、空が色だ。色→空、空→色。主語と述語を入れ替えたら、普通はどちらかが、論理学的には意味をなさないはずです。そこが僕は好きです。
般若心経は、三つの部分からできている。
第一、このお経はすごい修業をした仏陀が、きびしい修業の中でつかんだ真言だ。
第二、色が空で、空が色だ。そこで空の詳細を説明をする。ほら何もないだろう。あると思っていた物は。
第三、すべての苦痛がなくなる、素晴らしいマントラだ。だからしっかり唱えよう。
だからではありませんが、大体、風呂の中で一日に2?3回は唱えています。通勤途中や帰宅の途中バス停から家までの間に2回ほど。玄関に入るときも、唱えていたりするので、妻には変な感じがしたようです。しかし、それくらいしないと、やっぱり覚えられません。非常に気分が悪いときなどに、唱えると気分が持ち直すこともあります。何回か父母が祀られている仏壇の前で唱えましたが、変な気分です。サンスクリットで唱える般若心経は、死者や先祖のためというより、自分のためのような気がします。
最近出版された「ヒンドゥー教」という本が中公新書から出ました。これを読むと、バラモン教やヒンドゥー教の影響が仏教に加わっているようです。仏教はインド生まれなのです。ヒンドゥーの中にも色々な行者がいて、ピンからキリまでいる。日本人は、ピンでもなければ、キリでもない。ピンにもキリにもなれない。曽我さんの般若心経を頑張られるのがいいと思います。少なくとも、僕は曽我さんの般若心経を手本にしたのですから。
これから、うまく行くかどうか分かりませんが、世界最古のパーニニの文法を勉強しようと思っています。そこに僕の道があるかもしれないので。
山崎清巳
追伸:漢訳の般若心経は非常にうまく訳されていると思います。特にリズムがいいのではないかと思います。三蔵法師に感謝。

ドイツ語訳を送ります。(曽我注記:ドイツ語のHTML化におかしなところがあるかもしれません。あったら曽我のミスです。)

Das Sutra der Relativitaet
Was ist das Wissen ueberhaupt?

Was der Buddha durch den strengen Asketen gefunden hat: Die fuenf Wesen, die es gibt, sind leer.
In dieser Welt ist die Farbe leer und die Leere Farbe. Die Farbe ist nicht anders als Leere, die Leere nicht anders als Farbe. Was Farbe hat, ist leer. Was leer ist, hat Farbe. Gefuehl, Gedanke, Tat und Bewusstsein sind leer. In dieser Welt sind alle Worte leer. Nichts entsteht, nichts vergeht, nichts ist schmutzig, nichts ist sauber, nichts ist leer und nichts ist voll.
In der Leere gibt es kein Gefuehl, keinen Gedanken, keine Tat und kein Bewusstsein. Keine Augen, Ohren, Nase, Zunge, Koerper und Seele.
Keine Farbe, Stimme, keinen Geruch, Geschmack, Tastsinn und keine Worte.
Die Welt, die man sieht, ist nicht die Welt, und die Welt, die man denkt, ist nicht die Welt.
Es gibt nicht Bewusstsein, noch Nicht-Bewusstsein. Das Bewusstsein wird nicht vernichtet, das Nicht-Bewusstsein auch nicht. Und niemand wird aelter werden und sterben. Und Altern und Sterben werden nicht vernichtet. Es wird keinen Schmerz, keine Ursache, keinen Untergang und keine Vernunft geben. Kein Bewusstsein und keinen Besitz.
Bemueht euch, nach Erleuchtung zu streben! Wenn eure Seele wirklich frei wird(Nirvana), habt ihr nichts zu fuerchten, dann habt ihr keine Wuensche mehr. Dann macht es keinen Unterschied mehr, in der Vorwelt, in dieser Welt oder in der Nachwelt zu wohnen.
In der Erleuchtung wird alles klar und die Seelen werden frei.
Worte(Mantra), die uns die Erleuchtung bringen, Worte, die uns klar machen.
Die grossen Worte, die uns frei machen. Die hoechsten Worte, die unseren Schmerz beruhigen.
Wahre Worte, die keine Luege haben, machen die Seele frei.
Gehen wir, gehen wir, gehen wir hinueber! Lasst uns hinueber gehen!
Wir koennen allem danken, wenn alles klar wird und unsere Seelen frei werden.


再び、山崎清巳さんから 2003,9,10,

曽我様
今日、改めて曽我さんに送ったドイツ語訳を見直していたら、タイプミスを一つ見つけました。

ドイツ語訳を訂正します。(以下略。曽我注記:上記は訂正済みです。)
山崎清巳
追伸:題のDas Sutra der Relativitaetは「相対性のお経」ということになります。
このお経はいったい何を言いたいんだろう。と考えているとき、「すべては相対的である」ということだろうか。人は、まず絶対的であることから始まる。生まれたばかりの乳児にとって母親は絶対です。そして、自分の立場は他人の立場に比べて絶対です。他人の立場に立ったものの考え方をしなさい。とはよく言われますが、他人一般というものはない。それなら自分と意見を異にするある特定の個人の立場ということになる。たったその人一人の立場になるのにも大きな努力をしなければならない。そんな人の立場を一つ、二つと理解していく。こういう作業は、一つの絶対性を否定し、次に次の絶対性を否定し、いつかは相対性という考えに行き着く。このお経はそんな解釈もできる、ということから、Das Sutra der Relativitaetと名付けてみました。相対性理論と重なって面白いでしょう。


山崎清巳さんへの返事 2003,9,11,

前略

 般若心経ドイツ語訳、ありがとうございます。
 ドイツ語は、一応やりましたが、ズルして要領だけで単位を貰ったので、まったく自信がありません。ギブアップです。

 「相対性のお経」というのは、おもしろい指摘だと思います。

 ただし、すみません、私は、やっぱり般若心経に否定的な気持ちがあるので、相対性についても山崎さんとは違って否定的なニュアンスで考えてしまいます。般若心経を評価しておられる山崎さんにとっては、気分を害される意見かもしれませんが、それが目的ではありませんので、「こういう見方をする奴もいるんだ、ふーん」といった感じで、読み流していただければ結構です。

 釈尊の仏教では、諸行無常といわれ、我々自身を含むすべては、縁によって変化し、縁によって終息する時間の中の無我なる現象であったのに、般若心経では、無常性や時間性が抜け落ちているように思います。無常も時間もなく、相対が互いに補い合う調和的世界が、般若心経の空の世界、般若波羅密多の心無ゲー礙の世界ではないでしょうか?

 「無常性や時間性は日常の世界であり、般若心経は、それを超えた悟りの境地を描いているのだ。悟りの境地は、一瞬が即無限なのだ。」
 こういう主張もしばしば見かけます。しかし、こう主張する人の肉体も刻々と死につつあります。生きて何かをするのは、すべて時間の中のことです。一瞬即無限で心無ゲー礙の調和的世界は、いってしまえば一時的なトランス状態でしかないのではないかと思います。

 おそらくご気分を害してしまった事と思います。すみません。建設的な意見交換を望んだだけで、他意はありませんので、どうかお許し下さい。

 甘えついでにもうひとつお願いを。お時間の許す時に「ゲー礙」のサンスクリットの単語と意味を教えて頂ければ大変うれしいです。気になっています。

 自分勝手なことばかり書いておりますが、ご寛恕下さいませ。

                          草々
山崎清巳様
        2003,9,11,       曽我逸郎

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